2020 年 5 月 3 日

・説教 創世記24章10-67節「ある結婚の形」

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2020.05.03

鴨下 直樹

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 今日の聖書箇所はとても長い箇所です。今は、新型コロナウィルスの対策のために礼拝の時間を短くしていますので、すべての聖書箇所をお読みすることができません。それで、今日は、10節から14節と、終わりの62節から67節をお読みしました。前回、1節から10節のところから説教しましたが、この24章全体が、イサクの結婚について書かれているところです。長い箇所ですから、そのすべてに目をとめることもできません。ご了承ください。

 ここには、ある一つの結婚の形が描き出されています。それは、恋愛結婚でも、お見合い結婚でもありません。イサクの父アブラハムは、自分のしもべであるエリエゼルにイサクの妻となる人を探しに行かせたのです。ですから、イサクからしてみれば、そのしもべに自分の人生を託すしかないわけですが、どうも聖書を読みますと、イサクの好みを聞いたとかそんな記述も見当たりません。しかも、自分の知らないうちに親が自分の結婚相手を決めてしまっているというありさまです。現代では少し考えにくい結婚の形です。

 けれども、私たちは日本でもそうですけれども、昔は、たとえば戦国時代などもそうですが、親同士が結婚相手を決めるということはごく普通に行われていました。ただ、その場合は家同士の格だとか、自分たちの身分を保つための方法という一面があったように思います。

 私たちは、今日この箇所から聖書が結婚について何を語ろうとしているのかということに目を向けてみたいと思います。といいますのは、創世記のこれまでのところでアダムとエバの結婚以外で、二人が結び合わされて結婚するという場面を描いているのは初めてです。ですから、ここに聖書が描いている結婚の一つの形というのが示されているといえると思うのです。

 さて、今日は24章全体なのですが、先ほど10節から14節までのみ言葉を私たちは聞きました。ここに書かれているのは、嫁探しを請け負うことになったしもべエリエゼルの祈りが記されています。しもべの立場からしてみれば、自分の主人であるアブラハムの担い手となるイサクの妻を探さなければならないわけですから責任は重大です。それで、どうしたのかというと、まず祈ったということがここに書かれているわけです。そして、実にこのまず祈るということの重要さを、私たちはもう一度知る必要があるのです。

 この祈りは、「私の主人のために恵みを施してください」という祈りでした。この二人の結婚が神の恵みであるようにという祈りです。何でもないようなことですけれども、ここに結婚の祝福があるのは明らかです。

 私たちは、結婚のためにいろいろなことを考えます。私も結婚する方たちのための結婚カウンセリングをしています。その時に、結婚のために必要なこととして、たとえば「自立」という話をします。親からの自立、経済的自立、社会的自立。この三つがちゃんとできているかということを確認します。ここでそういうことを詳しくお話しするつもりもありませんが、そういう基本的なことも分からないままに、勢いで結婚しようとする方が少なくないので、どうしても、そういう当たり前のことからお話をしなければなりません。

 最近はあまり言わなくなりましたけれども、少し前は理想的な男性像として3高がいいなどと言っていました。高学歴、高収入、高身長です。けれども、バブルの後はそんなことは言われなくなりました。そんな表面的な条件ではなくて、もっと内面を見る必要があるということが、当たり前に言われるようになってきました。では、聖書は何と言っているのでしょうか。

 ここでしもべ、エリエゼルはまず大事なこととして、神の恵みが施される結婚であるようにということをまず祈ったのです。神の恵みがあるというのは、どういうことなのでしょうか。私たちは、まず自分たちの意志が大事であると考えます。もちろん、それがないと、その後長く続く、結婚生活を乗り越えなければなりませんから、意志が重要なのはもちろんです。人によっては、意志だけで、結婚生活を保っているという方もあるかもしれません。忍耐と言うか、我慢というか、あるいは世間体ということになるのかもしれませんが、そういうもので、何とか保たれているということは少なくないはずです。

 けれども、それよりも重要なことは、この結婚は神の恵みなのだという理解があるかないかです。つまり、その結婚生活を支えているのは、自分たちの努力なのではなくて、神の意志であるということです。結婚生活の根拠が自分たちの中にあると思うと、それこそ責任は重大です。しかも、そこで生まれる苦労を持って行くところがなくなってしまうのです。自分で選んだ人だから、自分が決めたことだから。そうやって、自分を追い込んでしまうことになると、まるで結婚生活は苦労の連続であるかのような意識にどうしてもなってしまうのです。

