2022 年 8 月 28 日

・説教 ローマ人への手紙16章17-23節「善にはさとく、悪にはうとく」

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2022.08.28

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 約一年半にわたって、ローマ人への手紙からみ言葉を聞き続けてきました。今日で、ローマ書は最後の文章です。

 パウロは、ローマ人への手紙の中で、丁寧に福音を語り継いできました。この前のところでは、丁寧にひとりずつ名前をあげて挨拶を語りました。ローマの教会と、パウロがどれほど深い結びつきがあったかということが、ここからよく分かりました。

 そして、この最後の所で、パウロは改めて、ひとつの警告の言葉を発しました。

 17節です。

兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。

 このように記されています。

 私自身、これまでの信仰の歩みの中で、「教会分裂」というものを何度も目にしてきました。それはとても悲しいことです。さまざまな意見の食い違いや、考え方の違い、思わぬ出来事を通して、それは起こってしまいます。
ここで、パウロは最後に「分裂とつまずき」を警戒するようにと言います。

 続く18節の前半でパウロはこう言っています。

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。

 と書かれています。

 ここに「自分の欲望に仕えている」とあります。この「欲望」と言う言葉に注がついていまして、そこには、「直訳、自分の腹に仕えています」となっています。

 「自分の腹に仕えている」というのは面白い言葉です。少しイメージしてみたいのですが、自分の腹の中で葛藤が起こるわけです。神様が喜ぶことと、自分が喜ぶこと。どちらを取るか。この「自分の腹に仕えている」というのは、新改訳2017では「自分の欲望に仕えている」となっているわけですから、自分の思いが勝ってしまうわけです。

 分裂やつまずきをも引き起こす人たちは、自分自身の腹、欲望に仕えている。自分のためにやっているのだとここで、パウロは警告しています。

 とても厳しい言葉です。何も、最後にこんなこと言わなくてもいいのにとも思えるのですが、パウロとしては、やはり大切な教会が分裂するようなことがないようとの思いから、最後の最後、ダメ押しのように出て来た言葉なのでしょう。

 教会の分裂の場面を見ると、それぞれに立派な言い分があります。ただ、その言葉を聞いていると、最終的には自分の言い分を貫くことに終始してしまって、結局のところ主の思いとは違うところに立ってしまうことになるのです。たぶん、そういう場合、その人の心の中では、平和が無くなってしまっているはずです。自分の言い分ばかりがどんどん大きくなっていく時というのは、気をつけなければならないのです。

 教会を分裂させたり、人をつまずかせる強い意見というのは、よくよく気をつけなければなりません。それは、主に仕えているのではなくて、結局、自分の腹に仕えているのではないか?とパウロは問いかけているのです。

 18節の後半にはこう記されています。

彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。

 心の素直な人が騙されてしまうのだとパウロは言います。ここが難しいところです。信仰には素直さが求められます。けれども、その素直さが、騙される要因ともなり得るとパウロは言うのです。

 では、このつまずきと分裂を回避するためにどうしたらいいのかと言うと、パウロはここ17節で「警戒しなさい」と言っています。
この警戒するというのは、「マークする」という意味の言葉です。

 何だか、刑事ドラマか、探偵ドラマに出て来る「尾行」を思い起こします。マークする。そのような人の言動に注意するのです。そして、そのような人の意見が、どこに立っているのかを見極めるのです。

 そのための大事なこととしてパウロは19節でこう言っています。

あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。

 ここに解決策があるとパウロは指摘します。この「善にはさとく」というのはどういうこかというと、「善」、「よいこと」つまり、主を喜ばせることに敏感であるようにということです。では、「悪にはうとく」とは何かというと、悪魔を喜ばせることには鈍くありなさいということです。つまり、主を悲しませることをしないようにということです。

