・説教 ローマ人への手紙4章9-25節(1)「望みえない時に」
2021.09.19
鴨下直樹
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この10年ほどになるでしょうか。若い人たちを中心にしてライトノベルと呼ばれる読み物が、非常に良く読まれているようです。プロの作家が書く小説ではなくて、素人が、自分ならこんな小説を読みたいと思うものを、文章にして発表する場所もあって、そこで発表された小説が、次々に書籍化されるようになっています。そして、興味深いのはそのようにして生まれる多くの小説には「異世界転生」とか「異世界転移」というテーマが書かれているのです。
「異世界」というのは、ファンタジーの世界です。魔物が出て来て、剣や魔法で戦うというストーリーの小説です。そのような異世界ものの小説が人気を博しているのです。こういう「異世界」をテーマにした小説が多く書かれるのは、今はゲームの影響が多いようですが、もともとはある二つの小説が元になっています。それは、J・R・R・(ジョン・ロナルド・ロウウェル)トールキンの書いた『指輪物語』と、C・S・(クライブ・ステーブルス)ルイスの書いた『ライオンと魔女』という小説の影響です。トールキンの描く異世界は、まさに剣と魔法のファンタジーです。C・S・ルイスが描いたのは今で言う「異世界転移」という物語です。そして、この二人の作家に共通するのは、二人ともキリスト者であったということです。トールキンがカトリック、ルイスはプロテスタントです。これらの物語の中で描かれた、私たちの知らない異世界は、善と悪の世界がもっと明瞭で、その中で何を信じていくのかということが、その背後に描き出されています。というのは、この二つの作品の背景にあった大きな世界戦争が起こる、まさに暗い世界の中で、子どもたちに悪の支配はやがて滅びるという希望を見せたかったのだと思うのです。
そして、私が興味を抱くのは、この見えないものを信じる力というようなメッセージが、形はずいぶん変わっていますけれども、いまこの国の若者たちの心を大きく引き付けているという現実です。今、テレビのアニメーションになる作品のほとんどは、実はこのライトノベルと呼ばれる作品からのものが大半をしめています。多くの若い人たちが、この物語で描かれる異世界の物語に、新しい何かを見出しているのです。
今、私たちが生きている世界は、戦争ではない、まったく異なる脅威を目の当たりにしています。これも、私はそれまでよく知らなかったのですけれども、先日、昨年一年で亡くなった日本の死亡者の統計が発表されました。それによると2020年の一年間で日本だけで138万人の方が亡くなったのだそうです。これは、毎年の平均とさほど変わっていない数字なのだそうです。去年は少し少ないくらいだったそうです。この138万人という数を、一日平均にすると3780人が毎日亡くなっている計算になります。コロナ患者で亡くなる方の数が最近は一日50人くらいでしょうか。年間の平均にすればもっと少ないと思います。コロナで亡くなる人の75倍とか100倍の方々が毎日別の理由で亡くなっているのです。それなのに、ニュースではコロナのことばかりが報道されているのです。
私たちは、何を正しく恐れる必要があるのでしょう。私たちは目の前のものばかりに気を取られて、その背後にある恐れそのものから目をそらしてしまっているのかもしれません。今私たちは、実はそれほど脅威でもないものを、不用意に恐れすぎてしまっているのかもしれません。私たちはこのような現実世界という暗い闇が支配する世界の中で、果たして何を見出していく必要があるというのでしょう。
今日の聖書は、パウロがこのローマの支配する世界の中で、その真っただ中にいるローマにいる人々に手紙を書き送っています。そして、聖書が語るアブラハムについて、語っているところです。
このアブラハムが抱えていた問題は、「将来が見えない」という問題でした。神の約束を信じて、カルデアのウルから出て来て、約束の地まで来たのに、その将来の希望であったはずの約束の土地も、将来を担う約束の子孫も得ることのないまま、試練の時間を過ごして来たのです。
