2018 年 4 月 1 日

・説教 ルカの福音書24章1-12節「イースターの朝」

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2018.04.01

鴨下 直樹

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 イースターおめでとうございます。復活の主の祝福が皆さんの上にありますよう祈ります。

 例年のように、イースターの朝、私たちはともに集まって賛美と祈りをささげ、一緒に朝食をいただきました。ようやく暖かくなってきて、外で過ごすことも楽しくなってきました。ここ数年でしょうか。スーパーのお菓子売り場に行きますと、イースターのパッケージのものを簡単に見つけることができるようになりました。少しでもイースターが多くの人の目に留まるようになることはいいことだと思います。

 イースターってなに?と少し興味をもって検索しますと、すぐに、イエス・キリストの復活をお祝いする日ということを見つけることができます。けれども、ここでちょっと考える人は、死んだ人がよみがえったの?という疑問が出てくるわけです。死んだ人が生き返るなどということは古今東西例がありません。そして、人がよみがえったという歴史的な記述もないのです。ただ、聖書の中には書かれているわけです。そして、それが、今日みなさんと読んでいる箇所です。

 特に、以前からお話していたように、今日から新改訳2017を使うことにしましたので、まだこれまでの聖書をお持ちの方は、ぜひ注意深く読み比べてくださればと思います。

 人がよみがえるというのは、どういうことなのでしょうか。このルカの福音書はこの復活の出来事の第一発見者となったのは女の弟子たちであったということを書いています。しかも、内容を読んでみるとこう書かれています。2017年訳で1節から4節まで読んでみたいと思います。

週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。そのため途方に暮れていると・・・。

 まず、そう書かれています。この短い言葉で色々なことが分かります。主イエスが亡くなったのが金曜日です。土曜日は安息日ですから、当時のユダヤ人たちは安息日に働くことができませんでしたので、埋葬の備えをすることができなかったようです。それで、週が明ける日曜の朝早くに女の弟子たちは遺体に香油を塗って埋葬の準備をするために墓を訪ねたのです。ところが、墓の石、これは日本のような墓石ではなくて、洞窟のお墓ですから、大きな丸い石で蓋をされていたのです。その石が転がされていて、行って見ると遺体がなくて、途方に暮れていたと書かれているわけです。

 そして、この何でもないような記述、主イエスの復活を告げる聖書の記述が、歴史家たちに、これは本当のことだろうと思わせるに十分な証拠となったのでした。

 というのは、この時代、裁判などの証言者として女の証言を採用するということはありませんでした。明らかな差別があった時代です。もし、後に出来た教会がイエスの復活を信じさせようと思ってこう書いたのだとしたら、この証言はあまりにも不利だというわけです。しかも、当の女たちさえも空の墓をみて、主イエスがよみがえったなどということは思いつきもしませんでした。「途方に暮れていた」と書かれているのです。

 香油を塗るための遺体がなくて困った。ここに書かれているのはそれだけのことです。誰かがどこかに運んでしまったのか。そんなことくらいしか思いつかなかったのです。ところが、ここに天使があらわれます。続いてこう記されています。

見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

4節の後半から6節の前半までをお読みしました。先ほど、私は天使と言ってしまいましたが、もちろん彼女たちには天使であったかさえ分からなかったと思います。ただ、天使はこう伝えたのです。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」

 これが、イースターの朝、天使が告げた知らせでした。「生きている方を死人の中に捜すのですか。」実は、このあとの6節の言葉は後から書き加えられた可能性があるので、聖書の注にそのことが記されています。けれども、ここで大切な知らせは「生きている方を死人の中に捜すのか」という御使いの告げた言葉です。

 そして、最後に、その一連の出来事を女たちは

そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。

と9節に記されています。弟子たちに報告したのです。その結果どうなったかというと11節にこう記されています。

この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。

 お分かりのように、イースターの朝、主イエスがよみがえられた時のことを聖書はこのように報告しているのです。もうダメダメです。「使徒たちは、信じなかった。」こうなると、この「使徒」とわざわざ弟子たちのことを権威のある名前で書いているのですが、それはもうただの嫌味としか読めません。使徒と言われるようになった教会で立派な人たち、教会の土台となったような人たちは、女の証言は信じなかったのだ。そう聖書は記しているのです。

 ただ、ここで一つのことだけがはっきりします。主イエスがイースターの朝、よみがえられたということは、信じるか、信じないかということなのだということです。信じるというのは、この天使の言葉である「主イエスは生きておられる方」ということを受け入れるということです。そして、主イエスは生きておられるということを信じる時に、人は死から勝利することができるのです。

 死は、人の生涯をすべて包み込んでしまいます。死んでしまったらすべてが終わりです。どう生きたとしても、それがどれほど幸せな生涯だったとしても死は、人のすべてのものを奪い取ってしまいます。けれども、主イエスは死者のなかに捜すことはできない。死に支配されている者の中にはおられない。主は生きておられる。死に支配されることのないお方として、生きておられる。そのことを信じる。そして、信じて、信仰の歩みは始められるのです。

 イースターはこの世界の希望です。私たちの人生を良いもので支配することのできる唯一のものです。

「ここにはおられません。よみがえられたのです。」

これが、教会がイースターの朝を迎えて生み出した教会の信仰の言葉です。主は死者の中にはおられない。そうではなくて、よみがえられた。死を打ち破ってくださって、暗闇も悲しみも、一切の不安も打ち破ってくださって、私たちに光を与え、希望を与え、慰めを与えてくれるのです。

 このイースターの知らせを、教会はこの朝から今日に至るまで祝い続けているのです。これは、信じるに値する、この世界に必要不可欠なメッセージなのです。

 この最後の12節でペテロは急いで墓に走ったということが記されています。そして、この出来事に驚いた。これが、イースターの朝の出来事でした。信じられない。そして、驚いた。それがやがて信仰へと変えられていくのです。それは当時から今に至るまで変わることのない人の心の流れなのです。そして、信じることができるように、神は聖霊を与えてくださるのです。

 信じられないことは、普通のことです。驚くことも普通の反応です。けれども、それでも主を求めていく時に、信じられないことが、驚きでしかなかった聖書の知らせが、私たちの心にストンと落ちるようになる。そのことが受け止められるように、主はまた私たちに働いてくださるのです。主を求めて生きる時、そこに、光と、希望と、慰めが与えられるのです。

お祈りをいたします。

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