・説教 マルコの福音書8章22-26節「主の恵みを見よ」
2018.07.08
鴨下 直樹
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昨晩、先週から続いた豪雨のために長い夜を過ごした方も多かったと思います。夜中の一時頃だったでしょうか。携帯から避難勧告の音が鳴り響きました。四回か五回は鳴ったでしょうか。眠かったので鳴る度に音を止めていたのですが、最後に見た時には、この芥見地区に避難勧告と出ていて飛び起きました。みなさんのおられる地域も避難勧告が出されたところが多かったと思います。
この教会は芥見南山地区の避難場所に指定されていますので、誰か来るかもしれないということで、すぐベットから出て教会の電気をつけにいきました。深夜のことですから、町の人たちはもうほとんどは眠っています。私自身もどこかから指示があるのかと待っていましたが、何の連絡もありませんでしたので、この地域の一番大きな避難場所である旧小学校の教育センターを訪ねましたが、誰もいません。電気も点かずまっくらで、区長さんだけが立っていました。区長さんの説明では、避難場所は山際にある公民館を今は考えているということでした。教会も用意した方がいいのか尋ねると、分からないとのお返事。
結局2時過ぎに電話が鳴って、避難している方が少ないので、消防署の二階だけで対応するとのことでした。それで、ようやく安心して眠りにつくことができました。津保川が氾濫したとか、長良川が危険水域に達しているとか、いろいろなニュースが入ってきましたが、こうして、今日は雨もあがって、少し落ち着きを取り戻そうとしています。教会では今日の午後からコンサートも行われる予定です。この一日、主が何をしてくださるか期待しつつ、この一日を過ごしたいと思っています。
さて、今日の箇所は目の見えない人の癒しのことが記されているところです。私はこれまでいくつかの教会で牧会してきましたが、その中に何人かの目の見えない人がおられました。ひょっとすると前にも説教で話したことがあるかもしれませんが、その方は、今は60代の方です。私がお会いしたのは今から20年以上前のことですが、当時いた教会に、耳の聞こえない方が来られました。
私と、目の見えない方と耳の聞こえない方で会話をすることになったのですが、途中であることに気が付きました。目の見えない方は、耳は聞こえますから、声で会話をします。耳の聞こえない方とは、私は手話ができませんので、紙に字を書いて筆談で話します。そうすると、このお二人は、直接には一切コミュニケーションがとれないわけです。その時に、話題になったのは、その目の見えない方が学生の頃は、目の見えない人と、耳の聞こえない人とが同じクラスで勉強をしていたんだそうです。当時は盲学校と聾学校は分かれていない時だったそうです。たぶん、まだ40年か50ほど前のことです。
学校を作った当時の文部省はそういうことさえも想像できなかったわけです。想像力がないというか、肝心なことが見えていない、分かっていなかったわけです。今は、もちろん、そういうことは改善されて、それぞれのための学校が作られるようになりました。今では当たり前のことも、そのことが明確に分かるまでというのは、案外時間がかかるもののようです。
今日の聖書の箇所はとても短い箇所です。ベツサイダにいた、目の見えない人が癒されたという奇跡が記されているところです。そして、この次のところでは、このマルコの福音書の中心と言ってもいいと思いますが、弟子のペテロが主イエスのことを「あなたはキリストです。」と告白します。主イエスがどういうお方なのかがやっと分かったということが書かれているのです。
先週、礼拝の後で役員会が行われました。今、私たちの教会では毎週第三週の礼拝を伝道礼拝にしています。教会に来られて間もない方々にできるだけ聖書を分かりやすく知って欲しいと願って、具体的な分かりやすいテーマの説教を選んでいます。来週も伝道礼拝なのですが、そのテーマは「悔い改めと反省はどう違うか」です。すると、ある方から、「こういうテーマは教会が教えたいことであって、教会にいつも来ていない人がそれを見て、教会に来たいと思うようなテーマではない。伝道礼拝というならもっと人の心に寄り添ったテーマがいいのではないか」という話が出ました。
そんな中で、少し前に出版されてみなさんにもお勧めしましたが『わかるとかわる! 《かみのかたち》の福音』という昨年の宗教改革記念講演会の講師にお招きした河野勇一先生の本のタイトルなんかはいいタイトルだという話になりました。この悔い改めと反省ということで言いたいことは「分かったら変わる」ということなんでしょ、というわけです。あまりこのテーマでお話すると、来週の説教で話すことがなくなってしまいますので、このくらいにしたいと思いますが、言葉が硬すぎると、見えるものも見えてこないということを、わたし自身も改めて考えさせられました。分かっているつもり、見えているつもり、こういったことが私たちの周りには沢山あるのだと思います。
本当に分かるという経験は、分かっているつもりのときには見えてきません。主イエスの弟子たちにとってもそうです。主イエスは素晴らしいお方ということは分かっているので、弟子たちは、主イエスに従っていきました。この時点で、どれほどの期間、主イエスと弟子たちが一緒にいたのかははっきりと書かれていませんが、弟子たちはそれなりに納得して、主イエスに従っていたわけです。けれども、主イエスがどういうお方なのかということについては、まだ分かっていませんでした。それは、この奇跡の出来事の後で明らかになるわけです。