パウロはここで、このアブラハムは「神の約束の言葉」、もっというと「神の心」を信じるということを、その生涯で貫き通した人として描いています。神は、将来を約束してくださるお方なのだと信じたというのです。さらに神は、アブラハムその人の不法、不敬虔、そういうその人の罪、神に逆らう思いを持つ人間でありながら、神の約束を信じる姿をご覧になって、それを「義である」、この人の生き方は神の御前で義しい、義なのだと宣言してくださるお方なのだということを語ってきたのでした。
18節にこう書かれています。
彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
ここに「彼は望み得ない時に信じた」と書かれています。信じられないような出来事が、目の前に示された時に、それを信じることができたのだというのです。
C・S・ルイスの記した『ライオンと魔女』という小説は、戦争で疎開してきた少年少女が、疎開先の屋敷で隠れんぼをしているところからはじまります。そして、その時に、ルーシーという少女が隠れた衣装ダンスが、異世界に繋がっていたというようにして、物語が進められていくのです。その異世界で、悪の支配者である氷の女王が支配する世界をアスランというライオンの姿をした神が、自らを犠牲にしながらその世界の悪から救い出していく物語です。
今の若い人たちが、ライトノベルで「異世界転移」の物語を読む気持ちも、少し分かる気がするのです。将来に希望を見出せない重苦しい思いの中で、突然自分の知らない別の世界が開かれればいいのにという希望を、多くの人たちが心のどこかで求めているからなのだと思うのです。
「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じた」
このみ言葉は、今の世界にもっとも必要なメッセージなのかもしれません。そして、聖書が語る、「異世界」というのは、空想の世界や、ファンタジーの世界ではなく、「神があなたのその傍らで共にいてくださるという世界がある」というメッセージです。闇からあなたを救い出し、死の恐れから、将来の不安から、今どのように生きたらよいのか、それを神が共にいてくださって、あなたを支えるというメッセージなのです。
この知らせほど、現代人が求めているメッセージもないのではないかと思わされるのです。
けれども不思議なもので、人は、このまさに小説のような都合のよい展開など現実にはありはしないのだ、もっと自分で努力して積み上げなければならないし、もっと立派な生き方ができるようにならなければ神の救いは得られないのだと考えた方が現実的なのだと思えるわけです。
そして、その一つのシンボルになったのが、当時の人々が大切にしてきた「律法」の象徴ともいえる「割礼」でした。この割礼というのは、男性の性器の皮の部分を切り落とすということで、それをすることがユダヤ人になる、ユダヤ人の信じる神を信じたことを示すしるしなのだと考えていました。
だから、この割礼を終わらせていない人は、律法を守ったとはいえないし、神を信じたとは言えない。そんな簡単に信じるだけなどということでは、今までのユダヤ人たちが大事に行い続けて来た伝統がないがしろにされると考えたのです。そのような、割礼に代表されるような律法の教えを一つ一つ、きちんと行っていくことで、神は人を救い出してくださるのだと考えたのです。
けれども、パウロはこのところでは、アブラハムを例に出しながら、アブラハムが神から義と認められた時は、アブラハムもまだ割礼を受ける前だったのだということを、聖書から説明しようしています。
ことの重要さは、「割礼=信仰」なのではなくて、信仰があって、神に義と認められるという神の思いが何よりも優先するのだと、パウロはここで論証しようとしているわけです。
大事なのは、律法を行うことを優先するのではなくて、神の心を受け止めること。すべてはそこから始まるのだと、パウロはここで語っているのです。
16節にこうあります。
そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちのすべての者の父です。
