2018 年 3 月 30 日

・受難日礼拝説教 ルカの福音書23章44-49節「いのちを委ねる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 22:09

2018.03.30

鴨下 直樹

 今日は、受難日。主イエスが十字架につけられたことを覚える日です。そして、主イエスの生涯の頂点とも言えるものなのです。主イエスの人生の頂点、それは主イエスが十字架につけられて殺されるという出来事なのだということは、とても不思議です。

 主イエスが死ぬ時、全地が暗くなったということがここに記されています。日蝕がおこったのではないかとか、砂嵐のせいで暗くなったのではないかとか、色々な説明がありますが、どれも確かなものではありません。ただ、旧約聖書の中には、神のさばきの時に暗闇がおとずれることが色々な箇所で書かれています。ただ、私たちは「神のさばき」という言葉を聞くと、罰される立場で考えてしまいますから、恐怖感しか感じられません。けれども、神のさばきというのは、神の愛がみえるようになるということです。

 たとえば、親が子どもを叱るときのことを考えてくださるとよく分かると思います。怒られる子どもの立場からすれば、親が怒り出すと震え上がるほど怖いのかもしれません。けれども、それは同時に子どものことを愛している親の思いが、そこには込められているわけです。もちろん、人間の親は完全ではありませんから、嫌なことがあってつい子どもに当たってしまうというようなこともあると思います。けれども、この世を愛しておられる神は、八つ当たりのような怒りを人に示しめされることはありません。「神のさばき」というのは、ただ、ひたすらに人を愛してくださっていることがここで示されることになるのです。

 それで、45節で

太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。

とあります。普通に聖書を読んでいるとあまり意味が分からないのでつい読み飛ばしてしまうところですが、この言葉はとても大切な意味が秘められています。神殿というのは、一番奥に至聖所という部屋があります。その部屋を隔てているのが幕です。そして、この幕の内側には大祭司しか入ることが出来ません。

 至聖所というのはどういう場所かというと、この至聖所で焚かれる香の煙の中に神が存在されると言われていました。つまり、神がおられる場所というのが、この至聖所だったわけです。そして、今、主イエスが十字架で息を引き取られる時、今まで神と人を隔てていた隔ての幕が引き裂かれたと記しているのです。それは、つまり、神とこれからは直接、顔と顔を合わせることができるようになったということです。神は、ここで主イエスの死を通して、私たちに救いの道を開いてくださったのです。これこそが、「神のさばき」の意味なのです。

 こうして、神は主イエスの十字架の死を通して私たちと直接顔を合わせて祈りに耳を傾け、私たちの罪を赦し、私たちに救いの道を示してくださったのです。

 こうして、主イエスは十字架の上で最後の言葉を叫ばれました。46節です。

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 主イエスはここで、自分のいのちそのものを父なる神の御手に委ねました。委ねるというのは、全部任せてしまうということです。自分のいのちそのものを任せてしまう。もちろん、教会ではそういつもいいますし、神さまにすべて委ねたら安心ということは、理屈としてはよく分かるのだと思います。けれども、たとえば自分が病気になるとき、あるいは、自分の願っていることが明白な時というのは、委ねると簡単に言うことはできません。私たちは委ねるということを本当に理解するために、毎日小さな練習をすることが必要なんだと思います。委ねるといことはどういうことか、身をもって知っていくことが大事なのです。

 もう、何年も前に一冊の本が出版されました。「眠りの神学」というタイトルの本です。タイトルから見て神学書だと思って、探してみると小さな説教集で、見つけた時は驚きました。礼拝で語られた礼拝説教のタイトルが「眠りの神学」という名前だったのです。その説教は簡単に言うと、「眠り」というのは自分の活動をすべてやめてしまうこと。一度眠ってしまうと朝が来るまではもう、自分のいのちを神に委ねるしかない。その間にミサイル攻撃が行われればもう朝起きるということは当たり前のことではないのです。私はこの本を読んだときに、現代の私たちにはあまり理解できない感覚なのかもしれないと思いました。

 私たちにとって、夜眠り、朝を迎えるというのは当たり前のことです。けれども、戦時中を経験した人にとってはそうではないわけです。「眠る」というのは信仰の決断なのだということが言えるわけです。

 実は、この主イエスが祈られた祈りは、ユダヤ人の夕べの祈りとして知られた祈りでした。詩篇31篇5節にある言葉です。ユダヤ人たちは夜寝る前に、「父よ、わが霊を御手に委ねます」と祈って眠りについたというのです。毎日、夜寝るたびに、自分は今から動けなくなる、その間私のいのちを神の御手に委ねるから守って欲しいと祈ったというのです。

 一日の終わりに、夜の闇に包み込まれる時に、人々はこの言葉を口にしたのです。そして、その祈りの言葉を、主イエスは十字架でご自分のいのちの尽きるその瞬間にも、この祈りを口にされたのです。
 毎日眠りにつくように、今日命が尽きても私のいのちのいのちは神のもの、神の御手にある。そう信じて託したのです。決して、主イエスの十字架の死は、断末魔の叫びと共に、壮絶な生涯の幕を、不本意なままで幕引きしたというようなことではなかったのです。

 
 この主イエスの姿をじっと見つめていた人物がいました。百人隊長です。主イエスを十字架刑にするように命じたローマに仕える人です。もちろん、この百人隊長は自ら望んでこの出来事の中に身を置いたのではありませんでした。本人の意思とは関係なく、この出来事に巻き込まれていった人です。

 聖書にはこういう人たちがいつも描かれています。はじめは自分とは関係のない中立な立場で出来事を見ているのです。ところが、見ているうちに、少しずつ関心を持つようになって、気が付いてみると、主イエスに捉えられてしまうのです。
 47節にこう記されています。

この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。

 いつものように、この人は、ローマの手によって処刑される人を見ていただけなのです。ところが、主イエスの一連の流れを見て、また、このお方の人となりに触れて、神を賛美したくなったのです。このような人の死があるのだろうか。処刑で殺される人を見ながら、神を賛美するなどということはありそうもないことです。けれども、このお方は違う。正しいお方が、死を迎えるというのは、これほど安らかなものなのか、ということを百人隊長は知ったのです。

 太陽の光を失った暗やみの中、一人静かに死んでいった一人の人を見ていたにすぎないのです。けれども、このお方の死はそれを見ていた者の心を動かすほどに、そして、神を褒めたたえたいという気持ちを起こさせるほどに、心動かされたのです。不当に裁かれて、殺されたにもかかわらず、主イエスの死は、そして十字架の上の最後の叫びは、いのちの平安を知っている者の死であったのです。

 主イエスの十字架の死、それは私たちのための死、私たちを救うための死です。そうであるならば、私たちも主イエスと同じように死を迎えることができるのです。つまり、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と私たちも平安のうちに死を迎えることができるようになるのです。

 もちろん、それは死の時もいのちを委ねることができるということは、暗闇の時も、不安の時も、病の時も、どんな時であっても神にすべてを委ねることのできる幸いに生きることができるのです。

お祈りをいたします。

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