・宗教改革500年記念連続講演(2)「改革者たち、現る!―聖書の中に揺るがない真理を見出した人たち」
2017.10.12(木)
鴨下 直樹
1.宗教改革の背景
宗教改革を理解するためには中世の世界観を理解する必要があります。そこでカギになるのは「ルネッサンス」というこの時代に起こった大きな運動です。塩野七生という古代ローマを中心に物語を書き続けている作家がいます。この塩野七生さんは、ルネッサンスについてこう定義しています。「ルネッサンスとは、見たい、知りたい、分かりたいという欲望の爆発である」と。なぜそうなったのかというと、この時代、世界を支配していたキリスト教会が1000年にわたって中世の人々を支配してきたと言っていいわけです。
このローマの支配というのは大変長い年月、ヨーロッパを中心とした当時の世界を支配し続けてきました。この間に、さまざまな制度を整えます。そして、教会も大きな権力をもつことになります。また、神学もすこしづつ整えられていきました。こうして、ローマによる支配が長く続くと、そのように、あらゆるものが整ってくるわけですが、色々な所でほころびも生じてきます。こうして、この中世と呼ばれた時代、教会が世界を支配していくことになるのですが、この時代の一般の人々、民衆はそれぞれに発言する権限を持っていません。ですから、教会のすることはそのまま従うしかなかったわけです。
宗教改革の百年ほどまえまでは、ローマ教皇(私たちの耳慣れた言葉でいうとローマ法王といいます)はキリストの代理人と考えられていました。そのために、教会の代表であるローマ教皇の発言は中世の世界にあって唯一の意思決定の機関でした。しかし、ウルバノ6世が教皇に選ばれると大きな変化が起こります。このウルバノ6世は性格に欠点があり、枢機卿に怒りをいつもぶつけていたため、枢機卿は教皇選挙を無効としてクレメンス7世を擁立します。当時、フランスから支持を受けたクレメンス7世はそれまでローマにあった教皇庁をアヴィニョンに移します。ところが、ウルバノ6世は退位しなかったために教皇が二人になってしまいました。
こうなってしまうと大問題です。意思決定の機関が二つになってしまったわけで、どっちに従うかという完全な勢力争いになってしまうからです。それで、この問題を解決するために教会の会議で決定しようということになります。ここから、ローマ教皇が権力をもつのではなくて、教会の会議によって決定しようという考え方がでてくることになります。この会議の結果、イタリアのピサで、新しいローマ教皇、アレキサンデル5世という新教皇が誕生することになります。ところが、結果的に前と同じことがおこるわけです。前の二人の教皇が退任しなかったため、3人の教皇が誕生するという事態が起こってしまったのです。
ところが、アレキサンデル5世は間もなく死に、新しい教皇としてヨハネ23世が教皇に即位、このヨハネ23世の時にドイツのジギスムントがローマ皇帝となり、このジギスムントの力を借りてヨハネ23世はコンスタンツで公会議を行い、これでこの時、ローマのウルバノ6世、フランス、アヴィニョンの教皇クレメンス7世、そして、ヨハネ23世の三人が退位したために、新教皇マルチノ5世が即位し、問題は終わりを迎えます。
こうして、次第にローマ法王の権威から、教会会議へと権威が移り変わる発端となるのでした。このごたごたの間に、教会の指導者たちは自らの権力回復と教皇領を回復するために莫大な財産を費やします。そして、その教会財政を回復させるために金銭問題が大きな影を落とすことになるのでした。
その一つが「聖職売買」です。教皇庁は聖職者の任命についての権限をもっていたために、2000程の職を売買にかけ、一番高値を付けた者を任命するという形で金銭を得るという方法をとりました。そのために複数の職務につく者があらわれ、また、地域によっては誰も聖職者がいない地域もできてしまいました。どうして、こういうことが起こったかというと、この時代の貴族は世襲で、長男にはその土地を引き継ぐことができても、次男や三男に後を継がせることができないために、お金のある貴族たちが、自らの子どものために聖職の地位を購入するということが行われていったのでした。
