2017 年 10 月 15 日

・説教 ローマ人への手紙1章17節「Reformation~私たちの改革」

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2017.10.15

鴨下 直樹

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 先週の木曜日から6回にわたって宗教改革記念講演会を行ってまいりました。今朝で最後の7つの講演がすべて終わります。私たちの教会としても、これほど長い期間にわたって講演会を持つというのは初めての試みでしたが、本当に大勢の方々が集ってくださって、素晴らしい講演を聞く機会に恵まれたと思っています。この6回の講演を通して、本当に色々な角度から宗教改革について知る機会を与えられましたし、本当に、宗教改革という出来事が、まさに今日の時代を築きあげてきたのだということを知ることができました。

 今朝、私たちに与えられている聖書の言葉は、まさにこの宗教改革者マルチン・ルターが福音を再発見する、いわゆる「塔の体験」の引き金となった聖書のみことばです。今朝は、この聖書の言葉が私たちに何を語りかけているのかを少しの時間ですけれども、一緒に考えてみたいと思っています。

 一日目の夜に、私は宗教改革者ルターをとりまく当時の状況とそこでルターが何をしたのかということについてお話しました。ルターははじめ、エアフルトの大学で教育学を学び、その次に政治学を学ぼうとしていたところでしたが、嵐の夜、雷に打たれた時に、「聖アンナ様、私をお助け下さい。修道士になります」と誓います。それで、その後、修道会に入りまして、神学の勉強をするようになったわけです。「聖アンナ様」と叫んでいるところからみて、ルターも当時の一般の人と同じ程度の聖書知識しか持ち合わせていなかったことがよく分かります。その修道生活でルターは神と向き合って生きることになるわけです。今までそれほど神を意識して生活していなかったルターにとって、この修道院での生活は、いままでの生活と一変したはずです。神とはどういうお方か、そして、自分とは何者なのかということをいやでも考えなければならなくなるのです。

 二日目のキリスト教美術の時にも、アルブレヒト・デューラーの自画像の話を古川さんがしてくださいました。自画像を描くという習慣自体、まだ誰もやっていないなかで、デューラーは自分を見つめて、自分を描いたのだそうです。その生涯で何度も何度も自分を描いているということでした。こうして、あの有名なデューラーの自画像が登場してくるわけです。それは、まさに自分がイエス・キリストであるかのように描く自画像となるのです。今の時代でもそうだと思いますが、その頃も多くの若い世代は自分とは何者であるのかということについて考えたのです。

 自分とはいったい何者なのか。私はどう生きるべきなのか。どうあるべきなのか。何のために生きているのか。この問いかけは、今日でも、例えば中学生の時代などに問いかけることがあると思います。あるいは、大学生に進む時、または進路を決める時など、自分の人生の決断をするときに、人は自分を正しく理解したいと考えるわけです。けれども、自分の仕事が決まってしまうと、いつのまにか次第にそういうことを考えることはやめて、生活することに埋没していくのが私たちの現実的な姿です。そして、気が付くと、人からどう見られているかを気にするようになったり、自分のやりたいことをやって生きられればよいと考えるようになって、自分は何者であるか、どう生きるのかという大切な本質から目を背けて生きるようになる。そして、難しいことはできるだけ考えないようして、私たちは普段生きているわけです。

 ルターはこの神と向きあった生活をする中で、神が義なるお方であるということについて考え、悩み、躓きを覚えます。それは、昨日の河野先生のテーマでもあったのですけれども、今日はまさに、そのところが問題となっています。つまり、神は義なる方であるから正しく生きることを要求されている、と考えるようになっていくわけです。神は正しいお方、義のお方なので、人間はその神からの要求に応えて生きる必要があるのだと考えるようになっていったわけです。残念ながら、この時代、教会では神のことをそのように厳しい神であると教えてきてしまったわけです。いつの間にか、聖書の真理、神の本質が忘れ去られてしまって、自分たちが正しく生きることが大事で、そのためには徳を積むような生き方、立派な生き方をしなければならないのだと考えるようになっていくわけです。

 というのは、世界中の宗教というのはほぼこの考え方です。そして、そういう世の中の宗教観というものが、次第に教会の中にも入りこんでしまっていたわけです。理由は、この時代、聖書がラテン語で書かれていたからということもあります。また、教会の聖職者が腐敗しきっていたからということもできるわけです。そういうわけで、聖書を正しく理解するということができなくなっていたわけです。

