・説教 ローマ人への手紙15章14-21節「パウロの務め」
2022.07.24
鴨下直樹
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私たちは今日の聖書の箇所を耳にする時に、びっくりする言葉があることに気づきます。
それは、パウロ自身の「神様への奉仕に誇りを持っている」という言葉です。
ここまでなかなか言えないのではないでしょうか。その後で、パウロは「キリストの福音をくまなく伝えました」とも言っています。
私たちはパウロのこの言葉が誇張したものではないことをよく知っています。全世界にキリスト教が広がったのは、このパウロの宣教の成果であったといえます。パウロと私たちを比較しても始まらないかもしれません。ただ、そこで私たちがどうしても気づいておきたいのは、このパウロの原動力はどこから来ているのかということです。
パウロをここまで突き動かしたものと同じものを、私たちは頂いているはずなのです。ですから、このパウロが知っているものを、私たちが見落としてしまっているなら残念なことです。
パウロの記したローマ人への手紙はこの15章14節から結びの部分に移ります。パウロがどのようにこの手紙を締めようとしているのか。ここにはいくつもの興味深い内容が記されています。
たとえば15節のところで「ただ、あなたがたに思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。」と書いています。
パウロ自身、この手紙でこれまで少しいろいろ言い過ぎてしまったかなという思いがあるということなのでしょう。パウロは所々かなり大胆な語り方をしたと言っています。大切なことを思い起こしてもらうために少し大げさに話して、印象付けるというやり方は時にかなり有効です。復讐はわたしのものとか、上に立てられた権威に従うべきだとか、借りをつくるなとか、弱い人を受け入れるように、というような具体的で、印象的なことをパウロは語り続けて来ました。すでに、聞いたはずのことを思い起こしてもらって、主の願っておられることを心に刻むことができるようにしてきたのです。
ここで、パウロはこの手紙をまとめるにあたって、「私は確信しています」とここでも、かなり強い言葉を使っています。
パウロがここで、自分が何のために働いているのかということを語っていくのです。
パウロが何のために働いているのですか?と尋ねられたらどう答えるか?そのことが、この箇所で記されています。
皆さんは何のために働いていますか?あるいは働いてきましたか?いろんな答えがありそうです。給与を得て家族を支えるためという答えもあるでしょう。自分の生きがいを叶えるためという方もあるかもしれません。
前回の説教で「神の栄光のため」という話をしました。自分が仕事をすることで神様のすばらしさが証されるために、自分は働いている。そんな答えを出すことのできる方もあるかもしれません。
パウロはここでこう書いています。15節の途中からです。
私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。
分かりにくいので、簡単に言うことこういうことになります。
「私は、汚れている異邦人が、神様に喜んでもらえるささげ物としてふさわしい者となるために働いています」と、ここでそう言っているのです。
旧約聖書の時代、イスラエルの人々は神様を大切にしていることを表すために、神殿にささげ物を携えて行きました。ささげ物を通して、自分たちの神様に対する信頼を表したのです。ここでパウロは、あなたがた自身が神様のささげ物なのですと言いました。それを聞いた人はどんな思いになるでしょうか? 勝手に人を、神様へのプレゼントにするつもりか! 私の人格はどうなる! と文句を言いたくなる人が出てくるかもしれません。あるいは、自分のような者はささげ物としてふさわしくないと考えるかもしれません。
以前、マレーネ先生がこんなことをお話ししてくださったことがあります。それは、若い時に行われた聖会と呼ばれるような集会の時のことです。マレーネ先生はお兄さんと一緒にその集会に出たのだそうです。
その集会で、若い人に対して宣教師として外国に働きにでないかという招きがされたのだそうです。その時、マレーネ先生のお兄さんがこう祈ったというのです。
「主よ。ここに私がおります。妹をお遣わし下さい」と。
これは、イザヤの召命の箇所ですが、そこにはこう書かれております。
「ここに私がおります。私を遣わしてください。」イザヤ書6章8節のみ言葉です。
マレーネ先生のお兄さんは、この時のイザヤのように、自分が宣教師として行くというのではありませんでした。そうではなくて、私はここドイツに留まりますので、私の代わりに妹を宣教師としてくださいと祈ったというのです。冗談のような話ですが、結果として、お兄さんの祈りのようになって、マレーネ先生は日本に宣教師として来られるようになったのです。きっとお兄さんは、マレーネ先生が日本で宣教師として働くために、一所懸命に祈りながら支えてこられたのだと思います。
パウロは、私はあなたがたローマにいる異邦人のキリスト者たちが、神にその人生をささげて、神と共に生きる新しい命に生かされるために働いているのだと言いました。パウロは、異邦人である人々が、神様のために働く存在となるように働いてきたのだといいます。
あなたがたを、神様へのささげ物としてふさわしくなるように、聖霊の働きを通して聖なる者となるように、そのために働いていると言ったのです。この働きのことをパウロは16節で祭司の務めと呼びました。異邦人が主イエスと出会って、従順に主に仕える者となるように働いて来たのだと言うのです。
17節ではこの「神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。」とも語っています。
今日の説教題を「パウロの務め」としました。パウロが自分の務めをどのように捉らえているかがここで語られています。
