・説教 詩篇138篇「低き者を顧みて」
2020.12.06
鴨下 直樹
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今週はアドヴェント第二主日です。アドヴェントクランツの二番目の蝋燭に火を灯しました。アドヴェントの間、こうして毎週一本ずつ、蝋燭の灯を増やしていくことで、主のご降誕を待ち望む習慣が教会にはあります。
そのためにクランツにする蝋燭は太い蝋燭を選ぶことがほとんどなのですが、日本にはあまり太い蝋燭はポピュラーとはいえません。蝋燭を灯すという習慣があまりないのです。私たちの教会では、いつもYさんが作ってくださる蜜蝋燭を使っています。良い匂いがしますし、使っていてとても気持ちよく使えます。ただ、そうすると問題があります。最初の蝋燭は4週目には短くなりすぎて使えなくなってしまうのです。
短い蝋燭というのは、それだけ火を灯したということです。蝋燭は、自身を燃やして、消費して明かりを周りにもたらします。この礼拝用の蝋燭は4週の間に長さが少しずつ短くなりますから、バランスがとれなくなるので、適当な短さのものと入れ替えたりしながら、4週目を迎えていくことになります。
ある時、小さな子どもがそんな短くなった蝋燭を見て、こう言いました。「ちっちゃい蝋燭。これ、僕みたいな蝋燭」と言ったのです。そして、背の高い蝋燭を見て、「これは大人の蝋燭」と言いました。私はそれを見ながら、こう言いました。
「実はねぇ、この長い蝋燭が君の蝋燭で、この短い蝋燭が大人の蝋燭なんだよ。短い蝋燭は、たくさん働いて、少しずつ短くなるから、こっちの蝋燭の方が大人の蝋燭なんだよ」と。
アドヴェントに蝋燭を灯すのには、そんな意味もあるのだと言えます。毎週短くなっていく蝋燭を見ながら、ご自身を捨てて、小さく、低くなられた主を思うのです。
今日の詩篇は「感謝の詩篇」と呼ばれる詩篇です。祈り手は、エルサレムの宮に向かってひれ伏しています。神殿まで行って、そこでひれ伏しているのか、それとも、遠くから神殿のことを思いながらそこでひれ伏しているのか、はっきりは書かれていませんが、なんとなく、遠くの地から神殿の方を向いて、ひれ伏し、感謝の祈りを捧げているのではないかというように読める気がします。
神殿があるということは、ダビデの時代にはまだ神殿はありませんでしたから、直接ダビデの作ということではなさそうです。ダビデに思いを寄せて作られた詩篇なのかもしれません。
旧約時代にすでにヘブル語からギリシャ語に訳された七十人訳聖書には「ゼカリヤによる」という題がついているものがあるのだそうですから、もしそうだとすれば、捕囚期に作られた詩篇なのかもしれません。あるいは、捕囚が終わって、イスラエルに戻って来たことを感謝しているということなのかもしれません。
この詩篇の面白いのは、4節のところで、「地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。」と言っています。感謝をささげる理由は何かというと、「彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。」となっています。
この祈り手が何を感謝したのか、具体的には分かりません。何か、日常のささやかな感謝なのか、あるいは、バビロンに連れていかれて、そこから帰ってくることができた感謝なのか。いずれにしても、自分がささげる感謝の相手は、地のすべての王たちも、感謝をささげる相手なのだと言っているのです。
そしてこの5節から読んでいきますと、ここから少しずつ感謝の内容が見えてきます。
彼らは主の道について歌うでしょう。
主の栄光が大きいからです。
王たちは、主が歩まれた道を知って、その栄光の大きさに歌い出すと言っています。私は、この詩篇がアドヴェントに読まれてきた詩篇なのかどうか、よく分からないのですが、この詩篇はまさにアドヴェントに読まれるべき詩篇だと思っています。
今、世界中の総理大臣や大統領、首相と呼ばれる人たちが、このクリスマスの季節に、主のしてくださった御業を覚えて、クリスマスの歌を歌っているのは、まさにこの詩篇が現実のものとなっていると言えると思うのです。
この詩篇の面白いのはまさにここからです。
まことに主は高くあられますが
低い者を顧みてくださいます。
この主は、偉大な王や、名前を高めた者を顧みられるのではなく、低い者を顧みられるというのです。歴史に名を馳せた王たちではなくて、自分のような小さな者に、主は目を留めてくださるお方なのだと、この詩人は歌っているのです。
王たちは主のみことばを聞いたと言っています。どんな言葉を聞いたのかまでは書かれていないので分かりませんが、主は低いものを顧みられるお方だということが、ここで語られているのですから、王たちが聞いたのは、この御言葉なのかもしれません。
