2020 年 9 月 20 日

・説教 創世記29章31節-30章24節「女の闘い?」

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2020.09.20

鴨下 直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 ここ半年ほどでしょうか。コロナ禍ということもあって、私は日中に外に車で出かけるという事が少なくなっているのですが、今週は何度も出かけました。ここのところ、ぼーっとしていることが多いせいか、ちょっとピリッとした会話といいますか、「どこまで譲歩するか」みたいな会話をしていなかったせいか、ずいぶん油断がありまして、昨日も、なんとなく相手に負けたというような気持ちで家に帰ってきました。

 そうしましたら、妻がちょっといたずらっぽい顔をしながら、東京の方にお土産でいただいた「東京ばなな」にだまされたんじゃないのと言うのです。もっと老舗のお菓子もあるだろうに、最初からなめられていたんだと言われて、もちろん冗談ばなしですが、なるほどそういうものかとも思いました。

 ちょっとこの牧師はいきなり何の話をしているのかと思う方も少なくないかもしれません。漠然とした、抽象的な話で申し訳ないのですが、私たちは何かにつけて負けるというのは、嫌な気がするものです。軽い会話のつもりで出かけて行ったら、そこに三人くらい待ち構えていまして、何やら専門家まで登場して、終始相手のペースで会話が進んでしまう。しまったと思っても、時すでに遅しです。大事な話し合いと言うのは、準備の段階で、勝ち負けが決まっているようなものです。

 今日の話は、女の闘いです。ヤコブの妻になったレアと、ラケルの闘いのさまがここに記されています。夫の愛情が欲しい姉のレア、そして、子どもが欲しい妹のラケル、その二人の闘いが記されています。この女の駆け引きと言うか、闘いの様は、出来事として読むには、興味深く、面白いものですけれども、読む私たちの側からすれば、なんとなく不毛な闘いの劇を見せられているような、そんな思いにもなります。

 私は、子どものころから教会学校でこの話を聞くたびに、ラケルが主人公で、レアは物語に色を添える登場人物のように描かれることがほとんどですから、なんとなく、聖書はそう描いているのだろうと、長年思い込まされてきました。一昨日、たまたま娘に読んだ聖書物語も、ちょうどこの物語でした。

 その時、私が読み終わったところにはこう書かれていました。

「さて、ヤコブにはふたりの、おくさんができたわけだけれど、もちろんラケルの方をことのほか愛した。」

 ここまで読み終わって、なんとなく心がもやもやしたまま、娘とお祈りをして、眠りました。こういう書き方はどうなんだろう、まるで夫に愛されるラケルの生き方が神様の目に留まって、レアは神様からも相手にされていないようではないか。そんなふうに思ったのです。

 私は長い間、学生と青年の担当牧師と働いてきました。けれども、それも10年前までのことです。今月で51歳になりまして、今はどちらかというと、若い人と関わる仕事よりも、ネクタイをした人と話す機会の方が圧倒的に増えてしまいました。

 若い人と関わっている時に、いつも感じていた一つのことは、「恋愛至上主義」とでも言ったらいいでしょうか。恋愛していることがもっとも素晴らしいことなのであって、それがない生き方はまるで出がらしのような生き方なんだと感じている人が少なくありませんでした。特に、クリスチャンの若い男性の青年たちは、モテない男たちが多かったですから、一所懸命そこをサポートして、遊びにつれていってやってということが多かったわけです。

 恋愛結婚が一番で、恋愛している間は人生がキラキラしているような気がするんだけれども、だーれもそういう相手がいないとちょっと自分を卑下してみたり、そういう自分を持て余してしまうということがあるのです。

 けれども、聖書を読んでみると本当にそうなのだろうかということを、今日はこの箇所から考えてみて欲しいと思うのです。こんな話を、この芥見の礼拝で話しても仕方がないのかもしれません。恋愛なんてもう50年前の話と言う方が多いわけですから。

