2020 年 9 月 27 日

・説教 創世記30章25節-31章16節「私の行く先々で主が」鴨下直樹

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2020.09.27

鴨下 直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今、テレビドラマで「半沢直樹」という銀行マン、ドラマではバンカーというらしいですが、この物語が放送されています。ご覧になっておられる方も多いと思います。不正をする上司に立ち向かっていく物語です。半沢の決め台詞である「倍返しだ!」というセリフとともに、人気ドラマになっています。今夜は、いよいよ最終回で、今から楽しみにしている方も多いと思います。

 今日の、ヤコブの物語はこのドラマ「半沢直樹」に勝るとも劣らない物語です。ヤコブと、その上司であるラバンの物語です。ただ、ドラマでは決め台詞である「倍返しだ!」というセリフがありますが、もちろんヤコブはそんなことは言いません。不正を働いてヤコブを苦しめるラバンに、ヤコブは「私の行く先々で主は」と言うのです。

 今日の物語は、これまで、二人の妻を得るため14年間ラバンのもとで働かされてきたヤコブですが、ついに、14年の年季が明ける時が来たところから始まります。そもそも、この14年も、ラバンの策略によるものでした。本当は、ラケルとだけ結婚したかったヤコブですが、ラバンの策略により、姉のレアとも結婚することになったわけで、その分として余計に7年間働かされてきたのです。

 ただ、主はそのようなラバンの策略を逆手にとって、愛されていなかったレアにも心をとめてくださり、この二人の妻と、二人の女奴隷から11人の男の子が与えられるという祝福を見せてくださいました。

 しかし、結婚して14年たってもなお、ヤコブはラバンの奴隷でしかなかったのです。それで、もう私は、私の父の家に帰りたいと申し出ます。すると、大和田常務ならぬ、上司のラバンは、半沢ヤコブにある提案を持ち掛けます。「もう少し働いてくれたら、財産を分けてやるのだが」と言ったのです。その時に、ラバンが言った言葉がこうです。

27節、28節

ラバンは彼に言った。「私の願いをあなたがかなえてくれるなら――。あなたのおかげで主が私を祝福してくださったことを、私は占いで知っている。」さらに言った。「あなたの報酬をはっきりと申し出てくれ。私はそれを払おう。」

 ラバンは、自分の財産が増えたのはヤコブのおかげであることを占いをして知っていると言うのです。どうも、ラバンという人は、自分の財産がどんどん増えていることについては喜んでいるわけですが、その理由であるヤコブとともにおられる主について、もっと知りたいとは思わなかったようです。

 これは、今の世界でも同じことが言えるのかもしれません。聖書が、キリスト教が、どれほどこの世界の平和に貢献していて、その祝福に与っているかを、世界は知っているのですが、その祝福の源である主を知りたいと思う人は多くないのです。特に私たちの国ではそうです。これは、残念なことです。

 このラバンの言葉に対してヤコブはこう答えます。30節です。

「私が来る前は、あなたの財産はわずかでしたが、増えて多くなりました。私の行く先々で主があなたを祝福されたからです。」

 「私の行く先々で主が」とヤコブは答えました。これほど、力強い言葉はありません。私が進む道の前に、その先々に主が祝福を準備しておられるのです。だから、あなたはその祝福に与ることができたのだと、ヤコブは告げることができたのです。

 これが、ヤコブの現実だったのです。確かに、ラバンの策略に陥ったのかもしれません。それで、だまされて結婚したこの後の7年間もヤコブはラバンの奴隷として過ごしてきました。そして、今尚、自分は奴隷の身分のままです。これも、たしかに事実ではあるのです。けれども、その中身は、「私の行く先々で主が」おられるから、私のところには祝福があるのだと、ヤコブは胸を張って言うことができたのです。

 今日の聖書箇所はこの言葉に尽きると言っていいと思います。

 しかし、ラバンにしてみれば、そんなことはどうでもいいのです。

 この言葉の後で、ヤコブはラバンの提案にのっかります。それでは、とヤコブはラバンに一つの提案をします。ヤギと羊の世話をこれからも続ける報酬として、ぶちやまだらの羊やヤギを報酬にして欲しいと提案します。ぶち毛やまだら毛の羊やヤギはもともと数が少なく、価値としても劣っていたのだと思います。それで、ラバンはヤコブの提案に同意します。同意したように見せかけるわけです。