ある説教を読んでいましたら、昔、イザヤ・ベンダサンの書いた『日本人とユダヤ人』という本の中に記されたエピソードが紹介されていました。今から70年ほど前のことになりますが、イスラエル共和国が建設された時のことです。イエメンに移住したユダヤ人たちの群れがあったのだそうです。そこに風のたよりでパレスチナの地に自分たちの国が出来たと聞いて、4万3千人という人々が直ちに家を捨てて歩き出したのだそうです。それを聞いたイスラエルの政府は、飛行機を出してこの人々を運んだのだそうです。当時のユダヤ人移住者たちにとって、飛行機のことも知らずにいたので、思いがけないことであったに違いないのに、当然のように人々はこの飛行機に乗り込んで行ったのだそうです。迎えに来た人たちが驚いて、彼らに尋ねると、「聖書に記されているでしょう。風の翼に乗って約束の地に帰る、と」と答えたというのです。
目の前で起こっている出来事を、それこそ異世界の扉が開かれているような状況であったにも関わらず、当時のユダヤ人たちは「彼らは望み得ない時に信じた」のでした。この出来事は「事が恵みによるようになるため」ということがよく分かるエピソードと言えます。神は、私たちの頭では理解し得ないような不思議な救いの御業を行うことのおできになるお方です。しかし、大事なことは、それが私たちの目の前に指示された時に、それを受け止めることができるか、そのことが私たちに問われているのです。
信じられないような出来事を信じる。起こりそうもないことが、神によってなされることを信じる。それが、アブラハムの信仰なのであり、それを信じるということの背景には、神の恵みがあるのだということを、パウロはここで語っているのです。
17節にはこう記されています。
「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。
アブラハムという名前の意味がここで語られています。アブラハムは「多くの国民の父」というのが、その名前の意味です。なぜ、アブラハムのことが父と呼ばれるようになったのか。それは、「彼は、死者を生かし、無いものをあるものとして召される神を信じ」たからと言うのです。
ここの部分を協会共同訳では「すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです」と訳しています。実は、これは口語訳聖書の翻訳に戻ったことになるわけです。聖書の中で、この「無から有を呼び出す」と長く語られて来た信仰を語っている聖書箇所はここだけです。
このことばが言い表そうとしているのは、死んだ者が、命が与えられて生き返るという意味のことを、パウロは他の手紙の中でも言っています。つまり、息子イサクを神の求めに応じて、ささげものとしてほふった後に、そのいのちを得たということが意図されていると考えられます。あるいは、19節にある年老いたサラのからだから、約束の子であるイサクが与えられたということも含まれているはずです。
神は、不可能を可能とすることができるということを、アブラハムは信じたのだというのです。
パウロがここで語っているのは、信じた者であるアブラハムの凄さなのではありません。そうではなくて、不可能を可能とされる神、無から有を呼び出すことの出来る神に、視点を置いているのです。
この神の恵みとしか呼べないことを可能とするのが、まさに神の御業なのです。それは、人間の努力が、頑張りに変えられてしまってよいものではありません。
そして、この不可能を可能に変える神、無から有を呼び出すことのできる神は、アブラハムにも働いてくださったように、今、私たちにも働かれる神なのです。
もう一つ、注意しなければならないことがあります。それは、無から有を呼び出される神は、私たちの望むものを何でも可能にしてくださる神という意味ではありません。そのことも、また注意しなければならないことです。
神が望まれることを、神はなさるのです。そして、この神が望まれることというのは、罪人にすぎない私たち、不敬虔で、不信仰としか呼べない私たちであっても、救いたいと願っておられるという、まさに、神の恵みに強調点が置かれています。
神は、戦争の中であろうと、病の感染が広がる中であろうと、自然災害の恐れのある世界であろうと、病を抱えていようと、経済的困難を抱えていようと、もう闇ばかりが支配して、そこには何の希望も見いだせないのだと思っている私たちを、まさに「異世界」に、神の支配の元に、呼び出したいと願っておられるお方なのです。
この神の恵みが、私たちには示されているのです。このお方を信じ、このお方の恵みに、身を委ねるなら、神は私たちを赦し、受け入れて、私たちを新しい存在、義そのものとして、神の御前で受け入れてくださるのです。
お祈りをいたします。