2020 年 11 月 15 日

・説教 詩篇127篇「子どもは主の賜物」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:00

2020.11.15

鴨下 直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今日は子ども祝福礼拝。子どもたちが親御さんとともに、ここに集って礼拝ができることをうれしく思っています。

 今日の詩篇127篇というのは、結婚した若い夫婦がエルサレムの都に上って結婚の報告をする。その時に歌われた詩篇ではなかったかと言われています。結婚をして家庭を持つ、その祝福がこの詩篇で歌われています。その最初に言われているのは家を建てるということです。

 みなさんは、家を建てるという経験をしたことがあるでしょうか。私は残念ながらないので偉そうなことは言えません。ただ、これまで何度か、教会堂建設をしている教会にいたこともありますので、想像することはできます。

 はじめは漠然と家が欲しいという願いがあることから始まるのでしょうか。そのうちに、近くのハウジングセンターを見に行ったり、あるいは家を建てた友達の家を訪ねた時に、その話を聞いて、自分たちもという思いを抱くのかもしれません。

 とても高額な買い物ですから、よく考えます。自分たちの収入でできることをいろいろと考え始めます。銀行でお金を借りられるのか、共働きするのか、まずは、そういったそもそもそういうことが可能なのかということを考え始めます。

 それと同時に、家の間取りはどうするか、庭はどうするか、駐車場はどうするか、部屋の数は、考え出すときりがありませんが、そういうことを考えるのはとても楽しいことでもあります。夢が膨らみます。そして、同時に大きな不安も抱えることになります。

 そうやって、ついに土地が決まって、こまかな話を詰めて、青写真が出来て、いよいよ、家を建てるというときになりますと、「定礎式」というのをいたします。この定礎式の時に、この詩篇の127篇が読まれることがあります。

 そこで、この御言葉が読まれます。

主が家を建てるのでなければ/建てる者の働きはむなしい。/主が町を守るのでなければ/守る者の見張りはむなしい。/あなたがたが早く起き 遅く休み/労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。/実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 家を建てるということが、どういうことなのか、何を聖書が語っているのかを聞こうということなのです。そこで、語られるのは、せっかく家を建てたのに、「ああむなしいことをした」ということがないようにということです。

 トランプタワーをご存じでしょうか。アメリカの大統領のつくったあれではなくて、カードのトランプで作るタワーです。手に汗を握りながら、カードを合わせて、高いタワーを作っていきます。ドキドキして作っている時は楽しいのですが、ちょっとした手の加減の違いで、またたくまに崩れ落ちてしまいます。私は、せいぜい作れても2段までしか作れません。そもそも、上手につくる技術がないのです。でも、一所懸命つくっても、それは簡単に崩れてしまいます。

 私たちがもし、家を建てるのであれば、そんなトランプタワーのような家を造りたいとは誰も思わないでしょう。耐震強度のしっかりとした、地震にも台風にも、そして、シロアリにも、日本の湿度にも耐えられる家を造りたいと思うはずです。

 私は、実は名古屋の金山クリスチャンセンターの責任者をしております。少し前に、この金山クリスチャンセンターの耐震強度の検査をしてもらいました。耐震強度震度6弱まで耐えられるという結果でした。それが、高い方なのか、弱いという事なのか、なんとも判断の難しいところですが、築50年以上の建物です。それで、建て直しをということを考え始めたのですが、そうしますと反対をする方々がおります。どうせもうすぐ大きな地震が来るのだから、地震で建物が壊れてしまってから建てた方がいいではないかと言うのです。それで、今は建て替えの検討は見送りになっています。内心はとても複雑な思いでいます。地震が来るのを待っているというのもどうなんだろうという思いがあります。もし、建てるのであれば、地震が来ても大丈夫なものを建てたいと思うわけです。

 もし、そうやって一所懸命に建てたものが、瞬く間に崩れ落ちてしまうのだとしたら、それはまさにむなしいということになってしまいます。そうならないために、私たちはどうしたら良いというのでしょうか。