こうなると、教会の司祭たちは信仰教育を受けていない者たちが多く現れて、教会でミサを行うようになっていったのでした。こういうお金で聖職に就くということができてしまうと信仰は二の次です。この時代聖書はラテン語と決められていましたが、ラテン語を知らない司祭が次々に登場します。そうすると何を教えているのか、何を信じているのか分からない。ですから、礼拝は単なる儀式ですし、お金さえ入ればいいというのが実態でしたから、この時代の世界というのはどんどん腐敗していってしまうわけです。
こうして出てきたのが「贖宥状」の発行だったわけです。私が子供の頃、学校では「免罪符」という言い方をしましたが、この翻訳が大きな誤解を招くことになったようです。「免罪」というのは「罪を免じる」ということですが、そうではなくて、教会にはこれまでの聖人たちが積み上げて来た「徳」が多く積まれているので、それを「贖宥状」を通して、教会に余っている徳を、お布施をすることで分け与えるという発想がうまれたわけです。教皇はそれらの徳を分け与えることができるとして、この販売を行ったのでした。このために教会の財政は大いに潤ったのでした。
こうしたなかで、教会ではさまざまな「再生」を求める人たちが出てくることになりました。この改革運動の動きはそれまで抑圧されていたありとあらゆる面で一斉に湧き起り、「ルネッサンス」(フランス語で「再生」)という大きな運動になってあらわれるのでした。その中でも大きな意味をもつことになったのが、ヴァラの記した「コンスタンティヌス寄進状考」(1440年)という一冊の本でした。これは、「コンスタンティヌスの寄進状」といわれるものを、ローマ大帝のコンスタンティヌスが定めたと長い間考えられていたものの再考を促す書物でした。それは4世紀にローマをキリスト教国教としたコンスタンティヌス大帝が、すべての土地の正統的な所有権をローマ教会に寄進したと教会ではこれまで理解されていました。そのために、それぞれの国の国王よりも、教会が、そして、教会の代表であるローマ教皇がその支配下にあるすべての土地の権利を持っていたと考えてきたのです。このために、教会はすべての土地の所有権を主張することができたし、そのために国王であっても、教会の主張をみとめなければならなくなっていました。しかし、ヴァラの、この「コンスタンティヌスの寄進状」なる文章は11世紀に造り上げた偽物であることを証明したのでした。
その他にも、美術、建築、音楽、哲学、倫理学、あらゆる面でユマニスト(人文主義者)とよばれる人が登場し、これまでに世界の常識をもう一度見直して、新しい発見に結びつく大きな運動となっていくのでした。これがルネッサンス運動ということになっていくわけです。最初にお話しましたように、ルネッサンスというのは起こるべくして起こったわけですが、それまで、教会が人々から考えることを奪って、上が決めたことにただ従っていればいいという世界の中で、「見たい、知りたい、分かりたいという欲望を爆発させた運動」となっていったわけです。それは、芸術や文学、思想、哲学、建築、多岐にわたりますが、もちろん、その波は信仰にも押し寄せることになっていったわけです。
2.ルターの誕生
そういう歴史の中でルターが誕生します。ルターが生まれたのは1483年11月10日ということになっていますが、厳密には分かりません。この時代の人々は生まれた日の聖人の名前がつけられることになっていました。それで、聖マルチンの日に生まれたというのを母親が覚えていて、それで、11月10日ということになっています。母親の記憶では11日がマルチンの日となっているので、その前の日に生まれたから単純に10日となっているわけです 。ところが、調べてみますと、聖マルチンの日は11月12日です 。しかも、この時代は聖人の日というのはカレンダーの三分の一ほどしか埋まっていません。その前の聖人は聖ジダコと言って11月8日です。つまり、11月9日から12日の中に生まれた人はみんなマルチンという名前になる可能性があったわけですが、その中のどれかというのが、正確なところです。もっとも母親が11月10日と言っているわけですから、この日を疑う必要はないわけですからどの記録にも11月10日ということになっているわけです。
