2020 年 2 月 16 日

・説教 創世記18章16-33節「主の前に立つアブラハム」

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2020.02.16

鴨下 直樹

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 私たちはここ二週間ほどでしょうか、テレビをつければ新型コロウィルスのニュースにくぎ付けになっています。ついに、日本人の死者が出たとか、感染ルートが分からない人が感染したという、もうこの新しい病が身近に差し迫っているというような危機感を煽る報道に、私たち自身もどのような身の振り方をすればいいのかと不安になります。

 こういう報道をテレビなどで見ていますと、ふとこういう考えが心に浮かんできます。神様はどうしてこういうことをゆるされているのかと。もし神のゆるしがあって、この新しい病気で次々に多くの人の命が奪われているということならば、きっとこれは神の裁きなのではないか。そんな考えが私たちの頭の中に出てくるわけです。信仰生活の長い歩みの人は、こう考え方からある程度自由になっている人もいると思いますが、どうして神様はこんなことをなさるのだろうかという思いを抱かれる方もあると思うのです。

 もちろん、それは今回の病気にとどまりません。地震や、災害に見舞われるとき、不慮の事故や、災いを経験するとき、私たちの心の中に「神よ、どうして」という疑問が出てくることがあります。今日の聖書は、まさにこの神の裁きをどのように理解するかということと深くかかわってくる箇所と言えます。

 と言いますのは、ここで聖書は、神がロトたちの住んでいるソドムとゴモラの町を滅ぼそうとしておられるというのです。この箇所は神の裁きを語る箇所です。

 ここで聖書が神の裁きをどのように書いているのか、まず、注意深くこのところに目を向けていきたいと思いますが、この17節でこう書かれています。

主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」

 ここでソドムの町が裁かれることを、神がアブラハムに相談するべきではないかということを考えておられる、と書かれています。神様の心の中のことが書かれているなんて、ちょっと珍しい箇所です。それは18節以下にも続いています。

アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。

 とそのように記されています。つまり、これから起こるソドムとゴモラの神のさばきの計画を、アブラハムが知ることは、神がアブラハムに与えた約束が実現するためにどうしても必要なのだと言っているわけです。そして、ここで一番大事なことは何かというと、このことで、アブラハムやアブラハムの一族が「主の道を知り、正義と公正を行うようになるため」と言っています。

 神は正義と公正を行われることを知ること。それが、このソドムのゴモラに対する神の裁きの意味なのだと、主はすでにここで語っておられるのです。神の裁きというのは、神の正義と公正さが行われていることを知ることである。聖書はここでそのように書いているのです。

 どうでしょうか。私たちは「神のさばき」と感じる時に、そこに神の正義と公正が示されていると感じているでしょうか。もし、私たちが「神よ、どうして」という疑問を抱いているのだとすると、この神の正義と公正を理解しているとは言えないのではないでしょうか。そこにあるのは、「別の何か」ということになります。

 ではその「別の何か」とは何でしょう。それは、ここで自分が経験していることは不当だという思いです。私はこういうことを経験するようなことをした覚えはないという思いがあるときに、私たちは身に降りかかる悲劇を「神よ、どうして」と叫びたくなるのです。

 先週の金曜日で私の東海聖書神学塾の一年間の最後の講義が終わりました。そこで、私は畏れ多くも「ギリシャ語入門」という講義も教えているのですが、その講義も最後でした。最後の講義でいろんなギリシャ語について書かれている本の紹介をしました。そこに、「ギリシャ語釈義辞典」という三冊からなるギリシャ語の辞典がありますが、その本の話をしました。一冊4万円もする本です。1ページで100円というとんでもない料金設定の本です。三冊揃えると12万円もします。

 以前も何度かこの本の話をしたことがありますが、その本が出たのは当時私が神学生だった時です。名古屋の駅にあったキリスト教書店から電話がかかりまして、注文しておいたギリシャ語の本が届いたので取りに来るようにという電話でした。しかし、そのとき私は4万円もの大金をもっていませんでした。駅前に車を止めて、本を取りに行きました。今お金がないので、代金は後日でお願いしますといって、伝票を切ってもらって、車に戻りました。その間わずか10分もなかったと思います。ところが、外に出てみると、私の車がないのです。その代わりに車をとめた場所に紙が貼られていまして、これをもって警察に出頭するようにと書かれていました。駐車違反でレッカー移動されてしまったのです。その金額、今でも忘れません。39500円。思わず、「神よ、どうしてですか」と天を仰ぎました。4万円のお金がないから、つけにしてもらったのに、これでは一冊8万円の本です。

