・説教 ローマ人への手紙12章1-2節「神に喜ばれる礼拝」
2022.04.17
鴨下直樹
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イースターおめでとうございます!
この主のよみがえりを記念するイースターの礼拝に、こうしてみなさんと顔を合わせて礼拝することができることを感謝します。
今日はこの後で、聖餐を行います。四月の第一主日の礼拝にも聖餐を祝いました。そして、先週の聖金曜日と呼ばれる、受難日の礼拝でも聖餐をいたしました。今日の礼拝でも聖餐をいたします。一か月に三度も聖餐をすることを、驚かれる方もあるかもしれません。本当なら、毎週の礼拝におこなっても良いくらいだと私は思っていますが、今日も私たちは聖餐の食卓に招かれています。
私たちは毎週礼拝をささげています。その礼拝も、聖書に記された礼拝を考えると、ずいぶん形が変わりました。創世記に出てくる礼拝は、祭壇を築きまして、そこで神様に犠牲の供え物を捧げて火で焼いて、おささげするというのが礼拝の形でした。その後、出エジプトの頃になりますと、イスラエルは幕屋というものを作りまして、その幕屋でやはり犠牲をささげておりました。ところが、イスラエルが神にあまりにも敵対したために、イスラエルは滅亡してしまいまして、幕屋の代わりに造られていた神殿も崩壊してしまいます。こうして、近隣の国々に支配されるようになりますと、この犠牲を献げる礼拝はできなくなってしまいます。代わりに、会堂、シナゴーグと呼ばれるところで聖書の教えを聞くという、安息日の過ごし方が生まれてきます。そして、イースターの出来事が起こってからは、教会はパン裂きと言いましたが、聖餐をするために、初代の教会は安息日に代わって、主の日、つまり日曜になると聖餐をするようになっていったのです。
ところが、そのような聖餐をする礼拝が何百年か続きましたが、宗教改革が起こってプロテスタントの教会になりますとその肝心の聖餐をしない礼拝というのが行われていくようになります。これは、宗教改革者ルターが言い出したことでもあるのですが、ルターは、それまでカトリックで定めていた7つの典礼のうち2つが大事と言って、洗礼と聖餐を典礼、神様が定められた儀式だとしました。ところが、そう言いながらプロテスタント教会ではこの典礼ではない礼拝をしているという不思議な現象が起こっているのです。
つまり、み言葉の礼拝というのを、礼拝と呼んでいるのです。さまざまな礼拝の本がでていますが、実は、このプロテスタント教会で行っているみ言葉を聞くことを中心とする礼拝を、どう考えるのかという議論はあまり行われておりません。自然に受け入れられていったのです。
ただ、宗教改革者ルターは、典礼の中心はキリストであり、キリストに与ることがサクラメントであり、典礼だと考えました。そして、「キリストとは神の言葉のことだ」とも言ったのです。これは『教会のバビロン捕囚』という書物の中で書いています。そして、この本が、プロテスタント教会の典礼理解の鍵になっている書物でもあります。
それこそ、ルターやカルヴァンという宗教改革者の時代は、毎週聖餐をおこなっていたのですが、改革派教会の中からツヴィングリという指導者が出てきます。この人が、プロテスタントの聖餐はカトリックのような功徳を積む行為という理解がない、単なる記念、象徴なので、毎回行わなくてもいいのではないかと言い出して、それから、月一度の聖餐というように定着してきたわけです。
ただ、そうすると、今やっている礼拝は何かということになってしまいます。ルターは、先ほどいいました『教会のバビロン捕囚』という本の中で、キリストに与ることが礼拝だと言いました。それは、もともとは聖餐を意味していたのですが、キリストとは神の言葉であるとルターが言った考え方が、みことばの礼拝の根底にあるということになります。つまり、みことばを聞くことが、キリストに与ることだという理解が生まれたということになるわけです。そこで、私たちがもう一度考えないといけないのは、神の言葉とは、聖書のことであるという理解は、その中には含まれていないということです。
なぜ、こういう礼拝の話をこの説教でしたかというと、このローマ人への手紙の第12章からは、パウロがいよいよ、キリスト者の具体的な生き方の話をしているところだからです。そこで、パウロは礼拝ということを第一に語っているのです。
礼拝というのは聖書の話を聞くことと思われる方があるかもしれません。そう考えてしまうと、私たちの具体的な毎日の生き方が、まるで見当違いなものになってしまいかねません。