ルターの父親はハンス。母親をマルガレーテといいます。両親は鉱山で働いていたようで、色々な地域を転々としていました。どうも、この時代は末子相続という習慣があったようで、長男であった父ハンスは鉱山を巡って渡り歩いて、銅の採掘で当時有名だったアイスレーベンにいた時に、ルターが生まれたようです。一時的な寄宿所で生まれたのですが、これがルターの生涯を物語っているといえると思います。というのは、ルターは最後にこのアイスレーベンで亡くなることになるのです。ルターの父ハンスはこの後、生涯の間に何度か引っ越しをして、最終的にはマンスフェルトという町に移って、とうとうこの町で生涯定住をすることになります。ルターはいつも、仕事をもとめて旅する親と一緒に色々な街を転々とする生活だったようです。この最後のマンスフェルトという町に住んでいたころにハンスは町の4人の地域代表に選ばれていますから、その地域でしっかりと働いたことが認められたようです。
この両親は長男のルターに期待をしていたようで、5歳から学校に通わせます。学校といっても日本で言う寺子屋のようなところだったようです。まだこの時代、子どもに学問を学ばせる親というのは多くはありませんでした。そういう意味でいえば、ルターの親は教育の大切さを知っていた人だったと言えると思います。ルターは度重なる引っ越し先でも学校に通い続けアイゼナハまで勉強に行きます。このアイゼナハの学校ではその後、作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハが学ぶことになります。そして、大学はエアフルト大学で学ぶことを選び取ります。最初に入ったのは教養学部でルターはそこで一年半で学士(バチュラー)の資格を得ます。その後で二年半におよぶ修士課程に進みます。
この後、ルターは法学部に進むのですが、この時に衝撃的な出来事が起こります。一時的に家に帰っていたルターはエアフルトの大学に戻る旅の途中で激しい雷に見舞われます。この時、ルターは雷に打たれて地面に投げ出されたと伝えられていますが、詳しいことは分かりません。ルターは思わずこう祈ります。「聖アンナ様、お助け下さい、私は修道士になります」と。アンナ様というのはマリヤの母親で、鉱山で働く人たちの守護聖人と考えられていたようです。ルターの母親は「何か困ったことがあったら、聖アンナ様におすがりするのよ」と言っていたようで、それをそのまま祈ったのです。ルターが修道院に入ることになったきっかけはこの出来事でしたから、それこそ、何か特別な宗教的な熱心さがあったというよりも、当時の迷信的な信仰をルターも持っていたということのあらわれと言っていいと思います。
その後、ルターは二週間考えて、「アウフグスティヌス隠修修道会戒律厳守派」という極めて厳格なアウグスティヌス修道会に入ります。これが、1505年7月、ルターが21歳の時のことです。ルターはこの時、二つの考え方を土台としていたとルター派の神学者、徳善義和先生は言われています。それは、ルターは、父親が無一文で自ら生活できるように努力するという姿勢を見てきましたから、生活を自分で立て上げて、少しでも下から上の生活を目指していくという感覚が染みついていたと考えられます。その一方で、エアフルトの大学での学びを通して、人間が下から上に這い上がろうとする努力の空しさ、挫折というようなものを味わって、行き詰まりを味わうということになるのでした。それが、ルターのエアフルトでの教育学の学びから神学を学ぶなかで培ったものといえるのだと思います。このエアフルト大学のアウグスティヌス修道会でルターはこの後、非常に大きな悩みに苦しむことになるわけです。
3.ルターの悩み
「ルター自伝」という本が、今年宗教改革500年を記念して再販されました。この「ルター自伝」というのは、ルターが自分で自伝を書いたというより、「卓上語録」と日本語では言いますけれども、ルターがテーブルを囲んで談話をした仲間四人との会話が記録されているもので、その中から、自伝といえるエピソードを集めて記したものです。その中に、「誘惑」という項目があります。ルターがエアフルトの修道士の頃に、この誘惑といつも戦っていたのは大変よく知られた話です。まだ、修道士のころですから、カトリックの信仰に生きていた時です。