34節でラバンはこう答えました。

「よろしい。あなたの言うとおりになればよいが。」

 「そうなるといいねぇ」という実に曖昧な言い方です。そして、実際に、ラバンはそのようなまだらやぶちの毛のヤギや、黒い羊の子ヤギは、ラバンの息子たちにやってしまうのです。

 ラバンにははじめ息子がいなかったので、羊の世話を娘のラケルがしていたのですが、この時には男の子がいたようです。ヤコブが来たときはまだ小さくて羊の世話ができなかったのかもしれませんが、それでも、大きくても14歳とか16歳とかせいぜいそのくらいの年齢なのではないかと想像します。ラバンは先にヤコブの報酬として約束したはずのヤギや子羊を息子にやってしまっているのですから、自分の所有するそのようなヤギや子羊はいないのでヤコブにはやれないというわけです。

 本当にこのラバンという男がいかに腹黒い男なのかということが、ここからもよく分かると思います。そこまでされたら、もう出て行ってもよさそうなものですが、ヤコブはそのようなラバンの仕打ちに耐えながら、働くのです。このあたりが半沢直樹の物語に似ていると思うところですが、見ていない方すみません。ヤコブがその時、「倍返ししてやる」と思っていたかどうかは分かりませんが、はらわたが煮えくり返るほど悔しかったに違いないのです。さて、その結果はどうなったのでしょうか。

 ヤコブは、恐らく自分にわずかにあてがわれたであろう、ぶちやまだらの毛のヤギや、黒の子羊を世話し始めます。ここからがヤコブの倍返しが始まります。

37節と38節

ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それらの白い筋の皮を剥いで、若枝の白いところをむき出しにし、皮を剥いだ枝を、群れが水を飲みに来る水溜めの水ぶねの中に、群れと差し向いに置いた。それで群れのやぎたちは、水を飲みに来たとき、さかりがついた。

 これは、どういうことなのか色々な説明があるのですが、一番納得したのは、枝の白い部分を出すことで、ヤギや羊の生殖器のように見えて、さかりがついたのではないかという説明です。あるいは、「白」という言葉はヘブル語で「ラバン」と言います。「ポプラ」は「リブネー」と言うのですが、ラバンという言語から派生した言葉で、「白いところをむき出しする」という言い方で、「ラバンの恥をむき出しにする」というようなラバンを蔑んだ言葉遊びのようなことではないのかという説明もあります。

 いずれにしても、ヤコブは繁殖を上手にさせる方法を知っていて、それでヤコブの持ち物がどんどん増えて繁殖に成功したということが書かれているわけです。これは、これまで一所懸命働いた14年の間にヤコブが見つけ出した方法であったのかもしれません。

 このように、ヤコブは自分の所有物を正当な方法で増やすというような方法をとったのですが、そうなると、ラバンは面白くありません。続く31章をみると、ラバンがヤコブに対して腹を立てたようで、ラバンの息子たちもヤコブの陰口を言い始めます。

 ラバンも、ラバンの息子たちの目から見ても、ヤコブの家畜がどんどんと増え、自分たちのものはそうならないのを目の当たりにして文句を言わずにはいられないという状態になってしまったのです。そして、それをねたんだラバンはヤコブに約束した「報酬を何度も変えた」と7節に書かれています。欄外の注には直訳すると「十度」とありますから、いかにヤコブに対してひどい仕打ちをしたのかがよく分かります。

 しかし、そこまでされてもヤコブの財産がどんどん増えて行ったのでしょうか。それは、先のヤコブの言葉がすべてを表しています。「私の行く先々で主が」すでに働いておられるからです。ヤコブのすることすべてに神の見えざる手が働いていたのです。

 ラバンは非常に狡猾な男でした。そして、ヤコブにしてもヤコブなりのずるさは確かにあるのです。それは、ここを読んでいても気持ちの良いものではないのかもしれません。けれども、ここで起こっている出来事を、神の視点でみれば明らかなのです。