 「神よ、どうして」と叫びたくなる時、それは自分が不当なことをされているという思いがあるときです。自分が可哀想だと思う時です。そこに神の愛があると感じられない時に、私たちは「神よ、どうして」と思うのです。そこにあるのは、ただただ自分の事情です。「こんなにお金がなくて困っているのに、神はなんでこんなことをされるのか」という自分を憐れむ思いがあるのです。そこにあるのは、この出来事を自分は受け入れられないという、私のついてこない気持ちです。もちろん、これは神様が悪いわけではなくて、駐車違反をした私が悪いのです。でも、その時にはそんな当たり前のことも頭に浮かんでこないのです。

 もちろん、四万円ですめば可愛いいものです。納得できないと感じることは、私たちの周りにはいくらでもあります。例をあげなくても、それは皆さん自身がよく分かることだと思います。

 そして、主はアブラハムに語り掛けます。20節と21節です。

主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼしつくされるべきかどうかを、見て確かめたい。」

 ソドムとゴモラの町からどんな叫びが主のもとに届いていたのかは想像する他ありません。

 カトリック教会が出している聖書でフランシシコ会訳の聖書の注にこんなことが書かれています。「聖書には復しゅうを天に呼び求める罪(号天罪)が四つ記されています。ソドムの罪はその一つ。」と書かれています。その他の三箇所は「やもめ、みなしごを苦しめることへの叫び(出エジプト記22章22節)、もう一つは「その人の賃金がその日のうちに、日没前に支払われなかった時の叫び(申命記24章15節)そして「労働者への未払い賃金などの叫び」(ヤコブ5章4節)があげられていました。

 私は号天罪という言葉をこれまで聞いたことがありません。調べてもこれ以上のことは分かりませんが、神に正しいことが行われることを求める叫びということだと思うのです。フランシスコ会の聖書にこういう言葉があるからかもしれませんが、創世記の岩波訳の注の方には「ソドムとゴモラの罪を訴える人々の叫びとも解せなくないが、ソドムにはそれを訴える義しい人はいなかった」と書かれています。この時のソドムから起こった叫びは、神に義しさを求める叫びということは言えないだろうというわけです。

 人の叫びというのはいろんな叫びがあります。人を虐げる暴力的な叫びもあれば、虐げられる人々の嘆きの叫びもあるでしょう。文法的なことをいうと、この叫びは「ゼアーカー」という言葉で、法廷用語として使われる言葉です。義しくないことが行われているという叫びです。主はここで、そのような叫びを聞き取って、自分の目で見て確かめたいのだと言っておられるのです。神の裁きを行うかどうかを見てから判断するというのです。まだ裁きの判定は下されてはいないのです。聞いただけで判断するのではなく、目で見て確かめてから正式な判断が下されるということです。それほどに神は裁きに対して慎重な姿勢であることがここから分かります。

 それを聞いた時に、アブラハムはどういう反応をしたのかということがここに記されています。それが、22節です。

その人たちは、そこからソドムの方へ進んで行った。アブラハムは、まだ主の前に立っていた。

 「アブラハムは、まだ主の前に立っていた」というのです。今からソドムを裁く判断を下しに行かれると聞いて、アブラハムはそれをそのまま聞き流すことはできませんでした。アブラハムの中にどんな思いがあったのかというと、その次の23節に記されています。

アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。」

 アブラハムは神に問いかけるのです。正しい者と悪い者とが一緒に滅ぼされることなどないはずだと訴えているのです。そして、50人の正しい人がいたら滅ぼさないでほしいという訴えをします。

 アブラハムが14章で戦いをした時に、彼の僕に318人の訓練された人がいたということが書かれています。甥のロトもアブラハムと同じように僕を持っていたはずですが、それが仲たがいをして別々に暮らすことになりましたから、ロトのところにもある程度の使用人や僕がいたと考えられます。ロトのところに50人くらいの正しい人がいるであろうということを、アブラハムはとっさに頭の中で計算したのでしょう。そして、こう言っています。
25節です。

「正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」

 今日のアブラハムはなかなかいいですね。まさに見本のような語りかけです。アブラハムは納得がいかないのです。正しい者と悪い者とが同じように神の裁きの対象とされるということが、公正な神のなさることでは絶対にないはずだと、主に向かって、義しい主のお姿、あり方を説教しているわけです。アブラハムの理屈は筋が通った理屈です。50人の正しい人がいたら、その町の人を赦してほしいと訴えているのです。

 そして、ここからすごいです。50人は言いすぎたかもしれないと自信がなくなったのかもしれません。45人かもしれません。一度、主の前に、もう少し少なくても大丈夫ですかと尋ねると大丈夫だとのお答え。それで、そこからどんどん数を減らしてついに10人まで減らしていきます。

 祈祷会でOさんが中国に旅行に行った時に13,000円と言われた服を3000円まで値切ったことがあるという話をされていまして、これもアブラハムなみの値切り交渉だと感心しました。普通はこういうことはありません。あまり、値切るということ自体、しない方がほとんどだと思います。ちょっと厚かましいと感じるほどですが、アブラハムはどんどんとその数を減らしていきます。32節。

「わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。その十人のゆえに。」

 最初に言いましたように、主はここでアブラハムに、神の正義と公正を理解させようとしておられます。神は義しいお方であると。この時の義しいは、正という字の方ではなくて義という字を書くことがあります。正義にはこのどちらの字も使われています。一般の正しさと神の義を使い分けてそういう感じの使い分けをすることがあります。神は、義なるお方です。神の義で、ものごとを見極めることをアブラハムに求められました。そして、アブラハムの子の求めは、神の目にかなう言葉でした。だから、主なる神は、このアブラハムの要求に耳を傾けてくださいました。

 10人。なぜそこまで言ったのか、次の19章を読みますとロトには娘と息子がいると書かれています。二人の娘には婿がいます。そして、独身の娘が2人いますので、娘だけで4人いることになります。ロト夫妻と、4人の娘と2人の婿、それに息子、息子の数は書いていませんが、2人いると考えればこれで10人です。それに使用人も使っているのです。アブラハムはより確実な数を言ったということが言えるのかもしれません。ロトの家族くらいは大丈夫だろうと考えたのかもしれません。

 では、その10人の正しい人の基準は何かということを考えなくてはなりません。神が、義であると認める人は、神を畏れる人です。神を神とする人です。その人を神は義である、義しい者と数えられます。神を畏れるひとは、神の前に義しいことを行う人です。そして、主なる神は、この義しい人を裁くお方ではないのです。

 神の裁きは、神を畏れない人に下されるものです。そして、その裁きを神はちゃんと現地調査をして確認してからなされるのですから、この神の御前に、裁かれることを不当ですと申し立てをすることはできません。

 私たちは往々にして思い違いをすることが多いのですが、神の裁きというのは、私たちを懲らしめるためのものであるとつい理解してしまいます。それは、私たちの身近にある宗教がそのように教えるからです。

 「そんなことをしたら罰があたる。」そう言いながら、「日ごろの行いが大事」ということを、小さな時から叩き込まれて育ちます。そうすると、悪いことが起こると、神からの罰があたった。それは神の裁きであると考えるのです。

 けれども、これは聖書が語ることではありません。この考えでいくと、私たちは自分が罰を受けていると感じた時に、反省を要求されていると考えます。そして、それが身に覚えのない時は、この刑罰は納得がいきませんと考えて「神様どうしてこんなことをなさるのですか」と考えるわけです。

 私たちが生きているこの世界は、罪の支配する世です。そこは死の世界です。滅びの世界です。自分に不都合があったときに、私たちは神に訴えるのですが、不都合を感じていない時は、まるで自分が正しい生き方をしているとでもいうことなのでしょうか。私たちは、義でも、正でもなく、みな罪びとです。罪の世界に生きているのですから、そこには滅びの原理が支配しています。死の支配の中にあるのです。そこは、はじめから神の御手のない世界です。問答無用で裁かれても、何も言えないのです。それでも、生かされているとすれば、それは神の憐れみでしかありません。そして、私たちの神は、この世界が、滅びの世界が、死の世界が、神の国に変えられることを望んでおられるのです。

 ソドムとゴモラに10人の正しい人がいたら、その10人のために滅ぼしはしないと主は言われるのです。どんなに罪深い死の世界であったとしても、そこに主を恐れる人が10人いれば、そこから神の国を興すことができるということです。

 神の国、それは神に支配される人々をさす言葉です。そうです。ここに、この芥見の教会に、神がご自分のご支配を及ぼそうとしておられるのです。岐阜市に10人の神をおそれる義しい人がいる。関市に10人、各務原市に10人、それがいかに無力に思えるような小さな集まりであったとしても、神はその人々のゆえにその街を滅ぼしはしないと言われるのです。それは、その人々に、神は死の支配を打ち破る力を与えておられるからです。

 私たちから神の御業がはじまるのです。ここに神の目にかなう10人以上の主を恐れる人々がいるのです。

 今日、この後で教会総会を行います。私たちはこの地に福音が届けられていくために、ここで神の支配を拡大していくために、教会総会を行うのです。それは、私たちが自分のことだけを考えることから自由にされて、この世界が変えられていって、死の支配の中に生きている人に、いのちの福音が届けられていくために行われるものです。悲しみに暮れている人が、慰めを見出し、悩んでいる人が希望のあることを知り、目標を失っている人が自分の生きている意味を知るようになるために、私たちは今日、ここで教会総会を行うのです。

 神の祝福は私からはじまるのです。ですから、私たち自身が、神よ、どうしてですか、という自分のことしか考えられない不自由さから自由にされて、いのちの喜びを、光のぬくもりを感じつつ、この主の望みに生きる者となるために、主が私たちを立ち上がらせてくださるお方であることをぜひ、もう一度知ってほしいのです。

 お祈りをいたします。

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