カトリックには今でもそうですけれども、「告解」といって、教会の中につくられた小さな部屋のなかで罪を告白し、「聴く罪」と書きますが、聴罪師に罪を聞いてもらうわけです。そこでルターの恩師であったシュタウピッツ博士に、何度も告解をしていました。ルターが誘惑と感じていたのは何かというと、性的な誘惑だったのではないかとつい考えてしまいがちですが、そういうことではありませんでした。
ルターの悩みはこういうことでした。自分の罪を裁かれるのは神である。ならば、神は罪人の敵ではないかという疑問がいつも頭に思い浮かぶのでした。そういう気持ちが心に浮かんでくると、そのつど、ルターは告解を受けにシュタウピッツ先生を呼んでは罪を聞いてもらったわけです。そうするとシュタウピッツ先生は、「そんなことで悩んでいるのはお前だけだ」といつもルターをあしらい続けていました。シュタウピッツがどう応えてもルターは納得することができません。それでも、ルターは来る日も、来る日も同じ誘惑を感じるたびに、シュタウピッツに告解を頼んだようです。ある人はここまでくるとルターはうつ病になっていたのかもしれないと言う人がいるほどです。
そうして何度も何度も同じ罪の告白をし続けている、ある時ついに、シュタウピッツ先生はこう答えます。「あなたは愚か者だ。神があなたに怒っているのではなく、あなたが神を怒っているのだ」と答えたのです。ルターの卓上語録の中にその時のことが記されているのですが、ルターはこのシュタウピッツ先生の言葉は「福音発見以前に聞いた素晴らしい言葉だった」と述べています。 ルターはこの恩師シュタウピッツ先生の言葉によって、それまでのカトリック教会の教えに対して怒りを覚えていたことの気づきとなっていったのでした。
4.ルターの詩篇講義と福音の再発見
エアフルトで神学の学びをしたルターはヴィッテンベルグへと移ります。これが1511年です。このヴィッテンベルグはまだ新設してまもない(10年にも満たない)大学で、そこでルターは神学博士の学位をとります。それが1512年10月です。神学博士になると大学で神学の講義を行う事ができるようになります。それで、詩篇150篇全編の講義をすることになります。この時の講義の特徴は、すべての詩篇がキリストの祈りとして読んでいったということ。そこで問題になったのは詩篇31篇1節の「あなたの義によって、私を助け出してください」という言葉でした。それまでルターが教えられ、目指してきたのは「神の義に叶う者となることができるように」ということでした。
その理解からすると、この詩篇は「神の義をもって私たちを裁くことはやめてください」なら理解できるのに、「神の義をもって私を助けてください」とあります。それまで、ルターにとって神の義は、助けではなく、神の義しさの基準と考えていました。この「助けてください」はラテン語のウルガタ訳では「解放してください」という意味に訳すことが出来る言葉でした。「神の義が私を解放する」。この言葉に困惑したルターは晩年になってこの時の思いをこう書き記しています。
「しかし、いかに欠点のない修道士として生きたにしても、私は神の前で全く不安な良心をもった罪人であると感じ、
――良心が出て来ますね――
私の償いをもって神が満足されるという確信を持つことができなかった。だから、私は罪人を罰する神の義を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。そして、瀆神(とくしん・神を汚すこと)というほどではないにしても、神に対して怒っていた。あわれな、永遠に失われた罪人を罪ゆえに、十戒によってあらゆる種類の災いで圧迫するだけでは神は満足なさらないのだろうか。神は福音をもって苦痛に苦痛を加え、福音によってその義と怒りをもって、私たちを更に脅したもうのだからと、そうつぶやいていたのである。私の心は激しく動き、良心は混乱していた」。
(『ラテン語著作全集』第一巻 「序文」1545年)
