2017 年 10 月 1 日

・説教 マルコの福音書2章1-12節「隔ての壁を打ち破り」

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2017.10.01

鴨下 直樹

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 いよいよ10月を迎えました。私たちは今から500年前にドイツで起きた出来事のことを覚えながら、今月4日間におよぶ宗教改革記念連続講演会のために今、備えています。このために素晴らしいチラシをつくり、今年のはじめからプロジェクトチームを作って話し合いを重ねて、準備してきました。一人でも多くの人に福音を知っていただきたい。主イエスと出会っていただきたい。私たちはそのように祈り求めながら6万枚のチラシを配ろうとしています。まさに、人々と教会との間に立ちふさがっている壁を何とか打ち破りたいとの情熱をもって、そのために祈っているわけです。

 また、あさっての10月3日は、マレーネ先生とAさんの誕生日ですが、東西ドイツの壁が破られてドイツが再統一した記念の日です。もう、統一されて27年を迎えようとしています。私は、今から20年ほど前にもドイツを訪ねる機会がありまして、その時旧東ドイツを訪ねた時のことを今でもよく覚えています。そのころのドイツは、まだ貧しかった東ドイツを受け入れたことで経済が落ち込んでしまい、経済的に苦しい時でした。観光地であっても、町の中心はすぐに綺麗になったのですが、一歩外に出るとまだ壁が崩れたままで、なんとなくくすんだ色の町という印象が強くて、町の中心と郊外のギャップの大きさに驚いたものです。そういう中で、少しずつ落ち着いて来たと思ったら今度は大勢の難民の受け入れです。けれども、壁が崩壊したことによって、人々はこの国に期待を抱きながらやってくる。そして、苦しい中にも、多くの人々を受け入れようとしているこの国の根底には、500年前の宗教改革の出来事があるのだと思わずにはいられないのです。

 さて、今日はマルコの福音書にしてはすこし長めの箇所を選びました。1節から5節までのところには中風の人の癒しの出来事が記されています。興味深いのは、ここで主イエスはまたカペナウムに戻って来たと書かれています。どうも、このマルコの福音書の書き方は、時間的な順番というよりは、ここで書こうとしているテーマによって、時間が前後しても同じテーマのものを集めたようです。というのはこの2章から3章の頭の部分までに5つの論争の物語がまとめられているのです。このことは少し覚えておいてくださると、この後の助けになると思います。

 この5つの論争の最初の出来事として、ここ、シモンたち主イエスの弟子たちの郷里での伝道のことが記されています。1章の終わりのところでは、主イエスはシモンの家に集まった多くの人々を残して、別の町に行ってしまわれます。自分本位な癒しの求めに応えることを主イエスは拒まれたわけです。ところが、主イエスはまた、カペナウムにやってこられたのです。ここでは、癒しのためではなく、主イエスは「みことばを話しておられた」と2節にありますから、今度は語ることが中心であったようです。しかも、この時、カペナウムの家には人が入りきれず外にあふれるほど集まったようです。そういう中で今日の出来事が起こったわけです。3節。

その時、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。

とあります。
 中風というのは、脳梗塞とか、脳出血とかいう病気のために後遺症として体に麻痺が残ってしまう病のことをさします。最近ではあまりこういう言い方はしないので、少し分かりにくくなっていますが、ここに出てくる中風の人は、このために寝たきりになっていたようです。

 ここで、驚くのはこの四人の友達の取った行動です。あまりにも大勢のひとが来ていて家に入れなかったからといって、人の家の屋根に上って、屋根をはがして病人を吊り下ろすというのは、ちょっとした事件です。病気を治してほしいにしてもほどがあると言いたくなります。

 先ほど、マルコに先立ってイザヤ書44章9-20節を読みました。ここには、間違った信仰とはどういうものかということが書かれています。木を切り倒してきて、ある部分ではそれで暖まり、他の部分で料理をし、そして、別の部分は刻んで像を作りあげて「さあ、私を救ってください、あなたは私の神だから」と言う。ここには、人間の自分勝手さが描きだされています。自分で作り上げたものを神様にして、「自分を救って欲しい」などというのはできそうもないことです。けれども、世の宗教というものはそういうていをなしているわけです。自分でやれるところはやるけれども、最後は神さまお願いしますという。けれども、この心は結局全部自分自身に向いているわけです。

 この四人の友達のしたことは何がすごいのか、凄まじいまでの身勝手さとも見えるのです。ところが、主イエスはこの姿をご覧になって、そこに「彼らの信仰を見た」と書かれているのです。これは、ちょっと驚きです。ひょっとするとこの中風の人がどうしても連れて行って欲しいと命令して、それに逆らえなかったのかもしれない。あるいは、反対に、いや、そこまでしなくてもいいからと断ったけれども、どうしてもと言って連れ出したのかもしれません。その事情は書いていない以上分かりません。けれども、主イエスはここに信仰を見出されたというのであれば、それは何であるのか、私たちは知りたいと思うのです。

 彼らは、主イエスとこの中風の人を引き合わせたいと願いました。どうしてもそうしたいと願ったのです。たとえ、人の家の屋根をはがしたとしてもそうしたいと思った。まさに、壁を破らせるほど、主イエスに引き合わせたいと思ったのです。ここに信仰があるというのです。

 私たちはここで改めて問われているわけです。私たちの信仰はどうなのかと。私たちは友達を主イエスに引き合わせたいと思って、主の前にお連れしたいと思っているのかどうか。お連れした時に、主はそこで御業を行ってくださる。それは、主のしてくださることです。けれども、私たちは、この四人の友達のように、主と引き合わせたい。そうしたら、きっと主は救ってくださると思えるほどに主イエスのことを知っているのか。まさに、そのことが問われているのです。