 けれども、祈りからはじまる結婚生活というのは、その二人の背後に神がおられて、神の配慮があるのだと信じて結婚生活をはじめることができるわけです。そして、もし躓くことがあったとしても、立ち止まってしまうことがあったとしても、その思いを神の前に持って行って、祈ることができる。そうやって、改めて、自分たちの結婚生活は神が導いてくださったものなのだということを、受け止めなおすことができるようになるのです。

 こんな話をしますと、クリスチャンでない人の結婚はどうなるのだという思いを持たれる方もあると思います。そこで本当に私たちが知るべきなのは、自分たちがお互いに好きになって結婚した方も、なんらかのお見合いで結婚することになったとしても、そうやって二人が出会わされて、結婚に導かれたのは人知れず神のご配慮があってのことなのだということを改めて受け止めなおすことが重要です。そして、もう一度祈りを通して、神の恵みが施される結婚であるように祈ることです。いつも、話すことですが、私たちが信じている神は、ワンチャンスの神様ではなく、ワンモアチャンスの神様です。結婚はたしかに一度きりのチャンスなのかもしれません。けれども、私たちは神様に支えられながら、何度でも何度でも、チャンスを与えられて、やり直すことができるように私たちに恵みを施してくださるのが、私たちの神、主です。そのことを覚えることが大事です。

 しもべ、エリエゼルの祈りは続きます。13節以下です。

「ご覧ください。私は泉のそばに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出て来るでしょう。私が娘に、『どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください』と言い、その娘が、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」

 まあ、すごい祈りです。非常に細かい条件を具体的に出して祈っています。「井戸の水を飲ませてほしい」とお願いしたら、「らくだにも飲ませましょうか?」と言ってくれる人が見つかりますようにというわけです。けれども、エリエゼルはらくだ10頭のキャラバンです。それだけのらくだに水を飲ませようとしたら、何回井戸の水を汲まなければならないのでしょうか。きっと重労働であることに違いありません。

 すると、主はエリエゼルが祈っている間に祈りをきかれて、もうすでにリベカが水がめを持って現れたというのです。ちょっと出来すぎな印象を受けますが、神の恵みというのは、まさにこのように示されるのです。そして、この時現れたリベカは祈った通りのことを、エリエゼルに申し出るのです。

 ここからのところは、聖書を読んでいただくこととして、簡単にお話したいと思うのですが、このリベカが、アブラハムの兄弟ナホルの12人の子どもの一人でベトエルの子だということが分かります。ナホルには12人の子どもがありますが、ナホルの妻ミルカの8番目の子がベトエルで、リベカの兄がラバンです。

 ベトエルとラバンは、リベカをアブラハムの息子イサクの妻とすることに同意してくれるのですが、10日間だけ猶予が欲しいと願います。しかし、エリエゼルはすぐに帰りたいと言うのです。娘のリベカを送り出すのに、しばらく別れを惜しみたいということもあったでしょうし、結婚の支度をしたいという事もあったと思うのですが、エリエゼルはすぐに帰ると言うのです。それで、ベトエルとラバンがリベカに尋ねると、リベカは二つ返事で承諾をして、イサクのもとに向かうのです。こういう書き方を通して、リベカの心の中に、結婚の準備ができていたことと、主なる神の恵みを受け入れる心があったことが示されています。

 一方でイサクはどうだったのでしょうか。イサクについては、後半の62節以降に書かれています。63節にこう書かれています。

イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼が目を上げてみると、ちょうど、らくだが近づいて来ていた。

 「イサクは野に散歩に出かけた」と書かれています。イサクはこの時40歳です。しもべがいつ帰って来るのかと、そわそわ待っていたという雰囲気はありません。ドイツのルター訳の聖書では「祈るために」と書かれています。これは岩波訳などでは「野を行き来していた」と訳されていますが、ギリシャ語の70人訳では「物思いにふける」と訳されています。ヘブル語は少し意味がはっきりしないのですが、健康のために散歩をしたというよりは、黙想しているというようなイメージの言葉のようです。ルターの訳のように祈っていたのか、70人訳のように物思いにふけっていたのかははっきりしませんが、イサクの落ち着いた雰囲気をここから読みとることができます。そして、そんな中で、リベカと出会ったのです。
 64節と65節です。

リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、しもべに尋ねた。「野を歩いて私たちを迎えに来る、あの方はどなたですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」
そこで、リベカはベールを手に取って、身をおおった。

 リベカとイサクがはじめて対面する場面です。なぜ、ベールをかぶってしまうのかと思うかもしれませんが、結婚式が終わるまではベールで顔を覆うという当時の習慣があったようです。そして、ここでエリエゼルがイサクのことを「あの方が私の主人です」と伝えているということは、この旅の間にアブラハムは死を迎えていたことが暗示されています。ただ、アブラハムの死については次の25章で書かれていますからここでは取り上げません。

 イサクとリベカの感動の初対面は、イサクにとってごく日常の一場面であるかのように、ここで描かれています。アブラハムが常に動き動き続けている動的な人であるとすると、イサクは、静かに物思いにふけりながら野に散歩にでかけるような静の人です。そして、このイサクのイメージは自分の結婚のことも、主に信頼して委ねているところからくる静けさであるということができると思います。

 この箇所の結びにはこのように書かれています。66節と67節です。

しもべは、自分がしてきたことを残らずイサクに話した。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。

 このように、聖書は記しています。しもべから旅のこと、またリベカのことを聞き、リベカを妻とし、そして、彼女を愛した。そのように書かれています。そして、この順序が大切なのです。

 多くの場合、彼女を愛した。そして妻とし、そのあと・・・。あまりネガティブな話をする必要はないかもしれません。私たちがここから覚えさせられるのは、妻とした後で、愛するということです。それは、感情による愛ではないのです。
 愛にはいろんな定義があります。たとえば、ペテロの手紙第一にはこう書かれています。「互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」とあります。これは旧約聖書の箴言にも似たような言葉があります。「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう」。愛とは、自分にそむいたものを許せないと怒りを燃やして、憎むのではなくて、その背きをおおってやることだと聖書は言っているのです。

 あるいは、ヨハネの福音書では15章13節で「人は自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言っています。あるいは、愛の13章と言われているコリント人への手紙にも、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」と続く愛の言葉が記されています。

 よく、教会の結婚式では「愛することは意志を持つこと」というメッセージが語られます。それは、結婚の時に誓った誓約を守ることを、お互いに意識する意思が大事なんだということを教えるために言われます。けれども、最初にもお話しましたように、私たちの意志の力には限界があるのも事実です。互いに愛するために、私たちに求められているのは、愛されるという経験をすることです。愛されるという経験があるから、人を愛することができるようになります。けれども、一所懸命に相手を愛そうと思って、お互いに向き合ってばかりいると、いつのまにか相手の粗ばかりが目についてしまって、どうしても、その人の欠点に目を向けてしまうことになります。

 愛するために必要なのは、いつも相手の方ばかりを向いていればいいというのではなくて、お互いの目を、同じ方向に向けること、つまり神様の方向に向けることから始めることです。それもまた愛の姿です。

 もちろん、相手のことをよく知りたいと思いながら、相手と向き合うことはとても大事なことです。けれども、それは決して相手の欠点を見るためではなく、相手を知るために注がれることが大事です。何よりも大切なことはお互いが同じ方向を向く、そして、神の愛が自分たちに向けられているのだという事を知ることが大事です。そうやってお互いに同じ方向を向いているということが、何よりも私たちに平安を与えるのです。それは、自分にだけ目が向けられなくなるのでほっとするという面もありますが、お互いに大事にしていることが同じなのだという共通の目標を見出すことで安心を得られるようになるということもあるのです。

 そして、その私たちが見上げている神が、私たちを愛してくださるという事を知ることができるようになるなら、私たちはお互いに愛することをも、自然にすることができるようになるのです。

 愛することから始めるのではなくて、まず愛されることからはじめる。そして、少しずつゆっくりと、お互いの愛を培っていったらいいのです。そして、何度でも言いますが、そのためには遅いということはないのです。

 この愛は何も結婚のことだけを指しているのではありません。家族の間でも、友人や同僚との間でも、近隣の人、私たちの隣人となる人との愛もまったく同じです。最初から相手のことも知りもしないのに、愛しなさいという無理なことを聖書は語っているのではないのです。まず、一緒にいる。そして、ゆっくりと愛することを育んでいくのです。

 そして、私たちの神である主は、私たちに恵みを施してくださる方であることを知るならば、私たちの近くにいる人を愛する理由はもうそれだけで、十分にあるのです。

お祈りをいたします。

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