・説教 ローマ人への手紙5章12-21節「キリストとアダム」
2021.10.10
鴨下直樹
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今日の聖書箇所はかなり難解なところなのですが、このローマ人への手紙の中でも中心とも言われているところです。とても重要なところですから、本当は何回かに分けて説教すべきところだと思います。けれども、この箇所の中心部分をできるだけ聞きとっていきたいと思っています。
今日の冒頭の12節にこうあります。
こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に――
私たちは、今世界中で何十万人という死者を生み出した新型コロナウィルスのことを、よく知っています。はじめは今から2年ほど前に中国の武漢で発見されたと言われていますが、瞬く間に世界中にこのウィルスがまん延していきました。まさに、一人の人から始まった出来事が、世界中に影を落とすことになるということを、私たちは身をもって経験しているわけです。
パウロがここで言おうとしているのは、アダムによって罪がこの世界に入って来たということです。けれども、それはアダムだけの問題ではなくて、すべての人が罪を犯したことになるのだと言って、そのために死がすべての人に広がったのだとここで言っています。
この12節の言葉を通して、パウロは3つのことを語り始めるのです。もう一度言うと、まず第一、アダムによって罪がこの世界に入ったこと。第二は、それはすべての人の犯した罪なのだということ。そして、第三は、そのために死が広がったのだということです。
しかし、パウロはこの12節の冒頭で「こういうわけで」と語り始めています。「こういうわけで」と言うということは、その前にその原因が語られているはずです。しかし、この原因であるどういうわけなのかということが残念ながらよくつかめません。
この前のところでパウロは、罪の中に生きていた私たちは主イエスの血によって義とされて、神と和解することができるようになったと話しています。私たちの罪と、主イエスの救いの業をパウロは語りました。では、その罪とは何かということを、ここで語り始めているのです。
「すべての人が罪を犯した」とこの12節で言っています。一人の人が犯した罪とは、この後読んでいくと分かりますけれども、それは創世記に出てくるアダムのことです。しかし、そこで犯したアダムの罪というのは、アダムだけの問題ではなくて、「すべての人の罪」なのだとここで言っているのです。ただ、私たちが考える「罪」というのは、人の物を盗むとか、嘘をつくとか、人を殺すとか、そういう個々の罪のことがすぐに思い浮かぶと思います。だから、「すべての人」と言っても、赤ちゃんには罪がないとか、自分にしても、人から何か咎められるような違反行為をしたつもりはないという考え方が出てくるのだと思うのです。
「罪」というのは、創世記ではじめの人であるアダムが、神との約束であった「エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を取って食べてはならない」という約束を破ったことから、人類はこの罪を引き受けることになりました。これが、聖書が語る罪の理解です。実は聖書が、アダムの犯した罪は私たちが犯した罪でもあるのだということを明確に語っているのは、ローマ書のこの12節が初めてなのです。聖書はアダムの犯した罪というのは、私たちが犯した罪なのだということを、ここではじめて語っているのです。
けれども、そう言われると多くの人は抵抗したくなります。どうして、アダムの犯した罪が、私たちの罪なのでしょうか。すべての人がその根底に抱え続けているこの罪のことを「原罪」という言い方をします。この原罪と言われる、人の中に宿っている神に逆らう思いというアダムの出来事は、すべての人の代表者として、アダムが犯した罪であったので、これは私たちすべての人の中にある原罪なのだと聖書は書いているのです。
私は、今「アダム」と言いましたけれども、この箇所が書かれている創世記3章では「アダム」という固有名詞ではなくて、「人」と書かれています。人が、神との約束を破った。そして、その結果、死はすべての人を支配するようになったのだと聖書は言っているのです。
また、この12節の最後の文章は「死がすべての人に広がったのと同様に――」と書かれているのですが、この後の文章が切れてしまっています。この「同様に」という文章のあとは、本当は「~なのです」と続きの言葉がこなければなりません。しかし、その続きが書かれているのは、18節と19節まで飛んでしまっています。
こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。
このアダムの罪のために、この世界に罪が、死が入り込んできました。しかし、パウロはキリストの従順な出来事を通して、すべての人が救われる道が開かれたのだと語っています。
これを、「第二のアダム」という言い方をしたりします。最初の人アダムが罪と死をもたらしたとすれば、第二のアダムである主イエス・キリストは救いといのちをもたらしたのです。これが、この12節の本来言いたかった文章です。けれども、パウロはここで文法的に正しい文章を整えるよりも、一つのことを言おうとすると、すぐにもう別のことを語りたくなってくるわけです。これがパウロの手紙の特徴でもあります。
それで、パウロはこの13節から別の説明をはじめています。これは、12節で「罪と死」を語り始めたので、本当に話したい「アダム」と「第二のアダムであるキリスト」の話は一度あとに回しておいて、罪とは何か、死とは何かということを、この13節と14節で語りはじめるのです。
ここでパウロは「罪」というのは律法との関係において明らかになると語り始めます。それは、個々の犯罪のことではなくて、「律法」つまり、神の思い、神の願いから外れていることが罪なのだということを、ここでまず丁寧に説明していくのです。そして、その結果として「死」が人を支配するようになったと14節で語っています。
この14節以降から「支配」という言葉が何度か出てきます。この「支配」という言葉は「国」という言葉でもあります。「神の国というのは、神の支配のことですよ」とよく説明するのですが、ここではそれと同じ言葉が使われています。
神の思いから離れて罪を犯した結果、死の支配する世界、死の国に生きるようになったのです。この死の国、死の支配というのが、エデンの園から追い出された私たちの生かされている、この世界のことです。この死の国、死の世界の中に身を置かなければならなくなったのが、私たちなのです。
そうすると、パウロは続いて、アダムによって死が支配するようになってしまったこの世界で、第二のアダムとして来られたキリストがなさったのは何かということを語っていきます。それが、15節です。この15節にこうあります。
しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう多くの人に満ちあふれるのです。
一人の違反によって、人はアダムの犯した罪である死の支配の中に入れられることになりました。17節でも同じことが繰り返されていますが、「アダムによって」と「キリストによって」という言葉が語られています。この「キリストによって」というのは、「エンクリストー」というギリシャ語です。パウロが好んで使う言葉です。英語で言うと「インクライスト」という言葉です。「キリストの中に」とも訳せる言葉です。「アダムの中に」生きていた者が、「キリストの中に」生きる者となったのだと17節で語っているのです。
この「アダムの中に」とらわれていた私たち、「罪の中に」と言ってもいいし、「死の中に」と言ってもいい。そういう自分ではどうすることもできない、抵抗できない圧倒的な力の中に入れられていた私たちは、「キリストの中に」入れられるようになったのだというのです。
そのために、主イエス・キリストが何をしたのかということを、パウロはここで語っています。それが「恵み」という言葉で表現されているのです。「恵み」としか言えないのです。
私が神学生の時に、説教演習の時に、この恵みをどう説明したらいいかと考えに考えて、私がついに、その説教で語ったのは「とにかくすごい恵み」という言葉でした。私が、そう説教すると、神学生たちが一斉に笑い始めました。「気持ちは分かるし、その情熱も分かるけど、『とにかく』では何も説明できていない」と。
パウロはこの17節では「あふれるばかり」という表現を使いました。神の恵みの御業は、その一つの所に留まることができずに、あふれ出してしまうほどだと言うのです。
これはアダムの犯した罪と、キリストのなさった恵みを天秤にかけるとどうなるかということです。私たちは、アダムの犯した罪、すなわち、神の思い、神の願いを無視して、自分本位な決断を選び取ったことによって、エデンの園、神の楽園から追い出されてしまいました。しかも、その結果、死の国に生きることになってしまったわけですから、この罪がどれほど重いものであるかということに目を奪われてしまいます。しかし、パウロはここでキリストの恵みの御業を天秤に乗せると、そのキリストの恵みの重みの方がずっと重くて、この罪の重さを、はるかに凌ぐ恵みの業で、その秤の升からもあふれ出してしまうほどなのだと語るのです。