このように、誘惑の時からの問いが、詩篇講義をきっかけにして改めて神の義について考えるという機会となったことが、ここからよく分かるのです。そして詩篇71篇2節で同じ言葉がふたたび出てきます。このところに来る直前に、ルターは「神の義」についての新しい理解をするようになります。
このルターの文法上の新しい理解を徳善先生はつぎのように説明しています。「神の義」の「の」はそれまで「属格」「所有格」と理解されてきました。神のところにある義の水準とそれまで理解されてきました。この所有をあらわす「の」は特別な「の」なのではないか。これは「おとうさんのプレゼント」の「の」とおなじで、お父さんが所有していたプレゼントだけれども、そのプレゼントは他の人にあげてしまうと、その貰った人のものになる。一度その行為が行われると、所有者はもらった人に移る。神の義は、神の手をはなれて与えられた人のものになる、そういう「神の義」なのだということを発見するのです。
その時の気づきになったのがローマ1章17節の「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されている」という聖書のパウロの言葉です。福音とは神の義のことだというパウロの主張を理解することができなかったルターは、こうして、神の義は自分を苦しめる恐ろしいものから、自分を救う神からの贈り物と理解できるようになっていったのです。そして、この城の経験を「塔の体験」とか「福音の再発見」と言うようになったのです。
5.そして宗教改革へ
ルターが95箇条の提題を掲げるためにヴィッテンベルグの城教会を訪ねて来ました。この教会の入り口の壁のところに、ルターはこの文章を掲示したのが、宗教改革のはじまり、今から500年前の10月31日のことです。
ルターはこの文章の冒頭でこのように書き記しました。
「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが『悔い改めよ・・・」と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」。
ルターはここで95箇条にわたるそれまでの教会のしてきたことを問いかける文章を掲示しました。ルターとしては、まさかこの文章がこれほど大きな当時の教会の反対運動になるとは思ってもみませんでした。それほどに、聖書を忠実に理解すればこうなるという、いってみれば当たり前のことの確認をしたかったのでした。ところが、これが次第に大きな問題へと膨れ上がっていくことになるのでした。
ルターのこの冒頭に掲げた文章を読むと、ルターがここで提示しているのは、悔い改めの勧めと言うことができるわけです。そして、このルターが語った悔い改めこそが、福音の再発見ということができるわけです。ルターは修道士時代、何度も何度も告解をしました。罪の告白をしたのです。理由は、神の要求される義に到底到達することができないと悩んだためです。こんな無理難題を押し付けてくる神は、人間の敵なのではないか、そのようについ神のことを考えてしまう自分を責め、また神に対して怒りを覚えたのです。
ところが、博士と認められ、学生に教えるために詩篇の研究をしたことがきっかけとなって、「神の義」とは何かということを考えるようになりました。そして、ローマ人への手紙に書かれている「なぜなら福音のうちには神の義が啓示されている」という1章17節の言葉を考えていた時に、神の義というのは、人間を裁くための規範ではなくて、私たちにプレゼントとして与えられるものだということに気づきます。その時以来、悔い改めはルターにとって神の前で自分のみじめさを突き付けられるものではなくて、神の赦しと出会うという経験となったのでした。
この95箇条の提題にルターが記した「信じる者の全生涯が悔い改め」というとき、そこには私たちの全生涯が神の前で赦されているのだということを語ろうとしたのです。ところが、このルターの主張は当時腐敗していたローマカトリック教会に対して明確な「No」を突き付けたこととなり、この後、ルターは次々と討論の戦いへと追いやられていくのでした。
6.ハイデルベルクとライプツィヒでの討論
