・説教 ローマ人への手紙6章1-14節(1)「新しいいのちに歩む」
2021.10.17
鴨下直樹
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パウロは、5章から8章までのところで、信仰に生きるようになった人の新しい生き方とは、どういうものなのかをここで語っています。
前回の説教の最後で私は一つのたとえを話しました。死に向かう滅びの列車に乗っていた私たちに、反対方向に進む、いのちに向かう列車が来た。この列車に乗り込むことが、主イエスを信じて、悔い改めるということだという話です。
その説教を聞いたある方が、昔歌った子ども賛美歌を思い出したと言われました。
「福音の汽車」という讃美歌です。ご存じの方がどのくらいいるか分かりませんが、私も子どもの頃、よく歌った歌です。こんな歌詞です。
罪の駅から出て もう戻らない
切符はいらない 主の救いがある それでただゆく
福音の汽車に 乗ってる 天国行きに
よくこのことをあらわした歌だと思います。主イエスの救いがやって来て、汽車というのはもうないので列車と言った方がいいかと思いますが、その列車に飛び乗っていのちの方に向かって進むようになった。そんな話をいたしました。
そして、もう一つの話をしました。それは天秤の話です。私たちの罪の重さと、キリストのしてくださった恵みの大きさの話です。あまりにもこのキリストがして下さった恵みの御業が、大きいのでその秤からあふれるほどだというのです。そこで、パウロは5章の20節でこう言いました。
「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」と。
多くの罪を犯した者は、その大きな罪の重さをはるかに超えるキリストの恵みの大きさを知ることができるとパウロは言ったのです。ここまでが前回の話です。
しかし、この言葉は、別の理解をもたらす危険をはらんでいました。それは、沢山の罪が赦されるのだから、罪を犯せば犯すほど、神様の赦しが分かるのだとしたら、罪をどんどん犯してもいいのではないかと考える人が出てくるかもしれないということです。
まるで、ゲームの無敵のアイテムを手に入れたような状態です。ルールを無視してもOK、「あなたは義だ」と神様が言ってくださるのだから、もう鬼に金棒です。そんな風に考える人がでることを考えてパウロはここで話を進めているのです。
そこで、パウロはその考え違いをここで解き明かしていこうとしています。そして、その説明としてパウロが選んだのは、「洗礼を受けることの意味」です。
3節でこう言っています。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
パウロはここで、主イエスを信じてバプテスマを受けたということは、そこでキリストと共に死んだのだということなのだと語っています。
「バプテスマ」というのは「接ぎ木する」という意味です。主イエス・キリストという太い幹の木に、私たちを接ぎ木することで、キリストのいのちに生きるようになるのです。
バプテスマを受けるときに、私たちの教会では水の中に身を沈める「浸礼」という洗礼式の仕方をします。その他にも、頭の上に水を注ぐ「滴礼」という洗礼の仕方もあります。どちらが正しいということではなくて、それぞれの教会の習慣の違いです。意味することは同じですが、水の中に身を沈めることによって、そこで古い自分は、主イエスと一緒に死んだのだと、パウロはここで洗礼の意味を説明したのです。
聖書の洗礼の意味をこのように解き明かしたのはパウロが最初です。もちろん、それまでも教会で洗礼の意味というのは語られていたはずです。福音書の中にはヨハネのバプテスマのことが書かれています。それは、「悔い改めのバプテスマ」であると説明されています。また、主イエスのバプテスマは「聖霊のバプテスマ」なのだと語られています。神の霊である聖霊がそのときに注がれるのだということは福音書の中にすでに記されていました。
しかし、洗礼を受けるというのはどういうことなのか、この意味をパウロはここで丁寧に語るのです。あなたがたはバプテスマを受けた。水の中に入るとき、あなたがたは主イエスが十字架の上で死なれたように、水の中で主イエスとともに、古い罪の自分はそこで死んだ。それが、洗礼を受けるという意味なのだとパウロは語ったのです。
私たちは信仰を持つ前と、洗礼を受けたあとの生活の変化ということで思い悩むことがあります。先日、東海聖書神学塾で、渡辺善太先生の「わかってわからないキリスト教」という説教の紹介をしました。この説教は50年ほど前になされた説教です。渡辺善太先生というのは、50年前に東京の銀座教会の牧師で、日本の説教の歴史の中でも、もっとも優れた説教者であったと言われるような人です。この「わかってわからないキリスト教」というのは、どういう説教か簡単にお話ししたいと思います。
