2022 年 3 月 6 日

・説教 ローマ人への手紙10章1-13節「イエスを主と告白する」

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2022.03.06

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 先週行われた教団役員会で、開会説教をされた先生が「グレート・リセット」という言葉を紹介されました。私はこの言葉を知らなかったのですが、少し気になって調べてみました。この言葉が最近になって使われるようになったのは、2021年、世界経済フォーラムが開催するダボス会議のテーマとして「グレート・リセット」が取り上げらたからでした。この「グレート・リセット」というのは、今あるシステム、金融システム、社会経済システムなど、これらのシステムは第二次世界大戦の後に作られたものが多いのですが、これらのシステムをいったん全部リセットして、もう一度やり直そうという考え方です。特に、コロナになって、社会はこのままでは難しいという中で、新しい枠組みを作りなおそうということを考え始めている人たちが出てきているようです。

 私がこどもの頃、当時ファミリーコンピューターというテレビゲームがはやり出しました。このゲーム機には手前に、赤い「リセットボタン」というのが付いていまして、ゲームがうまく進められないと、「リセットボタン」を押して、ゲームを全部最初からやり直すということができました。ゲームがうまくいかないと、何度もこのリセットボタンを押してやり直したものです。

 考え方はこれと同じです。今の社会のシステムがうまくいかなくなったので、一度リセットボタンを押して、全部最初からやり直そうという考えを持つ人たちが出てきたのです。

 そういう世界のシステムをもう一度やり直そうという考え方は、以前からありましたし、このコロナや、ロシアがウクライナに対して始めた今回の戦争で、ますますそういう流れは進んで行くということが考えられます。

 今日の聖書の中に、「律法の目指すものはキリストです」という言葉があります。「この目指すもの」という言葉には、「目標」という意味と、「ゴール」という意味があります。神が、私たちに与えた律法、神の戒めは、キリストに向かっている、キリストによって完成するということです。

 これは、神の言葉は、キリストによって完成すると言い換えることもできると思います。目標をどこに置いているのか、そのゴールはどこか。そのことを見誤ってはならないのです。

 神の願っておられること、その中には当然経済も、政治も、教育も、そのすべてが含まれているはずです。そして、それらの目指すものは一体どこにあるのでしょうか。一部の人の利益につながるものだとすれば、それは争いの源となってしまいます。
 ここで、パウロは祈りをささげています。1節です。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

 ここで、パウロはまず「兄弟たちよ」と語りかけました。あなたがたは私の側にいる友だ、仲間だ、家族の一員なのだ。そのローマに住む、まだ見ぬ家族に対してパウロは願っていることがあるというのです。それは、ユダヤ人たちが救われること。これが、私の心のからの願い、祈りなのですとパウロは語り出すのです。

 ウクライナの人々も、ロシアの人々も救いを必要としている「彼ら」の中に入る人たちだと私は信じます。今、世界中でロシア人に対する制裁が始まっています。ロシアではすでにクレジットカードが使えなくなったそうです。そこに住む、ロシアの人だけでなく、世界中の国から来ている人たちがその巻き添えになっています。

 もともとロシアは日本の四分の一しかないGDPの国です。あまり裕福な国ではないのです。ロシアの人口は人口1億4千万で、一人当たり1万1262ドル、日本は1億2500万人で、4万2248ドル。こういう経済的な違いのある国で、十万人を超える兵士たちが今、戦争に出ているそうです。先日聞いた報道では、補給の不足した前線の兵士たちは3日間も食事がとれず、テントもないので、寒いウクライナの冬を外で立ったまま夜を過ごしているということでした。このまま世界からの制裁が続けば、ウクライナの人たちだけでなく、今度はロシアの人たちに飢えが始まります。ロシアの子どもたちが食べるものが無くなっていって、悲しい姿を目にすることになるのは目に見えています。

 もちろん、そのために指導者が国民のことを考えて戦争をやめるのは当然のことですが、まさに、自らの破滅を招き寄せている格好で、それは西側の国々がそのように追い詰めていく加害者になってしまうことにもなりかねません。