95箇条の提題を出した後、ルターは次々とその真偽をただされる討論の場へと連れ出されます。最初に訪れたのはハイデルベルクでの討論です。これは1518年4月。ルターが所属していたアウグスティヌス修道会はドイツの総会をハイデルベルクで開きます。それで、ルターが問題にした、教会に溜められている聖人の徳を分け与えることができるという贖宥状の販売の問題に触れないで、一般的な神学討論をするようにと命じられます。そこで問われたのは、人間の自由意志の問題でした。ルターは罪の中に生きている人間の自由意思は罪に支配されているために、人間はその自由において悪いことしか選ばないという人間理解を展開します。そして、そのような自分自身に絶望している人間は、キリストの恩恵をいただかなければならないというキリスト中心の神学を主張しました。これがルターの「十字架の神学」と言われるものです。
この時の討論を聞いた人の中から3人の宗教改革に身を投じる人々が出てくるようになるのですが、その一人がストラスブールのあたりで活躍することになるマルチン・ブッツアーです。こうして、ルターは少しずつ理解者を得ることになるのでした。その後もルターは次々に審問会議にかけられることなります。1518年10月にはアウグスブルグ審問が行われ、1519年7月にはライプツィヒで討論が行われます。アウグスブルグ審問では教会の人びとからの審問でしたが、このライプツィヒでは一般の知識人からの審問であったということができます。
このライプツィヒでルターと戦ったのはヨハン・エックです。このヨハン・エックという人物は当時ドイツ全土に名を響かせた討論家でした。この討論においてヨハン・エックは勝利します。というのは、エックはルターに「教会の歴史の中で、教皇も教会会議も誤りを犯し得ることがある」と言わせることに成功するからです。この時、ルターはこうも付け加えました。「あのコンスタンツ公会議が異端者であると宣告して火刑に処したヤン・フスの教えの中にすら、福音的なものがふくまれている」と。
このコンスタンツ公会議(1414-18年)というのは最初に説明した教会が3人ものローマ法王を生み出してしまったときに、この3人を退任させたときの会議でした。この公会議にヤン・フスを異端者として宣告し火刑に処したのですが、このヤン・フスはまさに腐敗していた当時の教会を内部から改革しようとして、そのために殉教した宗教改革の先駆者であった人でした。しかし、このライプツィヒにおいて、ルターが異端者と同調したということは、ヨハン・エックとしては大成功なのであり、ルターは異端者であるという認識を教会の内外に知らしめることに成功したのでした。
7.ヴォルムスの国会喚問
こうして1521年4月、ルターはついにヴォルムスの国会の喚問をうけることになります。この時、ルターはカトリック教会から3度目の破門宣告を受けていました。当時のローマ皇帝カール5世はルターの旅の安全を保障し皇帝勅令によるルターの国会喚問を行います。ルターはこの喚問で3つの質問をうけることになります。
皇帝の顧問官がルターに問いかけます。一つの机の上に高く積みあげられたルターの著作(当時グーテンベルクの印刷機の発明によってルターの本は瞬く間に出版されて人々に読まれるようになっていた)を指差し、「これはおまえのものか」と問いかけられます。ルターは「私の名によって出版されているものであれば、たいてい私のものです」と答えます。すると続けて顧問官が尋ねます。「この本の中に書かれていることはおまえの考えであるか」するとルターは答えます。「誰かが故意に、この本の中の何かを、悪意をもって書き込むようにしたというようなことがなかったとするならば、ここに書かれているのはみな私の考えです」。ルターに顧問官は尋ねます「この本に書かれていることを撤回するか」これが三度目の問いかけでした。
