2022 年 6 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙13章1-7節「権威への服従」

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2022.06.05

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 パウロはこの前の箇所で愛の姿を描き出して語りました。それは、キリスト者の生活の様々な場面で必要になる大切な事柄です。その中の終わりに「自分で復讐しないで、神の怒りに委ねなさい」と言いました。すべてを見ておられる神がおられるのだからと言うのです。

 その流れで、今度はこの13章に入ってこう続きます。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

 さて、この辺りまで来ると、だんだんそのまま受け入れることが苦しくなってくる方がでてくるのではないでしょうか。愛することは大事。それは分かります。復讐しないで神様に任せなさいは、ちょっと心の中でいろいろ思うところはあるけれど、まあギリギリセーフ。神様が代わりに復讐してくださるというのなら、お手並み拝見というような思いになるかもしれません。

 ところが、パウロは更に「上に立つ権威に従うべき」と言うのです。

 だいたい私たちはこの「べき」というのが好きではありません。

 上に立つ人がいつも良い人ばかりなら問題はありませんが、子どもの頃から私たちは理不尽な要求というものに長年苦しめられています。ほとんどのストレスの原因はここにあるとさえいえるほどです。しかも、この1節から7節まで読みますと、パウロはこの上に立つ権威をどうやら完全に肯定しているわけで、読んでいてもあまり面白いとは感じないかもしれません。

 そんな語り出しをすると、皆さんも「ああ、鴨下先生はきっとこの聖書解釈をひっくり返す裏ワザでもあるんだろう」と期待して、安心したくなる方があるかもしれませんが、最後までこの調子ですから、どうすることもできません。

 最後の7節はこうです。「すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい」とまあ、こんな風に結ばれているのです。

 最後の方になるとまた「べき」「べき」という言葉が続きます。もうため息をついて、私たちもそれこそ帰る「べき」なのかもしれません。

 あえていうと、この箇所を正しく理解するために覚えるべきことの一つは、「これはあくまでも原則だ」ということです。ここに少しの慰めを見出すことができるかもしれません。

 そのことを理解したうえで少し、パウロが何を語ろうとしているのかを見てみたいと思います。1節をもう一度見てみましょう。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。

 少し、パウロがこの手紙を書いた頃の事情を見てみたいと思いますが、この手紙が書かれたのはパウロの第三次伝道旅行でコリントに滞在していた、紀元57年から58年ごろと考えられています。

 そのことが書かれているのは使徒の働きの18章ですが、1節と2節にこんなことが書かれています。

その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたので、最近イタリアから来ていたのである。

 パウロがこの手紙を書いたと思われる頃に、ローマにいたユダヤ人たちは皇帝クラウディウスの反感をかって、ローマから追放されたというのです。

 実はこの時にローマで何が起こっていたのかというと、ユダヤ人たちが「イエスはキリストなのか、違うのか」という議論が盛んになって、皇帝が騒がしいユダヤ人をローマから追放したというのです。こんな出来事が背景にあるのです。

 この出来事の後でパウロはこのローマ人への手紙を書いています。当然、追い出されたユダヤ人たちはローマ皇帝のことが面白くなかったはずです。

 その時の問題の発端である主イエス・キリストは、ローマ帝国の裁判で「イエスは王なのかどうか」という問題で争われました。その裁判の結果、主イエスは十字架にかけられました。この時の主イエスの罪名はローマへの反逆罪ということになっています。けれども、この裁判も、主導したのは総督ポンテオ・ピラトではなく、ユダヤ人たちの議会の方でした。

 その後もそうですが、ローマはむしろユダヤ人たちを保護してきたくらいです。パウロも何度か同胞に殺されそうになりながら、ローマの兵隊たちに守られていったわけです。

 ここからも分かるように、この時代のユダヤ人というのはローマに苦しめられていたというよりも、ローマを苦しめていたというか、ローマに迷惑をかけていたのがユダヤ人たちだったと言ってもいいくらいです。このローマが、ユダヤ人たちの上に立てられた神による権威者なのだとパウロはここで語っているのです。

 そして、当の主イエスも、ローマに税金を払うことを推奨しているわけで、ローマと争う姿勢は見せていませんでした。むしろ、血の気の多いのはユダヤ人たちの方だったわけです。

 また、そのことと同時に考えていただきたいのは、キリストの教会は救われた奴隷たちに寛容な教えだったということです。主イエスの教えた主の祈りの中にもありますが、「われらの父」と主に呼びかけます。「日ごとの糧を与え給え」と祈るのは、教会に来ている主人と奴隷たちが一緒に祈るのです。この奴隷たちは、主イエスと出会った時に、教会には、神が上の権威として立っておられるということの喜びを味わうようになったのです。