20節にこうあります。
律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
文語訳聖書の翻訳をご存じの方は「罪の増すところ恵みもいや増せり」という言葉を思い出される方もあると思います。恵みがあふれ出すほどなのですが、その恵みに目を留める前に、私たちは罪の重さというものを、正しく理解する必要があります。罪の重さ、私たちの罪の重さというのは、神の前にも、人の前にも重いものであることを知らなければなりません。
私たちの罪というのは、神を悲しませるものですが、それは人を悲しませるものでもあります。たとえば盗みをする。それは、神様の思いに反することです。けれども、そのことが明るみになれば、家族や、その周りの人たちは大きな悲しみに支配されることになります。誰かの悪口を言う、間違った行いをする、人を傷つける。そうやって罪が増していくということは、苦しみが増すことでしかありません。その苦しみは、家族に、友達にとどんどん波及していって、みんなを苦しめることになってしまうものです。
「罪の増すところに恵みもいや増せり」「罪が増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」とは簡単にはならないのです。もし、その問題も自分の力で乗り越えようとするならばです。それは、まさに罪の支配、死の国に生きているようなものです。死が王さまのようにふるまう世界です。自分の犯した罪の重みがどれほど重く、人を苦しめるものとなるか。誰にも、この罪の重み、死の重みから人を自由にすることなどできはしない。そう信じて疑わないほどの罪の重みは、誰かがどうにかすることはできないのです。赦されるはずのない罪、その結果が死なのです。そして、私たちは誰もが知っているのです。私たちの死の枷は、誰も取り除くことはできないものだということを。
けれども、19節でこう言っています。
ちょうど一人の人の不従順によって、多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。
パウロは言うのです。一人の人の罪の行いによって、周りの家族や、友達を苦しめ、その結果、罪の支配がもたらされすべての人が死の支配に入れられたように、主イエスの恵みの業は、多くの人を救う救いの業となるのだと。
パウロがこの12節から21節の中で一番言いたいのは次の21節です。
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。
私たちが乗り込んだ列車は、死へ、滅びへ向かう列車です。そして、その目的地はもう決まっているのです。それが、「アダムの中に」生きていた私たちの人生でした。しかし、恵みの御業が起こったのです。
パウロはこの21節でこう書きました。「私たちの主イエス・キリスト」と。「一人によって」「アダムによって」という主語の中に生きていた私たちの主語が入れ替わる出来事が起こったのです。
私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。
もはや、死に向かう一方通行の電車しかないと思っていたのに、目の前から反対側に進む列車が現れたのです。
私は、電車に乗るのがあまり得意ではありません。神学生の時のことですけれども、当時私はあるアパレル関係の会社でアルバイトしていたことがあります。その時、名古屋にある栄のあるお店で商品を受け取って、そのお店の近くの駅から地下鉄で、私が勤めていた名古屋の丸の内の会社までその商品を持って帰る必要があったのですが、その時に地下鉄を乗り間違えて、反対側に進んでしまいました。地下鉄の階段を降りたらちょうど電車が入って来たので、その電車に飛び乗ったのです。私はその時、名古屋の地下鉄の駅が、地下一階と地下二階に分かれているところがあるということを知らなかったのです。
丸の内というのは、栄の次の駅ですが、私が乗り間違えだと気が付いたのは、東山動物園が見えて来てからでした。そこまで来てようやく、「ああ、やっぱり乗り間違えた」ということに気づいたのです。
このまま進んで行くと、間違いだと気づくなら、その駅で乗り換えて、反対側の電車に乗らなければなりません。
それまで、死に向かって進んでいた列車が、いのちへ、光へと進む列車に乗り換えることが出来たとしたら、そこにあるのはひたすら期待と、喜びです。もはや、死は支配することなく、いのちの主イエス・キリストの中に、私たちは招かれることになるのです。
この主にあって、私たちはキリストの中に抱かれて、いのちへと、神の救いの支配する国へと導かれていくのです。
お祈りをいたします。