2022 年 12 月 4 日

・説教 ルカの福音書1章26-38節「恵みの告知」

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2022.12.04

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日の聖書箇所は、クリスマスの物語の中でも大変有名なところです。キリスト教美術の中でも、この箇所の場面を描いたものが最も多く、「受胎告知」と呼ばれています。御使いガブリエルが、一人の少女のところを訪ねて、「あなたから主イエス・キリストが生まれる」という告知をしたのです。

 このマリアにはいいなづけがいました。いいなづけはヨセフといいます。ですが、このルカの福音書にはヨセフのことは出てきません。あくまでも、マリアのことを描こうとしているのです。

 この時代、婚約をしている相手に、妊娠が発覚してしまいますと、婚約者が訴えれば石打ちの刑にされてしまいます。物語だけを読んでいますと、これはとても美しい出来事です。ですから、描かれている絵画も、美しく描かれているものが多いのですが、実際、このことが明らかになれば、マリアは夫となるヨセフに殺されてしまうという危機にあったのです。

 そのマリアの背景を、神はよくご存じだったはずです。そんなマリアに御使いガブリエルは神の恵みの告知をします。まず、28節にこう記されています。

御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

 
 最初から御使いは神の恵みを語ります。神の恵みの使いとなってガブリエルはマリアに「おめでとう」と告げました。

 みなさんは「おめでとう!」という言葉を誰かに言う時、そこにどんな意図を込められますか?

 「退院おめでとう」「合格おめでとう」「誕生日おめでとう」「ご結婚おめでとう」いろんな場面で私たちはおめでとうという言葉を使います。この「おめでとう」というのは、何か嬉しいことがあった時に使う言葉です。そして、その多くの場合、その人が願っていることが実現してよかったですねという思いが、その言葉の中にはあるのだと思います。

 この言葉を言われたマリアは、この「おめでとう」という言葉に思い当たることが何もありませんでした。だから、困惑しました。
 29節にこう記されています。

しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 すると、ガブリエルはつづく30節でこう語ります。

「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」

 神から恵みを受けた。だから、「おめでとう」なのだと告げたのです。

 
 この時、御使いがマリアに告げた知らせの内容は3点あります。まず31節です。

「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」

 一点目は、ここにあるように身ごもって、男の子を産むということです。そして、二点目は32節です。

「いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」

 これは、ダビデの子、イスラエルの民が長い間待ち焦がれて来たメシアとしてお生まれになるのだということです。

 最後の三点目は、33節です。

「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」

とあります。これは、神の国の支配者となる、ということです。

 語られた内容それ自体は、イスラエルの民にとってはまさに福音の知らせでした。約束の救い主がお生まれになるという内容だからです。けれども、この知らせはマリアにとっては受け入れがたいことでした。

 ルカの福音書はとても興味深い書です。ここには、天使ガブリエルとおとめマリアのやり取りが記されています。私たちは、このマリアへの天使の告知の他に、夫となる、いいなづけのヨセフの所にも天使が現れたことを知っています。だから、ここでマリアが受け取った衝撃を、どうしても簡単に考えてしまうのです。ヨセフさんも分かっていたんだから、マリアはそれほど苦しまなかったのではないかと考えてしまうのかもしれません。けれども、ルカがここで伝えようとしているのは、マリアの葛藤です。
 
 マリアはこのガブリエルの申し出に対してこう尋ねます。34節です。

マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」

 ここで、マリアが言おうとしたことは、「無理です」「そんなことはありえません」ということです。まだ結婚していない。男性を知らないのです。だから、子どもは生まれっこありませんというのが、マリアの言葉です。

 それに対して、御使いは丁寧に答えます。35節から38節です。

御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
見なさい。あなたの親類エリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
神にとって不可能なことは何もありません。」

 マリアが聞きたかったのは、こんな言葉ではなかったはずです。

「そうですか・・・とても残念です。私は良いと思ったんですけど・・・難しいですか・・・いやぁ本当に残念です・・・」

 そう言いながら天使が帰っていくことだったと思うのです。ところが、御使いはとんでもないことを言い始めます。ガブリエルは言うのです。「夫がいなくても問題ありません。聖霊によって身ごもるのです。そうして、生まれて来る子どもは神の子と呼ばれるのです」

「いやいやいや、私が聞きたいのはそうじゃなくて・・・・お断りしたいんです」

 そんな言葉が聞こえてもおかしくないのです。そもそも、そんなことになったらいいなづけのヨセフがどう思うか。納得してくれるだろうか? 疑われないだろうか? というか、聖霊による子どもだと言って信じて貰えるだろうか? どこかで浮気したのではないかと言われたら、お腹が大きくなった時点で石打ちにされる。もし、ヨセフが受け入れてくれるとしたら、それはヨセフがまるで自分の子どもであると認めてもらう以外にはないのです。