 ただ、そうではあったとしても、この聖書の出来事は神様がどう見ておられるのかという事をぜひ、知ってもらいたいのです。

 今日の31節にこう書かれています。

主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。

 こういう聖書の書き方も、色々と考えさせられる書き方だと思いますが、まず丁寧に見てみたいと思います。

 まず、ここでようやく「主」という言葉が登場してきます。29章はここまでずっと「主」という言葉がでてこないという話を先週いたしました。神不在の人生というのは、人間の努力が協調される生き方になるわけですが、ここでレアは、まるで夫に相手にされていない、しかも妹のラケルのようには美しくなかったように書かれています。けれども、主はそのレアを見ておられて、子どもが生まれるようにしてくださったというのです。

 しかも、レアは32節から35節の中で、4人の子どもたちが与えられたことが書かれていますが、子どもの名前をつける時に「主は、主は」と主を告白する者と変えられていることが分かります。いつ、レアは信仰をもったのかということは、明確にかかれていませんけれども、子どもが与えられた時に、レアは、これは主が自分を顧みてくださったのだと信じて、そのことを自分から言い表すことができた人だったということが、ここからよく分かります。

 一方のラケルですが、「ラケルは不妊の女であった」と書かれています。ラケルは姉に子どもが次々に与えられるのを見ながら、どれほど苦しんだのかと思うのですが、聖書の書き方は非常にたんたんとしたものでした。

 ここで知る必要があるのが、私たちはそれこそ恋愛結婚が一番すばらしいもので、一夫一婦という考えが当たり前の世界に生きています。だから、そもそも、こういう聖書の物語を読むときに、違和感を覚えたりします。あるいはあまり考えないで、昔は一夫多妻制で、昔の男はよかったなぁなどと思う方があるかもしれません。

 けれども、これは、今から4000年とかそれ以上昔の出来事です。医療も発達していませんでしたから、いつ命を落とすか分かりません。そういう中で、神様から与えられた土地を、子孫に受け継いでいくためには、子どもをもうけるという事はとても重要な意味をもっていました。日本の戦国時代のことを考えてみても、そういうことはすぐにわかると思います。土地を守り、血を絶やさないために、側室を持つというようなことは、この世界の歴史の中で、長い間大事に保たれてきた習慣です。ですから、この出来事が単に聖書も恋愛結婚が大事で、神様が気まぐれにレアとラケルに子どもを与えたり、与えなかったりしたということではないことは、まずご理解いただきたいと思います。

 そのうえで、この出来事が記されているのです。ラケルにしてみても、一方に子どもが与えられて、自分に子どもが与えられないのは何故かと当然考えるわけで、それを夫のヤコブに話して、夫婦げんかになったりもしたのでしょう。そんな中で、ラケルはラケルで、どうすればいいか考えて、一つの決断をします。それが、側室を与えようという判断だったわけです。

 ご存じのとおり、それはアブラハムとサラに子どもが与えられない中で、サラが提案をし、その後で大変なことになったということを、この創世記を順に読んできた私たちは知っているわけです。なぜ、そこに行くのかと思うのですが、この時代、子どもを得ようと思えば、それしか選択肢がありませんでした。そして、ようやく、ラケルは女奴隷ビルハによって子をもうけることができました。

 アブラハムとサラから何も学ばなかったのかと、思うのですが、よく考えてみれば、レアもラケルも、まだカナンの地に行ったことがないので、アブラハムとサラの出来事は耳にしていたと思うのですが、あまりリアリティーはなかったのかもしれません。

 それにしても、こうやって、レアとラケルの結婚生活を見ていくと、ここから読み取れるのは、結婚式の後で思い描く理想的な夫婦の姿というものとはずいぶん程遠いものが、ここで繰り広げられているということです。

 この後にでてくる、「恋なすび」の話にしてもそうです。「恋なすび」というのは、70人訳聖書では「マンドレーク」と訳しているのですが、どうも当時のいわゆる「滋養強壮薬」と考えられていたようです。女奴隷による子どもの後は、今度は「精力剤」とか「滋養強壮薬」によって、子どもをもうけようというのです。しかも、まだ小さかったであろう子どもが野で見つけて来た「恋なすび」をめぐって大人の女たちが奪い合いになるわけですから、もうシュールすぎる描き方です。

 しかも、これでラケルに子どもができたのかというと、その逆です。レアの方に子どもができたというのですから、目も当てられません。

 このように、聖書は神の目にとまったレアと、夫の目にとまったラケルの違いをこのように表現していくのです。こうなると、明らかに聖書は恋愛至上主義なのではないのだということが、よく分かってきます。

