2022 年 6 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙13章8-14節「主イエス・キリストを着て」

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2022.06.12

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 パウロは「すべての人に対して義務を果たしなさい」と前回の終わりの7節で語りました。そして、今日の8節では「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と続きます。

 何の話をしているのだろうかと思うかもしれません。ここでパウロは、キリスト者の生き方のことを語っています。特に、ここでは国に対しての義務、責任を果たすということが言われています。

 積極的な戒めと、消極的な戒めというのがありますが、これは消極的な戒めと言えます。人に対して借りがあってはいけないと言います。何故かというと、自分の持っている自由を奪われてしまうことになるからです。

 後ろめたさがある、負い目があるとき、相手に支配されてしまいます。やらされていると思うと、とたんに楽しくなくなってきます。

 それは、家に帰ってきて宿題をすぐに終わらせてしまった子どものようなものです。やることをしていれば、もう自由です。何もとやかく言われることはない。それと同じように、国に対して税金を納めることも同じです。人に対しても借りを作らないで生きることも同じです。積極的な生き方とは言えませんが、そうやって、自分をまもる消極的な姿勢であっても、まずは借りがないということが大事だとパウロは言います。

 ただ、本当に言いたいのはその後の文章です。

8節

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。

とパウロは言うのです。

 これは、積極的な生き方です。損をする生き方ですが、それは別だと言うのです。人に貸しを作るように生きるのは良いことだというのです。8節の続きはこうなっています。

他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。

 自分の方から他者を愛することは、律法の求めていることを超えているというのです。それで、その後で、十戒の後半部分が記されていまして、これは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に集約されると言っています。

 十戒の後半部分の戒めである、隣人との関係を命じる戒めは、他人を愛するという言葉の中に入ってしまっているというのです。

 これは、相手に対して借りがあるので返すという行為ではなくて、自分の方から相手との関わりを作っていって、相手を愛で包んでしまうことです。積極的な愛のわざです。これは、人によっては余計なお世話だと思われるかもしれません。それは、そうなのです。愛するという行為は、相手に借りを作らせる行動になることだからです。だから、余計なことをしないで欲しい、私もお返しをしなくてはいけなくなるから、やめて欲しい、という言葉が出てくるのは当然といえば、当然なのかもしれません。

 もちろん、恩着せがましくやりなさいと言っているわけではありません。愛は、一方的な行為ですが、その人の心を思いやる心が当然求められます。

 先週の木曜日に、教団の泉会が行われました。オンラインと会場に集まってのハイブリット形式の集まりで、全部で70人以上の人が参加しました。

 とても素晴らしい内容で、私もはじめから最後まで泣きっぱなしでした。その内容は、今度教団内だけで限定配信されるようなので、ぜひご覧になってくださったらと思います。

 講演は、ゴスペルシンガーの岩淵まことさんの奥様で、岩淵由美子さんのお話でした。この講演が終わってから質疑応答の時間がありまして、学生伝道の働きをしている宣教師がこんな質問をしました。

「今日のお話はとても分かりやすくて、キリストの福音がとっても良く分かりました。それで、質問なのですが、求道者の人に福音を伝える時に、どういうふうに話すといいか、そういう秘訣があれば教えて欲しい」という質問でした。

 学生伝道をしている宣教師ならではの質問です。すると、岩淵さんはこう答えられました。「私たちは福音を届けるのに、せっかちすぎるんです。でも、相手にも福音を受け止められるようになる『時』があることを知っている必要があります。自分が伝えたいことばを押し付けるのではなくて、相手の状況をよく理解して、語る『時』を待つ必要があります」そんなお答えでした。

 これは、隣人を愛するということにも、通じることだと思いました。自己満足な伝道、自己満足な愛の押し付けというのは確かにあると思うのです。まして、愛というのは重荷になるもの、借りになるものだと聖書がいうのであれば、なおのことなのかもしれません。

 「互いに愛し合うことは別です」とパウロは言います。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という、ここに上げられている十戒の教えもそうですが、神の戒めの背後には、神の愛の心が見え隠れしています。ただの禁止事項ではないのです。

 姦淫をしないというのは、自分の性的な衝動の赴くままに相手を利用しないということですが、その背後には優しい愛の姿が見え隠れしています。人をそんなに傷つくような方法で愛するのではない、愛とはもっと優しいもの、もっときめ細やかな配慮のあるもの。そういう愛で相手を大事にして欲しいという、神の愛の心があります。

 盗んではならない、もそうでしょう。相手の物を奪って、相手を困らせ、自分の利益だけを求めるのではなくて、相手が安心して生きられる生活を、みんなで作り上げていくのですよということです。

 聖書の律法、戒めの一つ一つには、その背後に神の愛の姿が隠れています。

 愛に生きよう。人を大切にしよう。それは、自分の自由を守ることのみならず、自分の自由を広げることになり、相手の喜びをも広げることになる。そのような愛は、神の律法の心を満たすことになるのだとパウロは言うのです。