 そういう中で、ルターはこの聖書に出会います。少し前のところからお読みしますと、「ローマ人への手紙」1章16節にこう書かれています。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

と書かれているわけです。あまりここでこの言葉を丁寧に説明する時間がありませんが、ここに書かれていることを簡単にまとめると、「福音は救いを得させる神の力である」。別の翻訳の聖書(新共同訳)では「救いをもたらす神の力」と書かれています。
 これは、使徒パウロが教会に宛てて書いた手紙です。ここで、パウロは、福音は神の力だというのです。神の力によって救われるというわけです。この言葉を読むと、よく分かるわけです。

 自分の人生を何とかしたいと思っている人にとって、その自分の生活から救い出されるためには神の力が必要だというわけです。病気の人であれば、病気が治るための神の力。大きな困りごとを抱えている人には、困りごとを何とかひっくり返すことのできる神の力というのが福音、良い知らせであるということが、よく分かるわけです。何か大きな政治的な力が働いて、困った問題を解決してくれるとか、お金の力でとか、奇跡の力でとか、そういうのは私たちもよく分かるし、救いといった時に、私たちはそういうものをイメージするわけです。私たちが困ったときにする神頼み、お祈りというのはほとんどそういう解決です。

 ところが、問題は、今日の箇所17節です。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されている」とパウロは書いたのです。ここで一気に分からなくなるわけです。福音、良い知らせである「神の力」の内容というのは、「神の義」のことだというのです。神が人間に要求する正しい生活、それを示す「神の義」では、救われるどころか、反対に苦しむことになるのです。神の義ではお腹がいっぱいにはならないのです。この17節にきてなんだか急に煙に巻かれたような観念の話になっているわけです。
 ルターが生きていた当時、特にルターにとって「神の義」というのは、神から「ちゃんとやれ」と言われているのと同じような意味しかないわけですから、何を言っているのかよく分からなかったのです。「正しく生きろ」と崇高な道徳を要求する神の義のどこが「福音」、「良い知らせ」なのか。ルターは理解できずに思い悩むのです。

 今の時代に生きている私たちにとって「神の義」は神の力なのでしょうか。これはクリスチャンであっても同様に問いかけられていることです。私たちが求めているのはそういう救いなのでしょうか。神の正しさで、お腹が膨れるのか、それで私たちの生活は何とかなるのか。ルターはそこで考えたのです。一所懸命考えたのです。そしてその次に書かれている聖書の言葉に注目しました。そこにこう書かれているのです。

その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

 「信仰に始まり、信仰に進む」という別の翻訳では「神の義は、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と訳しています。ルターはここを読んで、義というのは、私たちを苦しめる「ちゃんとやれ」という神からの要求なのではなくて、信仰によって私たちの生涯がキリストに包まれるということではないのか、ということを発見するのです。この発見を「塔の体験」とか「福音の再発見」と言うようになりました。

ルターはあとで、この箇所を自分の説教の中でこう語りました。

「だから、キリストの義は、キリストを信じる信仰によって私たちの義となり、キリストのものはすべて私たちのものとなる。いや、むしろ、キリストご自身が私たちのものになるのである」。

 また、こうも言っています。

「これは無限の義であって、一瞬にすべての罪を呑み込んでしまうものである」

と。これこそが、神の義、神の福音の力だと言っているのです。神の義というのは、私たちの罪、足りない部分を、全部包み込む神からの恵の贈り物であることをルターは発見したのです。

 昨日の午前中、河野先生が「聖書が語る神」というテーマでお話しくださったのですが、この神の義というのは、神との関係の回復であると言われました。また、ここには「罪」という言葉が出てきました。昨日、河野先生は、この罪というのは悪いこと、過ちを犯したというように理解されてしまうけれども、聖書の語る罪というのは、神との関係が途切れてしまったことを、聖書は「罪」と呼んでいるのだと説明してくださいました。

 神との関係が途切れてしまったので、自分とは何者なのかということが分からなくなっているのです。神との関係が切れてしまっているので、みんな誰の応援もなく、一人で必死に生きなければならなくなってしまったのです。ですから、そういう中で、一所懸命生きてきたことを、「罪」と言われてしまうと、私たちとしては何だか残念な気持ちになります。そういう生き方を、何か悪いことでもしてきたかのように感じ、悲しくなるのは当然なのだと思います。