ルターはしばらく考えた後にこう答えます。「24時間の猶予を得たい」と。翌日、ルターはまた国会の喚問に出廷します。記録者はこの時のルターの様子を「弱々しく小さく見えた」と記しています。そして、前日と同じように3つの問を問いかけられました。ルターはここで、少し行き過ぎた激しい言葉を使っているかもしれないけれども、この本に書いたものは取り消す必要がないものであるということを述べていきます。けれども、そこで顧問官はルターにこう尋ねます。「あなたの答えは核心に触れていない。以前に公会議で異端とされ、決定されたことについて、改めて疑いを示してはならない。だから、取り消すつもりがあるのか、ないのか、細かいことを言わず単純な答えをあなたから得たい」そう言って、イエスかノーかを聞き出そうとします。そこでルターはこう答えるのです。
「皇帝陛下や諸侯閣下が単純な答えを求めておられますので、私も細かいこと抜きで他意なしにはっきりと申し上げます。
聖書の証言が明白な理由をもって屈服させられないなら、私は自分のあげた聖書の言葉に従います。私の良心は神のことばにとらえられています。なぜなら私は教皇も教会会議も信じないからです。それらがしばしば誤ったし、互いに矛盾していることは明白だからです。
私は取り消すことができませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも得策でもないからです。神よ、私を助けたまえ。アーメン」
ルターのこのことばが印刷されたときに、こう付け足されたと教会史家のベイントンは言っています。「我ここに立つ、私はこうするほかはない」と。
こうしてルターはこの国会において教会会議よりも、ローマ教皇の発言よりも「信仰の良心」ということの方が優先されると宣言します。このルターの言葉から近代という時代を迎えることができるようになったと見ることもできます。それまで、個人の意思などというものは、何の価値もないとされていた時代に、ルターは当時の最高の権力を前に自分個人の良心、心の決断の方が尊重されるべきだということを宣言したのです。これが、今から500年前の出来事でした。しかも、ルターがここで大事にしたのはただ個人の決断とか個人の意思ということではなくて、「神の言葉に捕えられた良心」ということを語っているわけです。
神の言葉によって確信をもったならば、何があろうともそれを信じて突き進めということなのです。ルターはそのためにその後聖書翻訳をします。まず聖書を読むことができなければ神の前で自由に個人が決断することができないからです。
現代に生きている私たちは、今、どんなことでも当たり前のように自分で判断することができています。そして、その一つ一つの小さな決断の重みはそのまま自分自身で責任を負うことになっているわけです。何を着るか、何を食べるか、どう生きるか。その一つ一つの決断をとやかく言う人はいません。個人の自由なのです。この個人の自由という決断は、ルターに言わせれば、すべての人間は悪いことを選び取る決断をするわけです。悪いことというのは、ルターの理解でいうと、神を悲しませる決断ということです。道徳や倫理的な悪いことという意味ではありません。けれども、この神を悲しませる決断というのは、結局倫理的にも道徳的にも間違った判断をしてしまうことに結びついているのです。何が正しいことかを知らなくて、正しいことを行う事はできません。では、どうしたら正しいことが分かるのか。それが聖書だということになるわけです。
私たちが今、味わっている個人の自由というのは、本来、神の前で聖書から教えられて決断する信仰の良心的な決断からはじまっています。私たちが認めようと認めまいとそうなのです。
そして、聖書の神は、人が正しく生きることを願っておられるので、イエス・キリストをこの世界におつかわしになりました。イエス・キリストの生き方を見る時に、神がどういう生き方がよいと考えておられるかが分かるのです。では、イエス・キリストはどう生きたのか、それは、簡単にいうと、相手がどういう人であったとしてもその人を愛して生きるという生き方です。そして、その愛が届くなら、愛を知った人は、その人自らも愛に生きるようになると、神は信じておられるのです。この生き方が広がっていく時に、世界に人を受け入れ、赦す愛が広がっていく時に、この世界も、私たちの生活も美しいものへと変えられていくことになるのです。ルターの宗教改革というのはまさに、そのための戦いであったのです。