 この二つの言葉、「善にはさとく、悪にはうとく」というのは、主を中心に考えることで見極めることができるというのです。

 また、この「うとく」と言う言葉は少し面白い言葉なので、紹介したいのですが、お酒を飲むときの言葉で、「まぜものしない」という意味から来る言葉なのです。純粋なお酒にまぜものをする。そうやって、水増ししてごまかすわけです。そういうことをしない。真実がちゃんと分かるように。悪というのは、別物で薄められたお酒のようだということです。良さそうなことを言っているのですが、それはまぜものをして薄められたものでしかない。それが、悪だというのです。

 お酒に混ぜ物をするというのは、あまりイメージしにくいかもしれません。私が、神学生時代のことです。自炊をしなくてはならないのですが、独身時代の私は料理ができませんでした。それで、当時はレトルトカレーをよく買ってきました。でも、一番安いものを買うので、すぐに味に飽きてしまいます。それで、ある時私はひらめきまして、何とか少しでもこのレトルトカレーを美味しくできないかと思って考えました。

 その頃、あるカレーのコマーシャルでリンゴとはちみつが入っているというのをやっていましたので、その時台所にあったはちみつを混ぜてみることにしました。するとつぎつぎアイデアが浮かんできます。インスタントコーヒーをカレーに入れるとコクが出るという話も聞いたことがあったので、今度はインスタントコーヒーをカレーのルーに加えました。美味しそうじゃないですか?その他にも、一日経ったカレーにミルクを入れるといいと聞いたのを思い出してミルクを入れました。極めつけは、冷蔵庫にシャケフレークが入っていたのですが、シーフードカレーもいいなと思って、シャケフレークも入れました。

 さあ、どうなったと思いますか? 美味しいカレーになったでしょうか?
 はい、結果はみなさんの想像したとおりで、気持ち悪くなって結局たべられなくなってしまったのです。

 全部、良さそうなアイデアなんですがカレーそのものの味がどこかへいってしまったのです。それは、単なる粗悪品です。

 「悪にはうとく」、はじめは、悪なんて思っていないかもしれません。良さそうな意見を次々と詰め込んだだけなのかもしれないのですが、結果的にそれは、粗悪なもの、悪いものになってしまうのです。これまでの自分で経験してきたこと、誰かから耳にしたよさそうな意見、もっと良くなるかもしれない様々なアイデア。それらは、良さそうに思えても、福音を変えてしまうのだとしたら、いつのまにか悪になってしまっているのです。

 「善にはさとく」、主が喜んでくださることに敏感に、「悪にはうとく」、主を悲しませることになることには関わらない。これが、分裂とつまずきをマークする重要なポイントなのです。

 ここで大切な見分けるポイントは、自分を喜ばせることではないということです。自分の腹のためではないのです。神の心を中心にものを考えるということこそが、大切なのです。

 ローマの人たちは従順な人たちでした。純朴な人たちでした。そのような人たちが、分裂やつまずきによって苦しむ姿を、パウロは見たくはありませんでした。

 このことは、私たちは誰もが良く理解できることだと思います。このパウロの最後の勧めは、私たち誰もが経験しうることでもあります。私は大丈夫と、なかなか言えません。私たち自身が加害者にもなり得ますし、被害者にもなり得ることです。だから、パウロは最後にもう一度このことを言っておきたかったのでしょう。

 そして、最後にこの言葉をもって締めくくります。20節です。

平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

 キリストが勝利者です。主は、その十字架と復活の出来事を通して、完全な勝利を世界に証してくださいました。そこで、私たちが目を留めるのは、この十字架とよみがえりの主イエス・キリストただお一人です。

 私たちにこの主を遣わしてくださったお方は「平和の神」と呼ばれています。

 神と私たち罪人である人間との平和を作り上げ、ローマ人とユダヤ人との間に平和を作り上げられるお方です。この主は、神を悲しませるような悪の業を踏み砕き、完全な希望の道へと私たちを招いてくださるのです。

 改めてここで考えてみたいのは、分裂や、つまずきを引き起こすもの、その原因は何かということです。神との平和、人との平和を壊してしまう人の腹の中にある欲望とは何でしょうか?