パウロは、このローマ書の11章の終わりまでのところで、人間は自分の行う行為で自分を正当化することはできない、人間はみんな罪人であると語りました。そして、罪人である人間を神があわれんでくださって、神の私たちに対する愛の御業を通して、私たちは救われることができるということを明らかにしてきました。人間がどれだけ立派なふるまいをしようと頑張ったところで、義になること、神の目にかなうことはできないのです。それで、神は、そのような罪人である私たちを救うために、神の御子であるイエス・キリストを十字架につけて殺しました。私たち人間の罪は、神の御子を十字架で殺さなくてはならないほど大きく、どうしようもないほど罪人なのだということを、示されたのです。そして、その主イエスは、三日の後に、墓よりよみがえられて、復活されました。
こうして、私たちの身代わりに死なれた主イエスのいのちに与った私たちは、復活のいのちにも与って、新しく生きる者へと変えられるのだという希望を持つことができるようになったのです。
12章の1節の冒頭にある「ですから」という言葉の中には、それだけの意味が込められています。
このイースターを経て、私たちは新しく生きることのできる者となったのだから、と言ってこういうのです。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
それが、この1節のみ言葉です。このあわれみによって救われた私たちに、パウロは勧めるのです。この「勧める」というのは、具体的な教えです。
では、何を勧めるのかというと、その具体的な教えの中身は、あなたがたのからだを、献げなさいというのが、そのお勧めの内容です。即ち、この自分を献げることが、礼拝なのですよと言っていることになります。
礼拝というのは、み言葉を聞くことと思っていると、大きな間違いになってしまいます。聞くことは、受け身の行為です。自分が受け取ること、貰うことです。けれども、献げるというのは、積極的な応答の行為となるというのです。
実は、この「礼拝」という言葉は、ギリシャ語で「ラトレイア」という言葉です。「ラオス」という言葉と、「エルゴン」という言葉の合成語です。「ラオス」というのは「民」という意味です。「エルゴン」というのは「奉仕する」という意味の言葉です。「民の奉仕」という言葉が、この「礼拝」と言う言葉の中身です。
旧約聖書で礼拝をするとき、人々はお供え物を携えていきました。先に恵みを与えてくださった神様への私たちの応答が、礼拝だったわけです。日本語の漢字の意味もそうです。礼を持って拝むと書きます。これも、私たちの応答の行為です。
応答をするからには、その前に神様からの恵みの御業があります。それが、キリストに与ること。キリストを頂いたという、先行する神の御業があります。それが、主イエスの十字架と復活の御業です。キリストに与ることが、典礼、礼拝のまず意味するところで、キリストを頂いたので、私たちも、心からこの神にお返しをする。これが礼拝です。
では、どのように心からお返しするのでしょう。それは、私たちのからだを供え物にしなさいというのです。しかも、それに3つの言葉がつけられています。「神の喜ばれる」と、「聖なる」という言葉と「生きた」という3つの言葉です。
それでは、その3つの中身について少し考えてみたいと思います。
まず「神に喜ばれる」です。旧約聖書の中で、神様に捧げものをする犠牲に求められたのは、「心から」ということでした。形式的に動物を殺すことを神はお求めにはならなかったのです。つまり、形だけではなくて、私たちの心を神は求めておられるということです。
次に「聖なる」とあります。これを言われると、もうほとんど無理な気がしてくるのですが、そういういわゆる「穢れがない」とか「純粋」「ピュア」という意味ではありません。神のところに献げられたものは、その時点で、「聖なるもの」となるのです。つまり「神のものとする」ということです。
最後の3つめの「生きた」というのは「死んだいけにえ」を献げるのではなく、「生きている」ということです。いのちがあるということです。
つまり、私たち自身の生活を心から、すべてを神様にお任せして生きることとなります。私たちの生活そのものが、神への応答であり、礼拝なのだというのです。これが、神の民の奉仕であり、礼拝なのです。ということは、日曜だけのことではなくて、私たちの毎日の生活そのものが、神への応答であり、礼拝になるということでもあるのです。
先ほどもいいましたけれど、その奉仕はまず神からはじまります。神の奉仕があって、私たちも奉仕するのです。神の私たちへの奉仕というのは、神ご自身が、まさに神に喜ばれる聖なる生きた供え物として、御子イエスを私たちにプレゼントしてくださったということです。それが、十字架の主イエスの御業です。そして、この主イエスのいのちをいただいた私たちは、今度は私たちのいのちをそのまま神様にお返しするのです。それこそが、神様のしてくださった奉仕の御業に対する、私たちのふさわしい礼拝となるのだというのです。
神の恵みに応えて生きる。私たちに奉仕してくださった神に、今度は私たちが自分の存在をかけて奉仕するのです。そのような礼拝を、私たちも主にささげていきたいのです。
お祈りをいたします。