先週の説教は、この前のところで8章の1節から21節までのところでした。説教題を「何を見ているのか」という題にしました。それは、まさに、今日の箇所と、この後の聖書の箇所のテーマとして引き継がれているのです。先週お話したところの中で「目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか」と18節にあります。見えていない、聞こえていない、分かっていないということを弟子たちは主イエスから指摘されました。では、見えるというのはどういうことなのか。まさに、今日の箇所はそのことを明らかにするためにここに置かれているということが出来るわけです。
主イエスのところに、一人の目の見えない人が連れて来られます。聖書を読む私たちにとって、気になるのは、この癒しの出来事は、目の見えない人が願ったことなのか、それとも、連れて来た友達の願いなのか。そんなことが、私たちの頭の中に浮かんでくると思います。けれども、マルコの福音書はそのことを少しも気にとめていません。私たちは、自分が病を抱えて癒されたいという願いを持っている時、どういう信仰を持ったら主に癒していただけるのだろうと考えることがあります。真剣に祈ったら、信じ切って祈ったら祈りは聞かれる、そんな考えがあると思います。しかし、マルコは人には一切注目しないで、ただ、主イエスだけを描きます。見るべきものは主イエスなのだというかのようにです。
奇跡を経験する者は、その人の信じ方具合で奇跡を体験できたわけではないのです。大切なことは、主イエスが見えるようにしてくださる、このことだけがここでは大切なのです。それで、先週の祈祷会でも、興味深い質問がありました。この目の見えない人は、主イエスによって目が開かれました。ということは、「この人は主イエスに目が開かれた人ということになると、もう完全に主イエスを理解できるようになったということですか」という質問です。とても良い質問だと思いました。たしかに、そう考えてしまうわけです。そのくらい、私たちは人の方に目が向くわけです。うらやましいと思うわけです。自分もそうしていただきたいと考えるわけです。
我が家には、沢山の絵本があります。有名な絵本作家の一人で、マリー・ホール・エッツという絵本作家がいます。白黒の版画のような絵のタッチのものが多いのですが、有名な絵本は「もりのなか」とか、「ペニーさん」とか「わたしとあそんで」というようなものがあります。
その「わたしとあそんで」という絵本ですが、福音館というところから出版されています。今から何年か前になりますが、私たちの教会で、この福音館の相談役となっています松居直さんを講師にお招きして講演会を催したことがあります。松居さんはもともとこの福音館で本の編集をしてこられた方です。実に、素晴らしい絵本を世に送り出してこられた方です。この松居さんの書かれた本の中に『絵本・ことばのよろこび』という本があります。この本の中で、松居さんはこのエッツの「わたしとあそんで」という本の紹介をしています。松居さんによると、この本は子どもの内なる喜びをテーマにした本だと紹介しています。
本の書き出しはこうはじまります。「あさひがのぼって、くさにはつゆがひかりました。わたしははらっぱへあそびにいきました。」主人公の小さな女の子は遊びにでかけたおそとで、バッタやカエル、カメ、リスやカケス、ウサギ、ヘビなんかに遊ぼうと声をかけます。ところが、女の子が近づくと、みんな知らん顔で離れていってしまいます。「だあれもあそんでくれないので、わたしは」とチチクサの種を吹き飛ばしたり、ミズスマシを眺めたりします。
松居直さんはこう書いています。「この子はまったく孤独(ひとり)です。実はそこに重大な意味が語られているのです。 いままで自己中心に動き、働きかけていた「わたし」は、ひとりになったとき、こころ静かに、そして確かに、自分のまわりにあるものを見はじめます。自然と交感するのもそういうときです。人はひとりで見る者になったとき、自らを見い出すことがしばしばありますし、はためには孤独に見えても、計りしれぬ充実感を味わうときがあります。」
面白い言葉です。この少女はひとりになったとき、こころ静かに自分のまわりにあるものを見はじめたのだと言うのです。そして、「人は一人で見る者となったとき、自らを見いだす。」「孤独に見えても、測り知れない充実感を味わう」と松居さんは言います。自分の願いばかりに心を向けている時には見えてこないものが、見る者になるとき、自分ではなく、こころ静かに回りを見るようになるときに、自分を発見するというのです。
この絵本はまだ続きがあります。松居さんはこう続けます。「『わたし』が音をたてずに座りつづけていると、バッタやカエルやカメが戻ってきます。リスもカケスもウサギもヘビも寄ってきます。この場面に描かれている、じっと息を殺して身じろぎもしない女の子の凝縮された精神力と、眼だけが生き生きと動いている顔の表情の豊かさは、読む者を魅きつけます。そのときシカの赤ちゃんが近寄ってきて、なおも息を殺している女の子のほっぺたをなめると、たまらず女の子は笑い出します」。そして、絵本ではこう書かれています。