 この詩篇はソロモンの詩篇と表題に書かれています。ソロモンというのは、イスラエルの王さまで、ダビデの子どもです。イスラエルが近隣の国に絶大な力を持ち、神殿が建てられたのも、このソロモン王の時でした。イスラエルの王たちの中でもっとも力のある王であったということができます。

 聖書の中に、「伝道者の書」あるいは「コヘレトの言葉」という箇所があります。

空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。

 こういう言葉からはじまる書物です。この伝道者の書は、ソロモンが書いたといわれるものです。このソロモンは、すべてのものを手に入れた人物でした。神様から知恵を与えられて、その知恵をもって国を大きくしました。ありとあらゆる快楽を知っていました。奥さんが400人いたひとです。計り知れない事業に成功をおさめた人です。その伝道者が、すべてはむなしいことと、この書物で語っています。なぜ、空しいのかというと、何をしても、結局行きつくところはみな同じところ。つまり死が待っている。だから、何をやっても、どれほど成功をおさめたとしても、結局最後に死んでしまったら、空しいのではないかと言っているのです。

 そのソロモンがこの詩篇127篇を書いたのです。

主が家を建てるのでなければ
建てる者の働きはむなしい。

 しかし、むなしくない生き方があるとこの詩篇はとても短い言葉で、そのことを言い表しています。

 「主が建てるのでなければ・・・」とこの冒頭でこの詩篇の作者のソロモンは語っています。私たちが、家を建てたとしても、町を築き上げたとしても、もっと言えば、たとえこの世界で何をしたとしても、どれほどの意味があるのだろうかと、ソロモンは言っています。どんなに一所懸命に建てたとしても、何かの拍子に倒れてしまうのだとしたら、それで、自分のいのちが終わってしまうのだとしたら、自分の生涯はいったい何だったのだろうかということになってしまうのです。
この詩篇では「家」と言われていますが、実際の「家」というよりは、この詩篇が語ろうとしているのは、「生活」のことです。私たちの人生を、家に例えていると考えていいと思います。

あなたがたが早く起き 遅く休み/労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。/実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 どんなに必死に働いて、残業をし、あるいは共働きをし、そうやって生活を作っていっても、それがまるでトランプのタワーのようにまたたくまに崩れてしまうのだと知れば、それは空しいことです。

実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 この前半部分の結びにはそう記されています。ここで言う「眠り」というのは「安心」とか「平安」と読み替えてもいいと思います。私たちが、安心した生活をしたいのであれば、安らかな眠りを求めているのであれば、私たちの家を、私たちの生活を、私たちの人生を、主がつくってくださるのだということを知ることが大事なのだと、この詩篇は語っています。
なぜか、それは、主はいのちを支配しておられるお方だからです。時間を支配しておられるお方だからです。私たちの主は、永遠の神、主なのです。

 私たちの人生は、夏の花火のようなものなのでしょうか。きれいに夜空に打ち上げられて、その一瞬の美しさは、とても素晴らしいものです。けれども、その帰り道に子どもが「あ~あ、花火、終わっちゃった。つまんないの。」とでも言うように、自分が定年を迎えて職場を去る時「あ~あ、おわっちゃった、つまんないの」というセリフを言うのでしょうか。

 もしそうならば、小さな子どもの花火と、定年を迎えるまでの自分の生涯が置き換えられてしまうほどに、私たちの生涯ははかないものなのでしょうか。

 私は以前、ある定年を迎えられた方の引っ越しを手伝いにいったことがあります。その時に、その方が自分の仕事のための荷物を片付けながら、「あ~あ、終わってしまった。」とつぶやかれたあの一言が、どこかで私の頭にこびりついて離れなくなってしまっています。

主が家を建てるのでなければ/建てる者の働きはむなしい。/主が町を守るのでなければ/守る者の見張りはむなしい。

 この言葉は、大都市を築き上げたソロモンの実感だったのだと思うのです。自分の力ですべてのことをしていると考えるならば、その力がなくなるときに、空しさに押しつぶされそうになるのかもしれません。