 この戦争の先に待っている目標、ゴールとは果たして何なのでしょうか。戦争の後に一体何を目指しているのでしょう。ロシアに限らず、今の世界もグレート・リセットをしたとして、そこからどんな目指すゴールを描いているというのでしょう。

 パウロは語ります。3節

彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。

 「神の義」とは、神のあわれみの心です。その神の心を知らないで、自らの義を通そうとするものは、ロシアであっても、ウクライナであっても、西側の諸国であっても同じです。「神の義に従わない」ならば、そして、それぞれの信念にもとづく自らの義を立てようとしても、そこに救いがないことは明白なのです。人の信じる正義、人が力で、武力で獲得できる正しさ、義では、救い至ることはできないのです。

 誰が、天に上るのか、誰が海の深みに降るのか。神の義は、神が語られたことば、律法は天にまで昇ってつかみ取ったり、海の底に降りて行ったりして取って来なければならないほど、遠くにしかないのでしょうか。神の義は、そのような人間の努力の賜物によって得られるものではないのです。

 パウロは語ります。8節です。

「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」

と。

 神のことばはすぐあなたの近くにあるではないかとパウロは語るのです。自分たちの義によって、自分たちの力によってようやく手にいれるものではなく、すぐ近くにある、それはあなたと共にあるものだというのです。

 ロシアとウクライナの三度目の停戦協議が始まっています。その前に、すでにプーチン大統領はドイツの首相に語りました。クリミア半島におけるロシアの主権と、ウクライナ東部の親ロシア派の人たちの住む地域の独立を認め、ウクライナの中立と非軍事化を約束すること。これが停戦合意の条件だと告げました。

 国土の拡大、これがゴールだというのです。もっと言えばウクライナがNATOに加盟しないことも要求しています。莫大な戦費を費やして、国際社会から孤立して得るものがなければ、戦争をした甲斐がないということなのでしょう。しかし、その目指すもの、ゴールに定めたものに対して、失ったものは計り知れないほど大きいのです。

 昨日、私たちはロシア軍がウクライナの原子力発電所を攻撃したという衝撃的なニュースを目にしました。もし、原子力施設が爆発したら、チェルノブイリを上回る被害が及ぶと報道されています。そこまでして得ようとするものは一体何なのでしょうか。

 金曜の夜、パラリンピックが開幕しました。停戦協定が不調のままでの開催です。その開会式で、IPCのパーソンズ会長が「ピーーース!」、「平和を!」と平和を願ったことが世界中に報じられました。「競技で戦う相手は敵である必要がない」とも語られました。

 平和を成し遂げるために必要なもの、私たちの救いとなるのは果たして何なのでしょう。それは神の約束の言葉だと聖書は語ります。そして、この神の言葉は、神の律法として私たちに与えられました。神は聖書の中に、ご自分のあわれみの心を示されたのです。けれども、人はなかなかそれを受け取ることができませんでした。神の言葉の担い手として選ばれたユダヤ人たちも、この言葉を受け止められなくて、自らの義を主張し始めてしまったのです。それで、この平和の言葉、神の愛の言葉は、神の言葉として私たちのもとにもたらされました。それは、高い天にあるのでもなく、海の奥深くに行って取って来なければならないものでもありませんでした。なぜならこの神の言葉は、私たちの所に今度はちゃんと分かるように、すぐ近くにもたらされたからです。その約束のことばとは「イエス・キリスト」というのです。

 これが、私たちにもたらされた福音なのです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書はこう言っています。

「この方に信頼する者は、
だれも失望させられることがない。」

 神が、私たちに送り届けてくださった神の言葉は、イエス・キリストの生涯を通して私たちに見えるようになりました。神の律法の心が、神のあわれみの心が、分かるようになったのです。この神の言葉は、神の御子、主イエスの生涯を通して示されました。

 この主イエスの生き方こそ、私たちが模範とすべき生き方だと知ること、そして、その主イエスを通して示された神からのメッセージを受け取ることです。この神からのメッセージというのは、私たちは敵を愛し、人の罪を赦しあい、神を畏れ敬い、神を愛して生きることです。主イエスを信じて、神は、私たちを救うために、主イエスを十字架にかけ、よみがえらせてくださったのだと信じることを通して、私たちを救ってくださる。これが、神からのメッセ―なのです。