「ああ わたしはいま とってもうれしいの。とびっきりうれしいの。なぜって、みんながわたしと あそんでくれているのですもの」
松居さんはこう書いています。
「この絵本には、子どもの温かさ、自然を受け入れることによって、子どもの内なる「よろこび」が目覚めること、ひとりでいることや沈黙の値がいかに大きいかが示唆されています。」
自分が考えていることや、願っているようになることではなくて、見る者となることによって、いろんな大切なものを見る者になる。そして、こころの中に喜びが生まれるそういう体験がこの絵本には物語られているのです。
主イエスはここで、見ることの出来ない人が連れられて来たときに、まず村の外に連れ出します。人々に見せるように癒しのみわざを行わないのです。そして、人目のない所で、その人の両眼に唾をつけ、その上に両手を当てて「何が見えますか」と語りかけます。その人は見えるようになって、はじめは「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と答えます。見えるようになったのですが、まだおぼろげにしか見えないのです。そうすると、主イエスはさらに両手を目に当ててくださるのです。そうすると、すっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになります。
主イエスは、自ら手を置き、見えていない者を、見えるようにしてくださるのです。丁寧に、時間をかけて、見えるようにして下さるのです。そして、見える喜びを味わうことができるようにして下さるのです。このエッツの絵本の少女のように、見えなかったものが、見えるようになるのです。自分で見えるようになるために努力をしたり、考え方を変えたら見えるようになるというのでもなくて、主イエスが目に手を置いて見えるようにしてくださる。ここに福音があるのです。主は、わたしたちの目を開き、主のみわざを見ることのできるものとしてくださるのです。そうすると、私たちの心の内に喜びをあふれさせてくださるのです。
今日のところの最後では、癒された人に「村には入っていかないように」と主イエスが語りかけたと結ばれています。はじめのところも、「村の外に連れて行かれた」とあります。これは、もう何度も同じような言い方で語られていますので、特に説明をする必要もないかもしれません。もしこの癒された人が、私は主イエスによって癒していただいたと人々の中に入っていくと、それを聞いた人たちは「羨ましい」、「自分も直してほしい」となってしまうわけです。主イエスが見て欲しいと思っておられるものが、正反対の働きをしてしまうわけです。やっぱり、自分が見たいものを見たい。自分が望むものを見たい、手に入れたいと考えてしまう。それは、主イエスの求めるものではないわけです。そうなると、せっかく主イエスが目を開こうとされている者がどんどん、見えなくなっていくのです。
マルコの福音書のテーマはここにあるといっても言い過ぎではないくらいです。主イエスを見るように、そうすれば、この主イエスが目を開かせてくださるのです。主イエスを見いだすことができるように、主イエスを信じることができる者としてくださるのです。すべては主イエスのわざ、主イエスの思い。この主イエスだけを見つめつつ、主に期待することをマルコの福音書は語り続けているのです。
今日、このあと午後からサマーコンサートが行われます。私たちはこのために、祈りながら備えて来ました。昨晩、役員と伝道部の何人かの方々と、午後に歌ってくださる永島陽子さんとピアニストの滝澤優子さんと共に食事をいたしました。とても楽しい時間で、永島さんが子どもの頃に、蝶を沢山とって標本にしていたという話をお聞きしました。次々に珍しい蝶の話が出てきて、話が止まらないくらい楽しいひと時でした。
さきほどのエッツの絵本に出て来た少女のように、きっと子どもの時の内なる喜びという経験をたくさんしてこられた方なのだろうと思いました。自然に触れ、蝶々を追いかける少女時代を過ごすというのは、とても豊かな時間だったのだろうと想像できるわけです。こじつけかも知れませんけれども、そういう豊かな感性が、声楽家という仕事の中でも豊かな表現を手にいれたに違いないと思うのです。
見ることを知っている。自分本位なものの見方をするのではなく、松居先生の言葉で言えば「人は一人で見る者になったとき、自分を見いだす」という経験をする。もう少しこの聖書の言葉で言うと、「人は一人で主の前に立つとき、見えるものにされる」ということだと思います。今日のコンサートで永島さんがたくさんの曲を歌ってくださるのを今からとても楽しみにしています。主がこのコンサートを通して、私たちに何を見せようとしておられるのか、そのことにとても期待をしています。
今日の説教題を私は「主の恵みを見よ」としました。けれども、間違えたなと思っています。「主が見せてくださる恵み」とした方が良かったと今は思っています。私たちの主は、自分のことしか見えない者の目を開いてくださるお方です。主を知ることが出来るように、そして、自分自身を正しく知ることが出来るように。主は私たち、目の見えない者の目を開かせてくださるのです。そして、その時、私たちはこの後に続く聖書の中のペテロのように、主を信じる者として生きることができるようにされていくのです。
お祈りをいたします。