 11節にこうあります。

さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。

 パウロは愛を語り、ここからその先の生き方を示そうとします。

夜は深まり、昼が近づいてきました。

 パウロは詩人のように語ります。

 私たちがいよいよ目を覚まして活躍するときが来たのだと、呼びかけるのです。世界はますます夜が深まっている。

 夜が深まるというのは、闇に呑み込まれてしまっているということです。

 岩淵さんは、夫のまことさんが、フォークソングブームの時にレコードデビューして、はじめはデビューするのを夢見ていたのに、次第に自分の歌いたい歌ではなくて、みんなが聴きたい歌、売れる歌に自分の作った曲が改ざんされていく中で、歌う喜びを失っていって、家に引きこもりがちになってしまったと話されました。ところが、先日亡くなられた小坂忠さんから声をかけられて、一緒に音楽伝道に加わる中で、キリストと出会って、次第に変えられていって、明るくなっていったという話をしてくださいました。初めは夫が教会に行くのを妨げていたのに、自分自身も教会に行くようになって二人で洗礼を受けるようになったと話してくださいました。

 それからも、たくさんの苦しい経験をしてことを話されました。また当時与えられていた子どもに脳腫瘍が見つかって、長い闘病生活に苦しんだこと、また、その結果その子どもが亡くなってしまったこと。由美子さん自身もまた乳がんを患ったこともお話くださいました。

 とても、悲しい長い夜を経験して、自分を責め続けたようです。子どもの病に対しても、どうしてもっと早く病気に気づいてあげられなかったのか。どうして、あの時子どもに優しくしてあげられなかったのか。神様どうしてですか! あなたは癒してくださるのではなかったのですか! と、とても苦しい時間を過ごしたことを証ししておられました。神様どうしてですか、と問うような、そんな苦しい生活の中で、あの「父の涙」という賛美ができたことを話してくださいました。

 闇に呑み込まれていく中で、神様はいったいどんな思いだったのか、主イエスの父なる神は、ご自分の子どもが十字架につけられた時、どれほど苦しかっただろうか。そこに、どんな大きな父なる神の愛があるのかが、見えるようなった。このキリストの父の愛に触れられて、もう一度、力を頂くことができるようになるのだということをお話くださいました。

12節。

闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。

 光を身にまとうことによって、私たちを支配しようとする夜の暗闇、その闇の働きから、離れることができるのだということをパウロはここで語っています。

 それは、主イエス・キリストを着ること。主イエス・キリストとともに歩むことで、闇を外に追いやることができるとパウロは語ります。

 紀元354年に北アフリカで生まれた、カトリック教会でも、プロテスタント教会でも信仰の父と呼ばれるアウグスティヌスという人物がおります。そのどちらにも多大な影響を与えた古代教会の教会教父と呼ばれた人です。ですが、アウグスティヌスは、若い時、19歳から28歳までの9年間、情欲におぼれ、誘惑したり、誘惑されたり、あるいは仲間が盗みを働くことさえも楽しんでいた人です。

 アウグスティヌスは、こんな祈りをしたと若い時のことを語っています。

「わたしは青年時代、まことに惨めで、特に青年期初期には惨めでした。たしかにわたしはあなたから貞潔を求められたことさえありました。ところがわたしは『わたしに貞潔と節制を教えてください。でも今すぐではありません』と言ったのです。」
 
 闇のわざを捨てたい。正しく生きたい、そのことを求める心はあったのです。けれども、貞潔と節制を求めるお祈りして、すぐにそうなってしまっては困ると思ったのです。

 その頃の自分はこの病から癒されるよりも、むしろ満たされることをもとめていました。とも書いています。

 「でも、今すぐではありません」今は変わりたくないけれど、本当は変わった方がいいことは分かっている。そんな葛藤があったことがアウグスティヌスの言葉から分かります。

 その後も、マニ教という当時キリスト教と二分する様な教えに傾倒していきます。その後も、さまざまなことを経験するのですが、ある日、ミラノの庭園で思いにふけっていたアウグスティヌスは、突然子どものような声で「取って読め」という言葉を耳にします。

 その時、傍らにあった聖書を開くと、ローマ13章13-14節が目に入りました。

遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。

 このみ言葉と出会って、アウグスティヌスは回心することになるのです。

 自分は闇のわざを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着ける必要があることをアウグスティヌスは知ったのです。そして、キリストを着るようになってアウグスティヌスは変えられていき、教会の父、教父と呼ばれる人物になっていくのです。

 愛に生きるというのは、キリストのように生きるということです。キリストの愛に生きることです。それは、人の悲しみを、人の闇を、ながい夜に苦しめられている人のところに行って、光で包み込む行為です。

 それは、まだその人にはまぶしすぎる光なのかもしれません。まぶしすぎて目が開けられないのかもしれません。けれども、光が必要ない人は誰もいないのです。光は闇を照らし、闇を消し去ることができます。また、光はそこにぬくもりを与えることもできます。光は先を照らし、安心感を与えます。

 それが愛の光です。このキリストの愛の光を、私たちが着る時に、私たちの周りにある闇は姿を消し、そればかりか、私たちの周りの人の闇をも消すことができるようになるのです。

夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。

 パウロは私たちに言うのです。
主イエス・キリストを着なさい」と。

 お祈りをいたします。

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