 神はヤコブを祝福されたという、その事実だけがここで際立っているのです。ヤコブの知恵に勝る、神の祝福がここでヤコブに富をもたらしているのです。

 私たちにしても、多くの場合、私の行く先々に主がおられるという信仰にはなかなかたどり着きません。やはり、仕事がうまく行けば、自分のしたあれがよかったのだと、自分の業を誇りたくなるのが、私たちです。自分の存在の確かさは、自分のした業績でしめされるという価値観が、私たちにはしみついています。

 ヤコブも例外ではないのです。だからヤコブは自分の知恵に頼るのです。けれども、ヤコブは知っていました。自分の身に起こっていることは、私の行く先々に主の御業があるのだということを。この信仰が大切なのです。

 こうして、ヤコブはさらに何年かラバンのところにとどまったのです。38節には「20年間」とありますら、ラバンの言い分を聞いて数年間そこで働いていたことが分かります。しかし、20年を経てヤコブは決断をします。

 ヤコブは、野に二人の妻を呼び出します。これからする秘密の話をラバンに聞かれないようにするためです。ヤコブはレアとラケルに語ります。

 私はあなた方の父に力を尽くして仕えて来たつもりだ。しかし、あなたがたの父は報酬を何度も変えて約束を守らない。けれども、神は私に害が及ばないようにされたと。この5節ではヤコブはこう言っています。

「しかし、私の父の神は私とともにおられる。」

 あなたがたの父は欲深だが、私の父の神は私と共にいると語ったのです。レアとラケルに、二人の父を対比させているのです。もちろん、ヤコブはそう言いながら、私の父と言う時には、私の父の神という言い方です。それぞれの父は何に支配されているのかということを、ここで明らかにしようとしているのです。つまり、富か神かという問いかけです。

 そして、13節で主がヤコブに語り掛けた言葉が記されています。

「わたしは、あのベテルの神だ。あなたはそこで、石の柱に油注ぎをし、わたしに誓願を立てた。さあ立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。」

 ここで、主はヤコブに、あの20年前、逃げながら夢の中で天からのはしごを通して出会った主なる神のことを思い起こすように語り掛けられました。

「あのベテルの神だ。」とは興味深い言い方です。しかし、ヤコブにはあの時初めて出会った主を思い出すのにはそれが最も効果的であったのかもしれません。私とともにおられる神は、あのベテルで出会った神なのだということを、主はここでヤコブに改めて思い起こさせておられるのです。

 目先の富を追い求めるラバンと、ヤコブと共にいて祝福をくださる神。この違いをヤコブは二人の妻に明確にを示しながら、あなたたちはこれをどう見るかと、二人の妻に問いかけたのです。ラケルとレアは答えます。それが、14節から16節です。

 この二人の答えは衝撃的です。「ラバンの所にいたとしても、何か私たちに残っているんですか?何ももうないのです。父ラバンがあれほどまでに求めた富は、今ヤコブと共にあり、その富は自分たちの息子たちに与えられる。神が語られたように、なさってください。」と答えるのです。

 ラバンはヤコブに先立って働かれる神を見いだすことはできませんでした。しかし、ヤコブと共に歩んできた二人の妻は、確かな祝福を見て来たのです。

 今日の夜の半沢直樹は「1000倍返し」なるかということのようですが、まさに、ヤコブはここで1000倍以上のものを神から与えられているのです。そのような尋常ではない大きな祝福を、ヤコブの二人の妻は見て来たのです。

 「ヤコブの行く先々に主がおられる」ということを、この二人は誰よりも知っているのです。だから、神の言われたとおりのことをしてくださいと言う事ができたのです。

 私たちの主は、このアブラハム、イサク、ヤコブの神であられる主です。そして、この主はここで語られているように、「共におられる主」です。それこそが、まさに、主イエスの御名である「インマヌエル」という名の中に示されています。

 この主はヤコブの行く先々におられたように、私たちの行く先々にもおられる主なのです。それは傍から見れば、騙されてしまうようなつらく厳しい20年であったとしても、そこに主がおられるという事実があるならば、その歩みは祝福となるのです。この主は、私たちの行く先々にも、共にいてくださるお方なのです。

お祈りをいたします。

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