 もちろん、愛のある家庭生活の方がいいに決まっているのですが、神は、愛のない家庭の中にも、目をとめてくださり、神の目には決してレアが弱々しく映っているわけではないのだということが、よく分かるのです。

 実は、昨日、その前の日に子どもに読んでいた物語の結論があまりにも気に入らなくて、もう一度その本を手に取って読んでみました。そして、気づいたのです。私はあまりに眠かったからか、本を全部読まないで、途中で読むのをやめてしまっていたことに気づいたのです。

 その物語には続いてこう書かれていました。

「だれもわたしのことなんて愛してないんだわ。どうせ、かわいくも美しくもない、わたしなんて。」レアはそう言った。
 でも、神さまはレアのことをそんなふうに思ってはおられなかった。だれからも愛されない、だれからもひつようとされないように見えるレアを、逆に神さまはとくべつに愛された。そして、だれにもできない特別な仕事をさせようと思われた。いつの日か神さまがこの世界をすくい出す、とくべつな計画をレアの家族を通してなしとげようとお考えになった。*1

 物語はまだ続いていたのです。わたしがうっかり次のページをめくらなかっただけのことだったのです。そうなのです。神の計画はこのレアを通してダビデの子孫を起こし、主イエス・キリストが誕生されたのでした。それは、ラケルではなく、レアの子どもであるユダを通してでした。

 さっそく昨日の夜、私はこの物語を娘に読みました。そして、もやもやから解放されてぐっすり眠ることができました。

 もちろん、主はラケルにも目をとめてくださり、今日の最後の部分である22節以降で、ヨセフが生まれたことが書かれています。そして、ラケルがここで「主が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」と言って、主の名を告白するようになったことが記されています。そうして、創世記はこのヤコブの物語のあと、ヨセフの物語と移り変わっていくのです。

 ただ、そうすると、私たちは当然のように、ヨセフがアブラハム、イサク、ヤコブの祝福を受け継いだのだと考えてしまうのですが、聖書はそうではなく、レアの子であるユダなのだということが、この後から少しずつ明らかになっていくわけです。

 聖書の書き方はいつもそうです。女奴隷や、恋なすびによって、神の計画が実行されていくというのではなくて、人間的な努力の遠く及ばないところで、神の計画がなされていくのだということを物語っていくのです。

 また、子孫繁栄の約束もそうです。ヤコブは絵にかいたような幸せな家族を築き上げて、子どもに恵まれて、幸せにくらしましたとさ、とはならないのです。まさに、子孫繁栄の祝福は妻たち女の闘いの産物として与えられたのです。そして、レアもラケルも苦しみ続けたのです。

 神の約束は、神の祝福は、私たちの思い描いて期待する理想が形になるのではありません。悩みや苦しみの中で、闘いながら、もがき苦しむ中で、神の祝福は培われていくのです。私たちは、不都合なことが起こると、すぐに「神よどうしてですか?」と訴えたくなるのです。しかし、聖書の答えは、聖書をよく見てみなさい。みな、そのような苦しみの果てに、神の祝福とはまるで思えないような仕方で、神の御業は起こるのだという事を、語り続けているのです。事実、神の子孫繁栄の約束は、このようにしてヤコブは12人の子どもを得るのです。

 聖書に勝ち組なんてないのです。「勝てば官軍、負ければ賊軍」などという理解もありません。闘いに勝利するのは、十字架の上でなのです。傍からは、完全な敗北としか見えないような中に、神の祝福はあるのです。

 私たちは生きていく中でさまざまな闘いを経験します。必要な場合は闘ったらいいのだと思うのです。けれども、負けてもいいのです。負けてしまうと、生活の中に不満ができるかもしれない、泣きたくなることばかりが起こるかもしれないのです。けれども、神はそれを見ておられるのです。そして、その敗北にしか見えないような中であっても、神の御業は粛々と進められていくのです。

 お祈りをいたします。

*1 『ジーザスバイブルストーリー』サリー・ロイドジョーンズ著
 いのちのことば社 P.74

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