 このようにヨセフが受け入れてくれるのは、可能性としてどれだけあったことでしょう。みなさんが、自分がマリアなら、自分がヨセフなら、と考えたら分かるでしょう。この御使いの言葉を受け止めることは、まったくもって現実的ではないのです。私たちは、神の恵みというのは、自分の望みや願いが叶えられる事だと考えるのが普通だからです。

 しかし、この物語が伝えている神の恵みは、まったくもってそうではありません。神の恵みは、その人の事情がどうであろうがまったくお構いなしに、神の御業がなされることということができます。このことは、私たちに躓きを与えるかもしれません。

 私たちは、神に願っている祈りがかなえられた時、それを神の恵みと感謝したくなります。あるいは、まさに、私たちが普段「おめでとう」と声をかける時のように、病気が治ったり、希望の学校に入れたり、良い縁に巡り合って結婚することができることを、神の恵みだと捉えたいのです。

 しかし、聖書はこの新約聖書の冒頭から、まるで正反対のことを語っているのです。神の恵みというのは、私たちの願いがかなえられる事ではなく、神の願いが遂げられることなのです。

 御使いは、続いて語ります。

「神にとって不可能なことは何もありません。」

 ここで問われているのは、このあまりにも現実的とは思えない神の知らせ、神の言葉を受け止めるかどうか。この神の言葉を受け止める時に、そこに神の恵みの出来事が起こるのです。

 すると、マリアはどうなったでしょう。38節にこう記されています。

マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 マリアはその主の言葉を受け止めたというのです。信じられないことです。マリアは自分を見て言ったのです。自分は見ての通りはしためです。「はしため」というのは、端の女という字を書いたり、婢女「ひじょ」と言って身分のとても低い女の人のことを指します。マリアは、自分はそういう身分の低い女である。自分のことを本当に貧しい何も無い者であると言って、この御使いの言葉を受け止めたというのです。

 ちょっと考えにくいことです。マリアはいったいどうやってこの言葉を受け止めることができたというのでしょう。私たちにはとてもできそうなこととは思えません。信仰というのは、こういうことを要求されるのだとしたら、もう諦めるしかないのかとさえ思えます。

 私たちはこのところから、マリアを理想的な信仰の人という姿を見出そうとします。これこそが、クリスチャンとしての模範的な姿だと。こういうマリアは立派です。そして、私たちはこんな立派なマリアの信仰的な姿に感動を覚えたります。
キリスト教美術の多くも、マリアのところに百合の花を描いたり、あるいは毅然とした姿のマリアを描き出したりします。さすがマリア様とでもいう様にです。けれども、私たちが知らなければならないことは、そのような立派な信仰者こそがマリアであったのだということを、聖書がここで伝えたいのではない、ということです。

 ここで聖書が語ろうとしているのはマリアの功績ではなくて、神の恵みです。マリアがどんなに立派な信仰者であったかということを語ろうとしているのではないのです。信仰というのは、神の言葉を謙遜になって受け止めることにある。これが、この箇所で聖書が伝えようとしているメッセージです。

 誰もがマリアのようになることができるのだということです。だいたい、私たちがみ言葉を聞くとき、私たちの前に天使は現れてくれません。せいぜいそこに立っているのは牧師です。家で聖書を読むときには、そこにあるのは聖書と自分自身です。

 たしかに、天使が現れてくれたら、神の言葉を信じられるようになるのかもしれません。しかし、ルカの福音書はこのマリアの前に描き出した祭司ザカリヤをもってしても、天使が現れて、嬉しい知らせを聞いても、受け入れられなかったのだということを記しているのです。

「神にとって不可能なことは何もありません。」

 私たちが聞き取るべきはこの言葉です。神の全能と言われるテーマです。聖書が、神の全能を語るとき、それは決まって神の言葉と結びついています。信じるか信じないか、なのです。そして、神の言葉を信じる時というのは、ここで御使いが語っているように、「聖霊があなたの上に臨む時」なのです。

 神の言葉は、聖霊の働きなしに受け取ることはできません。しかし、聖霊が働くならば、私たちは聖霊によって、語られた神の言葉を受け入れることができるようになるのです。これが、信仰です。

 神の言葉は、今日も私たちに向かって語り掛けられています。聖書を通して、そして、教会の礼拝を通して、神は私たちに語り掛けられるのです。

 聖霊の助けを受けながら、私たちもまた、「私は主のはしためです。おことば通り、この身になりますように」と応答したいのです。

 お祈りをいたします。

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