はじめに、私たちは色々な理由で教会に来るようになって、聖書の話を聞くようになります。そこで、まず「わかった」となって信仰に入るわけです。ところが、何年か教会に来ていると、自分の信仰はどうも他の人のように力強くないと感じ始めて、礼拝や祈祷会に出席しながらもっとよく分かろうとするのだけれども、どうも自分には分からない。自分は他の人のような生き生きとした信仰ではないのではないかという不安が出てきて、わからなくなる。そういう「わかってわからない」という状態になるということを話しています。そして、そこを乗り越えて「わかってわかる」という信仰に至るというその、道筋を丁寧に解き明かしているのがこの説教です。
ここで、この説教をそのままお話することはできませんが、みなさんの中にも、この「わかってわからない」という状況に今陥っている方があるかもしれません。
今日、私たちに与えられている聖書の問題となっているのは、この「わかってわからない」ということと言えるかもしれません。というのは、私たちの罪の問題ですが、私たちは教会に来始めた時、まずこの「罪」というのがよくわからないわけです。私たちは「罪」というと法律上の罪のことをまず考えます。法律を犯していることを「罪」と一般ではいうわけです。それは、犯罪という意味です。
ところが、教会でいう「罪」というのはどうも聞いているとこの犯罪のことをさして言っているわけではないということがだんだんわかってくる。では、聖書が語る罪とは何かと言ったときに、どうもしっくりこないわけです。信仰の世界でいう罪というのがどうもあるらしい。これは、神さまの願っている神の心に反しているということです。これを聖書は罪と言います。そして、この神の思いに反している者は、死に支配されてしまっているというわけです。これは、もう認めるか認めないかということになるわけで、認められないなら、この罪ということはちっともわかりません。そして、それが「わかった」となってはじめて信仰の道がひらけてくるわけです。
ところが、今度はその罪をめぐって、さらに「わからない」という事態に遭遇します。聖書は、その罪を主イエス・キリストがすべて担って十字架で死んでくださって、私たちを罪から救ってくださったというのです。ところが、そのことがわかったと思って生活していると、その「罪」というのもが、自分の中から消えるどころか、ますますその罪の力が大きく働いているように感じるようになるわけです。そうすると、「わかったはずなのに、わからない」という事態に陥ってしまうのです。
そこからが問題です。この罪の問題というのは、私の中にこびりついてなかなか自分から離れていかないのです。そういうなかで、この前のパウロの「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」という言葉を聞くと、「ああこれはいい言葉だ。罪を犯しても大丈夫。そこに恵みがたくさんあるというんだから、もう罪のことを気にしないでどんどん悪いことをしても大丈夫なんだ」という考えに落ち着いてしまいたくなるのです。
そんなことはないと思いながらも、「もうそれでいいや。このすっきりしない感じからなんとか自由になりたい」という気持ちが私たちの心の中に浮かんでくるのです。
パウロはこの4節でこう言っています。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
パウロはここで、神の御思いと離れた罪の生き方をしていたこれまでの自分は、洗礼を受けたときに、もう死んだのだということをここで、改めて意識させようとしています。あの罪の自分は死んだのだとすると、その後はどうなるかというと、キリストがよみがえられたように、私たちもよみがえったのだと言います。
そして、ここでパウロはよみがえったという言葉を「新しいいのちに歩む」と言い換えました。これまでの自分の生き方とは違う生き方をする、それこそ「新しいいのちに歩む」ことになると言ったのです。
ではこの「新しい歩み」は、いままでの自分の歩みとどこが違って新しいのでしょうか。それは、「死んだ者は、罪から解放されている」と7節で言っています。
今まで死に向かう列車に乗っていた私たちは、いのちへ向かう列車に乗り換えたわけですから、もう罪に支配されることはなくなっているのだということを、まずその原則を確認するところから、パウロは説明を始めたのです。
もう死に向かって進んではいないのです。根本的な生きる方向が変わったのです。ということは、私たちの生活の周りには実際には同じように、さまざまな罪の誘惑はあるのですが、それに支配されることはないのだと言っているのです。