それをまとめると、異邦人を従順にして、神様へのささげ物とするのが祭司の務めである。そうまとめることができると思います。
そのためにパウロは福音を語ったのです。そして、福音を聞いた異邦人は聖霊の働きを通して、汚れた者が、聖められて、神様にふさわしい者とされるのです。そのためにパウロは歩んできたのです。
先週、この礼拝に近くの山県で宣教師として働くことになった朴先生が来られました。私は、はじめどういう方か良く分からなかったので、少し緊張していたのですが、とても熱心な宣教師であることが分かりました。20年間メキシコで宣教師として働いておられたのですが、日本の宣教師として召しを覚えて、メキシコでの働きを終えて日本に来られたようです。そして日本同盟基督教団の教会から岐阜に派遣されてきているということでした。本当はすぐに日本に来たかったようなのですが、コロナのために来日できず、韓国にいた二年間にユーチューブで日本語を覚えたのだそうです。60歳を過ぎておられる方だと思うのですが、凄いと思いました。
その先生が、一時間ほど私にインタビューをしたいということでいろんなことを聞かれました。「先生はこの教会で何を大切にしてこられましたか?」と聞かれました。
私は、「教会に来ておられる方が自分で聖書を読んで神様を知ることができるようになること」と答えました。
そうすると、さらに突っ込んだ質問が投げかけられました。「では、芥見教会の方はどのくらいの人が自分で聖書を読むことができますか?」そう聞かれて、私がどう応えようかと思って悩んでいると、何パーセントかで答えて欲しいと言われました。私は少し考えて「50%いるといいなぁと思っています」と正直に答えました。
そう答えながら、このパウロのみ言葉を思い起こしていました。
パウロは言うのです。「私は福音を通して異邦人が従順になって、神様に喜ばれるささげものとなるため働いています」
何パーセントの人がそうなりましたか?とパウロに聞いたらパウロは何と答えたでしょうか。ただ、パウロはここでこうも言っています。
17節です。
神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。
私たちはどうでしょうか?
私たちは自分のキリスト者としての生き方に、神に対する奉仕に誇りを持っているでしょうか。パウロは、そのためにエルサレムからイルリコまで福音を伝えたといいます。
20節では、「キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。」と言っています。21節では、イザヤ書52章15節のみ言葉は、私の伝道で成就したのだと言うことができました。
そこまで、パウロが言うことができたのは主に押し出されて来たからです。自分の人生を賭けるに値するものを、主イエスからいただいたからです。
何パーセント達成できたか。そう聞かれると辛いものがあります。私たちの主への奉仕はまだまだ可能性に満ちています。けれども、私たちが主から受け取った恵みには、自信を持っていただきたいのです。
なぜなら、神は、主イエスのいのちをそのまま私たちに与えてくださったからです。
みなさんは、教会に来て本当に良かったと思っておられるでしょうか? 主イエスと出会った良かったと思っておられるでしょうか?
私は、主イエス様とお会いして本当に良かった! と誇りをもって答えることができるなら、それは、主イエスもお喜びになられるでしょう。
パウロは、主イエスに押し出されて、エルサレムからイルリコに至るまで福音をくまなく宣べ伝えたと書いています。
「イルリコ」とはどこか? ということが聖書解説者の関心事です。イタリア半島とギリシャ半島の間にアドリア海があります。この海に面したギリシャ半島の地域が当時のローマのイリリコン州です。聖書の中にはパウロがこのイルリコまで行ったという記録はないのですが、テサロニケからベレアを訪れた際に、このところの街道でエグナティア街道と呼ばれる道を通ったことが分かります。ひょっとすると、その道を通って、大陸の端まで行ってローマに行こうとしたのではなかったかと考えられています。
パウロの中にはそれほどまで突き動かされる熱い思いがありました。自分の神への奉仕に誇りを持つことのできるほどのものを、パウロは持ったのです。
18節の最後のところから19節を読んでみます。
キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。
そのように記されています。
自分がイザヤの預言のごとく、まだ福音の語られていない地域に福音を宣べ伝えようと思うようになったのは、このキリストを知ったからだとパウロは言うのです。
キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。
パウロはキリストの言葉と行いに目を向けました。そして、そこで主イエスのしるしと不思議を行う力を知ったのです。そのしるしと不思議を行う力は、神の聖霊による力だということが分かりました。そうであれば、わたしにもその力が与えられていると知ったのでしょう。キリストの霊は、私たちに与えられている救いの霊です。
私たちには、この宝が与えられているのです。パウロが頂いたのとまったく同じ聖霊の力が、私たちにも与えられているのです。
キリストの不思議を行う力は、そのことばと行いに示されています。聖書にそのすべてが記されているのです。この聖書は、私たちにとって宝です。
最近、世の中を騒がせている新興宗教は、功績のあった人に3000万円の本をプレゼントするのだそうですけれども、そんな本は私たちには必要ありません。
この聖書が全てです。ここに、神のすべてのことばと行いが、愛の業の数々が記されているのです。私たちは、パウロと同じように、キリストの言葉と行いを、聖書を通して知ることができます。そこで、私たちも主とお会いすることができるのです。そうして、私たちも、パウロのように誇りを持って歩んでまいりましょう。
お祈りをいたします。