 それは、福音に反するものです。福音に反するとき、その人の心の中から平安が無くなっていきます。

 福音。それは平和の知らせです。戦争が終わった。神との戦いが終わった。人の罪はきよめられ、赦された。神と和解し、人と愛し合い、信頼を築き上げることができるようになった。これが、神の平和であり、福音です。
この福音に逆らって、もう一度人を不安に陥れてしまうもの、心に与えられた平安を奪うもの。それが、福音に反するものです。それはまるでお酒にまぜものをするかのごとく、別物が入り込んで来て、福音を違うものに変えてしまうのです。

 私たちの欲望、ここでは「腹」という言葉が使われているわけですが、私たちの腹が平安でなくなっている。いろいろなこの世の言葉や、自分の経験や、アイデアが膨らんで来て、神様の思いとは異なるものとなるなら、それはもはや福音とは呼べません。それは、私たちの腹の中、私たちの心の中から平安が失われているかどうかで、分かるのです。

 私たちの神は、平和の神です。この平和の神は、福音に反する思いを私たちの足元で打ち砕いて、主の恵みで包み込んでくださるのです。だから、この平和の神のみもとにとどまりましょうとパウロは、最後の最後でもう一度このことを確認するかのように語るのです。
 
 パウロはこの手紙で福音を伝えてきました。神と和解して平和を味わうことのできる福音を語ってきました。そして、ローマの教会の人々も、この福音を聞いて、教会に集うようになったのです。この平和の教え、福音に背く教えに私たちは気をつける必要があるのです。

どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

 この最後の祈りの中にこそ、平和の神と共に生きる喜びがあるのです。

 私たちは主イエス・キリストを通して平和が与えられるのです。今だけでなく、これから先も、私たちは主に受け入れられている。この平和が約束されているのです。この平和の主に栄光があるように。この主が褒めたたえられるように。私たちが望むのは、そのことなのです。自分を喜ばせることではないのです。

 この手紙の最後に、パウロは身近にいてこの手紙を書き送っている仲間たちを紹介しています。21節から23節です。

私の同労者テモテ、また私の同胞、ルキオとヤソンとソシパテロが、あなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記した私テルティオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。私と教会全体の家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の会計係エラストと兄弟クアルトもよろしくと言っています。

 これらの人たちは、パウロと一緒に平和をつくり上げるために労苦した人たちの名前です。

 その後の25節以下に、短い挨拶の言葉がありますが、この言葉はあとの時代になって付け加えられた文章であるということが分かっています。

 これは、新改訳第二版では、そのままパウロの本文として記されていましたので、ここから説教しないことに驚いた方もあるかもしれません。25節の注を読むと、この部分が欠けている写本があると書かれています。ここに記されているのはとても良い言葉ですが、ここではこれ以上扱いません。

 パウロはこのローマ人への手紙の最後に「平和の神」の祝福を語りました。この方の恵みを宣言しました。神の平和は、私たちの腹の中に平安を与えます。もし、私たちの内側に、むかむかする様な思いが出て来るなら、ぜひ主の福音を思い起こしてください。主が私たちに何をしてくださったのか。この手紙には、主の恵みが豊かに記されています。

 平安をもって神が喜んでくださることに生きる。それが、パウロの最後のメッセージです。善にはさとく、悪にはうとく、です。

 平和の神は、コーヒーやミルクやはちみつの臭いのするカレーのような、お腹に悪そうなものではありません。それは、私たちの心に平安を与え、安らぎと安心感を与えるものです。

 この平和の神との交わりの中に、主は私たちを招き入れてくださいました。この平和の神を私たちは仰ぎ見つつ、この平和の神であられる主と共に歩んでまいりましょう。

 お祈りをいたします。

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