 そのうえで、上に立てられている主人たちのその上に神という権威があるということを知って、多くの貧しかった奴隷たちは、まさに神の栄光を褒めたたえたのです。

 そういう神が一番上に立てられている権威の中で、上に逆らうということは、神の定めた秩序を認めないということになってしまいます。

 4節でパウロはこう言っています。

彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

 これは、まさに少し前にローマで起こった出来事です。悪を行うなら、上に立てられている者は、その権威を用いて秩序を保とうとするのは当然のことだとパウロは言うのです。

 正しく生きていれば、誰にも何も言われることはないというのです。だから、この前の3節でも「善を行いなさい」と言うのです。

 税金のシステムも同じです。上に立てられた権威はこの4節にあるように、私たちに利益をもたらすために、その秩序を守ってくれているのだから、その人に税金を払うことは当然だというのです。

 神様だけが権威なので、人の上に立てられている権威は必要ないのだという理屈は通用しないし、その権威者たちが私たちの生活を支えているのだというのです。

 これが、聖書の考え方です。この世界の秩序は、権威によって守られている。そして、その権威が機能しているならば、私たちはその恩恵を受けることになるので、そこで正しく生きること、そして、その権威者を敬うこと。そのことをパウロはここで語っているのです。  

 パウロはローマへの手紙の中で、すでに12章16節でも「自分を知恵のある者と考えてはいけません」と言っています。自分には知恵があるという思いが、相手を見下し、秩序を崩壊させ、結果として身の破滅をもたらすことになると、パウロはここで警告しているのです。

 ただ、一つ問題があります。上に立てられる権威は、何が何でも従うべきかという問題です。このことは考える必要があるテーマです。ここでパウロが語っていることは基本的なことです。原則です。この基本の中に、大切な考え方が十分に記されています。ただ、私たちの生きている世界は、往々にしてイレギュラーなことが起こってしまう世界でもあります。

 基本の考え方は愛から出ています。相手を愛し、相手に仕え、上に立つ者に従うのです。しかし、神を恐れない横暴な者が上に立つことがないわけではありません。主イエスも、「悪」に対しては立ち向かわれるお方です。

 罪が支配する世界は、秩序が失われ、愛が軽んじられ、人が傷つく世界となってしまうのです。この話を最後に少しして終わりたいと思うのです。

 まず、私たちが認めなくてはならないのは、私たちにとって嫌なことをする人はみな悪ではないということを、確認する必要があります。

 宿題をやりなさい。納期までに商品を納めなさいというのは、悪ではありません。そこには、自分がどう感じるかという感情は入り込む余地はありません。決められたことを行うことが、守られないならば、そこで悪が生まれてしまいます。だから、自分が嫌なことであったとしても、悪を生じさせないために厳しく言われてしまうことがあるというのは悪いことではないのです。もし、そこで理不尽さを感じるのだとすれば、それは主に支えていただきながら、成長していく余地のあるものです。

 これは、「必然的真理」といいますけれども、少し考えてみれば、このことは必然的だなと思えることには、従う必要があります。もう一つその上に「絶対的真理」という判断基準があります。これは、神の眼差しで見た時の善悪で判断する事柄です。例えば、人のものを盗んできなさいというような、明らかに神の思いに反することを上から命令されるならば、それは「イエス・ノー」がはっきりと出せることです。これを「絶対的真理」と言います。

 難しいのは「アディアフォラ」、「どちらでもないこと」という意味ですが、これは、各個人の裁量に任されている部分で、各自の判断で行っていけばよいということです。そういう判断の基準もあるのです。

 物事を決断するときには、この絶対的真理、必然的真理、そしてアディアフォラという3つの段階があるということを知って、それを判断の基準にしたらいいのです。

 そして、それらを用いて、上に立てられた人の要求が「悪」なのかどうかという判断するときは、この三つの事柄から見極めて応えることになるのです。

 それが「悪の要求」であるときには、上の人がどう言おうとも、神がお許しにならないのだとして、絶対に従うことができないと決断することも、私たちには許されているのです。

 私たちは毎日生きていくうえで理不尽と思える事柄の中に身を置くことが多々あります。たとえ神に立てられた上の権威の人であったとしても間違えることはあるし、その人だってイライラしていることもあるでしょう。当てつけられて嫌な思いをすることもあるでしょう。

 不当ないじめに対して、不当な理不尽な要求に対しては、時に「ノー」ということもあるでしょう。「ノー」と言えなくて苦しむこともあるかもしれません。主は何よりも第一に私たちのことを愛してくださっている。そして、神の愛から私たちを引き離さないように守ってくださっていることを、まず心に止めてください。

 そして、私たちの置かれている所では、まず上に立てられた権威によって、秩序が与えられていて、神様はその権威を認めておられるということをまずは心に留めることが大切です。自分で復讐する必要もない。私たちに問われているのは愛を示すことです。その中で、私たちは生かされ、そこから益を受けているのです。そこでするのは「善を行うこと」「正しく生きること」なのです。

 私たちを救われる主は、私たちが怯えて生活することを望んでおられるのではありません。私たちが理不尽な要求に苦しむようにしたいわけでもありません。私たちが平安に、人々との健全な関係を保って、安心して生きることのできる世界を築こうとしておられるのです。主イエスは、災いの主ではなく、愛と平安の主です。

 この主に支えられ、私たちはしっかりとしたところに立って、力強く歩むことができるのです。

 お祈りをいたします。

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