 実は、先ほどお読みしましたこのローマ書10章の9節から11節のみ言葉は、私が主イエスを信じて、洗礼を受ける決断をした時に示されたみ言葉です。

 私の父は牧師をしています。そして、父は当時大衆伝道者として、いろんな教会に招かれて、伝道集会の講師を務めるという働きに力を注いでいました。それで、私は小学生の頃から、父に連れられて、あらゆる教会の伝道集会の説教を耳にしてきました。日本が生み出した大伝道者の本田弘慈先生、世の光ラジオ伝道者の羽鳥明先生、その弟で神学塾をはじめられた羽鳥順二先生、滝本明先生、田中政男先生、韓国の牧師申賢均先生、大川従道先生、田中信夫先生、松見睦夫先生、あげればきりがありませんが、名だたる日本の福音派の伝道者と呼ばれる牧師たちの説教を子どもの頃から聞いて育ちました。当時は、伝道集会に連れていってくれるより、どこか遊ぶ所に連れて行って欲しいと思ったものです。けれども、伝道集会に行くとどの牧師たちも、子どもにも分かる説教をしました。とても情熱的で、心に訴えて来る感動的な説教をしました。

 昔の伝道集会には、証と呼ばれる時間が時折ありました。その教会の信徒の方が、自分がどのように救いに至るようになったのか、その経緯を話してくれたのです。だいたいパターンがありました。自分は、こういう悪い人生を送って来た。とろころが、何かのきっかで教会に行って説教を聞いて、主イエスと出会った。そこで救いを経験をして、それからは180度人生が生まれ変わりましたという証です。

 牧師家庭に生まれて、子どものころから伝道集会に行き続けていた私は、幼かったということもありますが、だんだんわかって来たことがありました。まず、救われるためにはどうやら悪い人にならないといけないらしいということでした。今考えればおかしなことですけれども、何度もそんな話を聞く中で自然にそういう思いになっていったのです。でも、教会で育った私は、まだ子どもであったということもありますが、そういう生活にはなりませんでした。ある日、中学2年生の時です。家庭礼拝をしていた時に、その日、父はいつもと違って、たくさんの聖書の箇所をこれでもか、これでもかと読んで聞かせました。その時に、私の心にとまったのが、このローマ書10章9節でした。

もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

 ここには、一度悪者にならなくてはならないとは書かれていませんでした。そして、私はここに書かれていることは信じているとそう分かったのです。それだけです。罪からの大転換などということは、その時の私には起こりませんでした。ただ、主イエスを信じている。自分の主であると告白する。その与えられている信仰を確認するということになったのです。

 それは、言ってみれば「堅信礼」のようなものであったと私は思います。それまで耳にしていた信仰を改めて堅く信じたという出来事です。幼児洗礼を受けていたこどもが、12歳くらいになると信仰教育を受けて、主イエスを改めて堅く信じる。確信する。そういうことと似ていると私は思います。

 聖書はこう書いています。13節です。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

 ユダヤ人もギリシャ人も神の前に区別はないのです。ロシア人も、ウクライナ人もなく、日本人も、韓国人も神の前には違いはないのです。神ご自身の御心を示された主イエスを信じることが、救いとなるのです。神のあわれみの心に触れて、神の愛を知って生きる者へと変えられるのです。

 今週からタペストリーの色が紫色になりました。受難節、レントと呼ばれる季節になりました。これは、主イエスがエルサレムに入られて、十字架の苦しみを受けられることを心にとめる季節になったということです。このレントの間、私たちは人を愛するために、受けられた主イエスの苦しみの姿を、試練の姿を心に刻もうというのです。人を愛するということが、どういうことなのかを、忘れないようにするためです。愛することは、苦しみを引き受けるということです。レントを通して、私たちは神が示されたキリストの愛を知るため、神のあわれみの心を、知ることができるのです。

 どうか、この時、主イエスのお姿を心に刻みながら、神の愛を知り、あらためて主イエスを信じることを心に思い起こす時としてまいりましょう。

 お祈りをいたします。

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