 その時、主イエスは何と言われたのでしょうか。ペテロのしゅうとめやらい病人の時のように、手を差し伸べられたとは書いていません。ただ、こう言われました。

子よ、あなたの罪は赦されました。

5節にそう記されています。

 主は病をいやされたのではなく、罪の赦しを宣言なさいました。どうしてなのでしょうか。実は、このことがこの後の論争のきっかけになっているわけです。実は前回の箇所はこの伏線になっているわけです。この前にしるされていたらい病人の癒しの時に、主イエスはいやされた人に祭司のところに行って、体を見せなさいと言われました。この時代イスラエルには神殿が再建されていました。人々はレビ記の戒めにしたがって病がいやされ、神との関係にふたたび生かされることを祭司が宣言する必要がありました。けれども、ここでは、まさにそちらの問題、病の癒しというのは、神との関係の回復があってはじめて人間性を回復することができるわけです。

 病気が問題なのではなく、神との関係こそが人間の本質的な問題であることを当時の人々は理解していたはずでした。というのは、病気になると、それは刑罰であるかのようにこの時代の人々は考えていたからです。病気が回復しても、神との関係が回復されないならそこに救いはないのです。

 もうずいぶん前に書かれたものですけれども、土肥健郎というカトリックの精神科医がおられます。「甘えの構造」とか「表と裏」というような本を書かれた方です。この方があるところで病気について書いている文章があるのですが、そこでこんなことを書いておられます。「人間の不幸を見つめさせ、それを受け入れさせるのは良い。しかし、人間にあまりにもすぐに幸福を約束する宗教は危険である。なぜなら、心の病気を誘発するからだ」というのです。

 これはとても興味深い指摘です。多くの人は何か困ったことが起こると、神に祈るということをするわけです。まさに、宗教というのはそこでこそ人を助けると思っているからです。けれども、そこで安易に、問題解決や、病気の癒しがそのまま幸福につながるように話す。それこそが宗教の役割だと思ってしまう。けれども、それはさらに人を苦しめることになるのです。

 問題は、健康になることではありません。問題が解決することでもないのです。神の前に罪が赦されて、神との関係が回復することこそが、本当の救いの道なのです。そこにしか、人の本当の幸いの道は見えてこないのです。

 しかし、このことはなかなか理解できないことです。すると、まさにちょうどその時、そこに居合わせた律法学者が心の中で理屈を言った。

「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」

7節です。

 罪の赦しを宣言するなど神への冒涜だと言ったのです。それは、そうです。もし、主イエスがそれを言い始めると、もう神殿も祭司もいらなくなってしまうのです。一応、この前の部分では主イエスはイスラエルの制度そのものはお認めになっているわけです。けれども、ここでは、そこから一歩議論を進めているのです。罪の赦しの宣言は祭司の仕事です。祭司は、その権能を神から託されています。

 そして、この後、主イエスはこの律法学者が心の中で考えたことを急に言葉で言い返されます。「罪が赦された」というのと、「起きて、寝床をたたんで歩け」というのとどちらが易しいと思うかとお尋ねになられています。これは、この律法学者が口で罪の赦しを言うくらいのことは簡単だけれども、実際に治っていないではないかと考えていたからです。
 そして、主イエスはここでこう言われました。
10節

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

 ここで大事なことは、主イエスは御自分のことを「人の子」と言われました。もう時間がないので詳しい説明はできないのですが、この言葉はダニエル書7章13節14節に記されている言葉で、神の権威をさずかって地上においでになられる方のことを「人の子」と呼んでいる箇所があるのです。律法学者ならすぐに分かることです。主イエスはここで、ご自分が預言者によって語られた天の権威を持っておられる「人の子」という約束の方そのものなのだと宣言なさったわけです。

 ここのところから、主イエスはただ、人の願いに応えに来られたお方ではなくて、まさに聖書が語り続けて来た約束の救い主そのものなのだということが明らかにされていくのです。そして、ここのところでは、まさに、この中風の人が立ち上がって去って行く姿が示されているのです。

 ここに出て来た四人の友達は主イエスにはきっと病を癒すことがおできになると信じて屋根を破って、主イエスと中風の病の人を引き合わせました。その時、主イエスはただ、病の癒しだけではない、この人が本当の幸いに生きることができるように罪の赦しを宣言してくださいました。そして、それだけではなく、主ご自身のことがさらに良く分かるように、ご自分のことを示してくださるのです。

 ドイツのライプツィッヒにある教会を訪ねた時です。そこの教会は長い間、祈っていました。ドイツの東西を分け隔てている壁が打ち破られるようにと。その小さな祈りはしだいに大きくなって、この教会の人びとの祈りがやがて大きな運動になっていって、ついに、ベルリンの壁が崩壊するまでに至ったのです。もちろん、他にも何千人、何万人という人たちが祈っていたと思います。主は、ご自分の信頼し、祈りをささげる者にご自分を示してくださいました。

 私たちも、私たちの回りにいる人たちのために祈ることが大事です。そして、主イエスと出会うことができるように導くこと。その時に、主は無理だと思っていた隔ての壁を破らせてくださるのです。それは、まさに主の御業です。私たちはそう信じて、今月行われるこの伝道講演会のために祈りたいと思います。そして、主がその人たちの心を開かせてくださって、罪を赦してくださることを。その人が本当に喜んで神との関係を回復することができるようになることを願って祈り続けていきたいと思うのです。

おいのりをいたします。

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