パウロはまず、その理屈をここで説明しています。というのは、この理屈がまだ分かっていないと、先に進めないからです。
先日、娘が算数の割り算の問題が分からないということで頭を悩ませていました。簡単にいうとこんな問題です。1000円持っていて、一人330円のお菓子の袋を買った。あまりが10円あった。何人で分けたのかという問題です。今、説明するために簡単に言っていますが、実際の問題はもう少し複雑でしたが、答えの出し方は決まっています。まず1000円からおつりの分の10円を引いて、990円を330円で割ればいいわけです。
理屈が分かれば、あとはその応用をしていけばいいだけです。そんな話を娘と昨日していたところでした。
信仰もそういう意味では同じです。罪の問題は、まず理屈としてもう死の方向をむいてはいないので、死に支配されてすることはない、罪に支配される必要はないという理屈が分かるということが大事です。分かったら、やめればいいだけだからです。
問題は、リバウンドが起こるということです。ダイエットにたとえてみると分かりやすいと思います。私には五人の兄弟がいるのですが、昔、兄弟たちとよくダイエットの話をしました。決まって「ダイエットしよう」と言い始めるのは夜ご飯を食べた後です。みなさんの中にもそういう方があるかもしれません。「だから、食べる前に言おうよ」と言うわけですが、そうはいかないわけです。食べたいからです。ダイエットした方がいいということは明らかなのですが、食べたいという欲求が、ダイエットしたいという思いよりも勝ってしまうので、いつまでもダイエットができないことになるわけです。
でも、ダイエットしたらやせると分かっているということは大事なことです。でも、わかっているけど、わかっていないので、やめられないわけです。
そこで、この問題の解決になるのはここで、「わかってわかる」ということなのです。どこかでまだダイエットしなくても何とかなると思っている以上は、なかなかその誘惑に勝てません。こと罪の問題も似ているのです。本当にことの重大さが分かると、やめることができるわけです。このまま食べ続けるとこうなりますと、具体的な病状まで言われて分かる人があるかもしれません。それでも分からない人もいるかもしれません。
罪のリバウンドも同じです。分かっていても、本当のところまだ分かっていない部分が多いのです。では、この分かって分かるというところにまで達するにはどうするか。自分で一つ一つの罪の問題を絡まった糸を解くようにしていても、一つほどけても、次がある。また次があると、いつまでたっても罪の問題の根本的な解決にいたらないのです。
その時は、そのからまったままの糸ごと、神様に渡してしまうことです。ごめんなさい、あと全部やっといてと任せてしまうことです。
この全部ひっくるめて神様にお任せする、これが、バプテスマを受けることの本当の意味なのだとパウロはここで言っているのです。自分はキリストとともに完全に死んだのです。そして、キリストはもはや罪に対して死なれ、神に対して生きておられるのだと言うのです。
11節にこうあります。
同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
「認めなさい」とここで言われています。神が私たちを義と認めて下さっているのです。その義は、自分にも及んで、自分は神に対して今生きる者となった。神に委ねて生きる者となったのだということを、自分自身でも認めなさいと言うのです。
あの問題はどうしよう、この問題は誰に頼もう、ではなくて、すべて神に委ねるのです。そして、自分はこの神に向かって生きる者となった。それが自分の新しい生き方なのだということを、まず自分で認めることです。ここから始まるのです。
認めたら、そのまますべてまるごと神に任せてしまうのです。そして、神の方向を向いて歩んで行くのです。もう、今までの罪の生活の方が楽でよかったとはならなくなるのです。
私たちはキリストと一つになるのです。キリストという大きな木に結び付けられたのです。そして、そこには、自分だけが必死になってしがみついているのではないのです。あの人も、この人も、みなキリストに結び付けられていることが見えてくるのです。
パウロはこの5章の最後の21節で「私たち」と言い始めて、この6章から主語は「私たち」に変わっていることに気づきます。
もはや、私たちは一人ではないのです。私たちはみな互いにキリストに結び合わされて、キリストと共に生きる者となったのです。このキリストと一つになる、キリストの死といのちにあずかる時、私たちは罪の支配から自由になり、この主にすべてを委ねて歩むことができるようにされるのです。
お祈りをいたします。