 神の義というのは、私たちのこれまで生きてきた一つ一つのことを呑み込んで、それこそ私たちの全部を受け入れて、神の前に今まで生きて来た事も含めて、あなたの人生を神がそのまま引き受けてくださるという神の義だというのです。そうして神との関係が回復されるというのです。私たちの今まで生きて来たもの、いままでのことがすべて神の前で良いものへと変えていただける、これが、神が私たちにプレゼントしてくださる神の義なのだということなのです。それこそが、神の力、神からの良い知らせ、「福音」なのです。そして、ぜひ、この福音をみなさんに受け取っていただきたいのです。

 宗教改革の三大原理といわれるものがあります。もうこの3日間の間に何度か語られてきました。「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」。この三つが、宗教改革によって確認された福音の真理だと言われています。「聖書のみ」というのは、それまでの教会の慣習とか、伝統というものが大事にされてきたり、教会会議の決定やローマ教皇の決定が最も大切な権威とされてきたのですが、ルターは、教会の最も大切な権威の源は「聖書のみ」だといったのです。

 そして、聖書を通して、私たちは神からの良い知らせ、福音を受け取る。受け取ろうとすることを、「信仰」と呼ぶのです。昨晩、渡辺先生が「教会ってどういうところ」というテーマで大変素晴らしい講演をしてくださいました。教会に入る条件はただ一つ、主イエス・キリストのこの福音を受け取ることだけです。それを「信仰のみ」というのです。ただ、私たちに求められているのは「信仰のみ」、主イエス・キリストを信頼すること、主イエスの十字架と復活を受け取ることです。

 そして、最後に、この人を救う神の恵み、取り計らいによって、人を義とする、神の力の業である「神の義」をいただくことができるのです。つまり、神との関係が回復するのです。この神の目にふさわしくない者をも、まるごと受け入れてくださることを、「恵み」と言います。

 プロテスタントの運動というのは、こうしてみると、聖書を読んで、そこから主イエスを知って、信じるようになると、神の恵みによって、神の義をいただくことができるようになるということです。とてもシンプルなことですが、宗教改革以前の教会はそう言えなかった、そのことが見えなかったのです。けれども、宗教改革を通してそのことが見えるようになると、どんどん神さまのことが分かるようになってくるのです。神に愛されているということが分かるし、神の恵みとはこんなにも幸せを感じることなのだということが分かってくるのです。

 宗教改革というのは、まさにとても単純なことの発見だったのです。リフォメイション、「改革」などという言葉を高らかに掲げると何やら大げさなことのように感じるのですが、実はとてもシンプルなこと。聖書を読んで、主イエスに信頼していく。その小さなことの繰り返しが、実に素晴らしい神の恵みを味わえることになる。そのことをくり返し続けていくと見えてくるのです。私の生活の中に、神が恵みを、祝福を与えていてくださることが。どうか、この神の恵みを味わっていただきたいのです。

 このあと、「くすしきみ恵み」という讃美歌を歌います。おそらく世界中でもっと有名な讃美歌です。今回の講演会の一日目の冒頭はこのお話から始まりました。ですから、このお話でまとめるのはちょうどよいのだと思います。この曲を作った人は、ジョン・ニュートンといいます。万有引力の法則を発見した人ではありません。いつも、私は聞くたび間違って覚えている人がいるだろうなと思うので、あえて言うのですが。それはアイザック・ニュートンです。ジョン・ニュートンは奴隷船の船長をしていた人です。奴隷としてどこかから人間を連れて来て、それを裕福な人に売ることを生業にしていた人です。

 ニュートンはある時、船に乗っていた時に大嵐にあい難破しかけ、それがきっかけで子供の頃熱心だった母親の信仰を思い出して回心します。そして、その後、神学校を出て牧師になります。ニュートンは「自分のような道を踏み外した人間であっても、神が私を救ってくださるというのは何という恵みだろう」という感謝の思いを賛美歌にしました。それがこの曲です。くすしい恵み、驚くばかりの神の恵みは、ただ、主イエス・キリストが自分のために何をしてくださったかを、まさに信じる時に与えられるものなのです。神は、私たちのこれまでの生き方すべてを受け取ってくださって、神の目に叶うものだと私たちを受け入れてくださるお方です。主イエス・キリストの十字架と復活はまさに、私たちを受け入れてくださる神の愛そのものなのです。

 このあとで心からこの讃美歌を歌いつつ、私たちの主イエスに心を向けていきたいと思います。
お祈りをいたしましょう。

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