 しかしです。私たちは、私たちの人生が、自分の力で作り出して来たのではないことを知っているのです。主は私たちの歩みの毎日を支えてくださるお方です。毎晩の眠りを与えてくださるお方です。この主に支えられていることを知る時、私たちは、自分たちの生活が、一日一日の歩みが、主の御手の中にあって、神の守りの中で生かされているのだという事を覚えることができるのです。それは、仕事が終わったとしても、何ら変わることのない、確かな神の御手の中にあるのだから、私は大丈夫だという平安を持つことができるようになるということです。

 この詩篇の後半はこう続きます。

見よ 子どもたちは主の賜物
胎の実は報酬。

 私たちの人生は、私たちの生活は、主が新しい命を与えてくださることで分かるようになるのです。ああ、子どもが私たちには与えられている。そこに目を留めることができる。

 特に、旧約聖書で主はアブラハムに子孫繁栄の約束を与えてくださいました。その約束は、イサク、ヤコブへと受け継がれていきます。そして、このヤコブはあとでイスラエルと名前が変わりますが、このイスラエルの民は、この神からの祝福の言葉に支えられて歩んできたのです。

 ここでは子どもが与えられていることを、勇士の矢、矢筒に満ちている矢のようなものだと言われています。子どもは武器なんかではありませんので、面白い表現ですが、子どもが与えられている祝福を、そのような安心感で表現したのです。

 今日は、子ども祝福式です。何人かの子どもたちが、今日も礼拝に集まり、またそのご両親も参加してくださっています。そして、その子どもたちに、主の祝福があるように覚えてお祈りをしようとしているのです。

 それは、まさに、この詩篇にあるように、神の守りが私たちの生活を築いていくのだということを忘れないようにしましょうねと、みんなで心に刻もうとしているのです。

 私が子どもの頃、つまり昭和の頃までは、また近所の目があって、あるいは多くの家庭が両親と同居しているという家族が多かったために、子どもを守る沢山の目があったといわれることがあります。それが、時代と共に核家族化していったために、子どもを見る目が、母親だけということが、多くなってしまいました。そうすると、それだけ母親の負担が増えることになります。

 それで、この地域などでもできるだけ多くの人が子どもに関わることができるようにと言って、スーパーシニアと言われる方々が、子どもたちを色んな形で支えてくださいます。通学路の旗当番をかって出てくださったり、授業に参加して地域のことを教えてくださる方もあります。

 子どもを見る目がたくさんあった方が良いというのです。そういう眼差しの中で、育っていくことで、子どもたちが色々な生き方に触れ、色んな人たちがいることを知っていく機会になっていけるのです。

 そういう家族の眼差し、地域の眼差し、そして、さらにはその背後に神の眼差しがあることを知ることで、独りよがりな生き方にならずに守られていくことになっていくのです。

 自分のことしか見えずに、自分だけで一所懸命やっていこうとするのはまるでトランプのタワーを築くようなものでしかないのです。けれども、その目をもっとずーっと後ろに下げると、そこにはテーブルがあって、そのテーブルは水平に保たれているのか、周りの目があればそういうことに気が付かされていくのです。あるいは、もっと下がって見てみると、窓が開いていて、突然の風が吹いて来ないかそんなことにも気が付くようになるでしょう。そして、そのうちに、トランプに前かがみになっている生き方だけが、自分の人生なのではないということが、見えるようになってくるのです。そして、もっと離れてみてみると、もっと大きな神の眼差しがあって、この神の眼差しに守られながら子どもを育てることができるのだということを、平安として覚えることができるようになっていくのです。

主が家を建てるのでなければ
建てる者の働きはむなしい。

 この言葉にあるように、空しい家を建てるのではなく、主の眼差し、周りの人の眼差しに支えられながら、家を建てていくことのなかに、喜びと祝福があるのだということを、心に刻んでいただきたいのです。

 私たちの主は、すべてのものを、その御手に持っておられるお方なのです。この主が、わたしたちと共にいて下さって、私たちの家を、私たちの生活を一緒に築いていってくださるのです。

お祈りをいたします。

コメントはまだありません

まだコメントはありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード

現在、コメントフォームは閉鎖中です。

HTML convert time: 0.163 sec. Powered by WordPress ME