まさに、王とは名を高め、偉業を成し遂げることなのではなくて、民のために低くなり、低いところにある者を顧みることこそが、主のなさる業、王たる者のなせる業なのだというメッセージがここから響いてくるのです。
それは、まるで新約聖書で主が弟子たちに語られたメッセージのような響きがあります。誰が一番偉いのかを話し合っていた弟子たちに主は、後の者が先になり、先の者が後になると言われました。まさに、そのことが、ここで語られているのです。
私たちは、この世界で偉業をなしとげるような王ではないから大丈夫だなどとは言えません。自分はそんなに大した事はない者だと知っていても、そういう者たちが集まればそのの中で、少しでも優位なものを見つけては、それを勝ち誇りたいのが私たちです。
それは、蝋燭の長さのようなもので、高ければ高いほど、長ければ長いほど、価値があると思い込んでいるのです。しかし、主は、私たちの主は、自分自身を灯し、身をすり減らして小さく、短くなればなっただけ、その者を顧みてくださるお方なのだとこの詩篇は言っているのです。
これが、聖書の妙です。
私たちの主は、小さな蝋燭を集めて喜ばれるようなお方なのです。もし、私たちが主なる神様のコレクションボックスを見せてもらうような機会があったら、きっとその中身に驚きを感じるのかもしれません。
そこには、美しい金銀財宝が入っているのではなくて、使い込んで短くなった鉛筆やら、ボロ雑巾やら、欠けたコップやら、飾りの取れたアクセサリーのようなものばかりが入っているのです。
私たちの主は、人が見るのとは違うところを見ておられるお方です。人とは違うところに価値を見出しておられるのです。そして、きっとそれを見た時に、みな嬉しい気持ちになるに違いないのです。安心するに違いないのです。ああ、私はこれで大丈夫だったのだと、その主の手の中にあるものを見て、私たちは主のすべてを悟ることができるのだと思うのです。
なぜ、主はそのようなものに目を留められるのでしょう。なぜ、主は人が好むものではなく、人が価値を見出すようなものにではなく、小さな低い者を顧みられるのでしょう。それは、主ご自身が、自分の身を削り、身を切るようにして人を愛することこそが、主の御業だからなのです。だから、私たちもこの主に倣ったらよいのです。今更、高くなること、偉大な者になることに目を向けなくても、私たちにはできることはいくらだってあるのです。そのような愛の業を主は喜んでくださるお方です。
主は低い者を顧みられるお方なのです。
だから、祈り手は続いてこう祈ることができました。
私が苦しみの中を歩いても/あなたは私を生かしてくださいます。/私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし/あなたの右の手が私を救ってくださいます。
主が私の味方なのだと、こう確信して生きることができるのです。低い者を顧みられる主は、きっとこの私を蔑む者たち、自分の価値を認めてくれない者たちに対して、腹を立て、怒り、その中から主の右の手で私を救い出してくださるに違いないのだと信じることができるのです。
そして、この詩篇はこのような言葉で締めくくられています。
主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。/主よ あなたの恵みはとこしえにあります。/あなたの御手のわざをやめないでください。
「私のためにすべてを成し遂げてくださる」そんなことあり得るかと思うくらいの内容です。この祈り手は、そこまで深く主を信頼しています。完全に自分の味方であると信じているので、こういう言い方ができるわけです。もう少し謙虚になったほうがいいのではないかと、少し私などは気になってしまいますが、その後の文章を読むと、それが願いであるという事がよく分かります。
「あなたの御手のわざをやめないでください。」
なぜ、ここまで信頼して祈ることができるのかというと、主がそのわざを続けてくださるということに、全てはかかっているのです。だから、こう祈るのです。
「あなたの御手のわざをやめないでください。」
もし、主がもうコレクションボックスに沢山あつまったのでもう充分と考えたり、それに飽きてしまったりしてしまえば、それまでの主のわざに期待することができなくなってしまうと考えたのでしょう。
けれども、主の恵みはとこしえにあるのです。とこしえに変わることがないのが主のご性質です。だから、私たちは安心して、この主に期待したらよいのです。
私たちの主は まことに高くあられますが、低い者を顧みてくださるお方なのです。
お祈りをいたします。