2022 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書2章1-7節「居場所のない救い主」

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2022.12.24 聖夜燭火礼拝

鴨下直樹

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午後7時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ここには衝撃的な言葉が記されています。

 イスラエルの人々は、長い間、メシアとかキリストと呼ばれる救い主が生まれるとの約束の言葉を、600年以上の長い間待ち続けてきました。その救い主がいよいよお生まれになった。これがクリスマスの出来事です。

 この12月24日に生まれたという、神の御子主イエス・キリストはイスラエルの人々の長い期待と忍耐の末に、ついにこの世界に来られました。この聖書の中には、神の預言の成就が記されています。

 ところがです。神の約束の実現は、私たちに衝撃を与えます。

 聖書は「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と書かれているのです。神の救いの計画は、落ち度なく完璧であったはずです。神ご自身が、人間の姿をとってこの世界においでになられるのです。このルカの福音書の前の所には、主イエスの誕生の前に、ヨハネの誕生を備えておられたことが書かれていました。神は、ゼカリヤとエリサベツという年老いた祭司の夫婦を備えられたのです。そして、神の御子を宿すことになったマリアと夫のヨセフもまた、ダビデ王の末裔でした。この長い時間をかけた神の計画に、落ち度があったとは思えません。

 この主イエスがお生まれになられたのは、今から2022年前、ローマの皇帝アウグストがイスラエルを支配している時代でした。この皇帝は、自分の支配している全世界の住民に住民登録を強要します。臨月に入っていたマリアまでもが故郷に戻らなければならないほどの強制力のある命令です。臨月の女性に、100キロを超える旅をさせるなど、今では考えられないことです。「妻はお腹が大きくて来られませんでした」と言えばいいだけの気がするのですが、それができなかったのです。

 しかも長い旅の末、ベツレヘムに到着したのに宿屋もないのです。この宿屋問題にしても、このルカの福音書には実際には宿屋の話は少しも書かれていません。そもそも、自分の故郷に戻るのですから、親戚がいたはずなのです。住民登録に行くのですから、親類縁者も、郷里を離れていた一族や親族たちがベツレヘムを訪ねて来ることが分かっていたはずです。ダビデ王の家系なのです。大事にされなかったはずはないと思われるのですが、結果は臨月の妻が出産するにあたって「その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた」とあるのですから、誰もこのお腹が大きくなっていた若い夫婦を迎え入れなかったということなのでしょう。

 旧約聖書には旅人をもてなすことが勧められていたはずです。ところが、この時代には誰も聖書の戒めに生きてはいなかったということなのでしょうか。約束の神の御子ではなかったとしても、あまりにも理不尽な状況がここに記されているのです。

 しかも、この時に生まれたのはただの子どもではないのです。神ご自身が、人の姿をとって生まれてくださったのに、この救い主をこの世界は受け入れるゆとりがなかった。「居場所がないキリスト」がここに記されているのです。

 何という、悲しい現実でしょう。何という闇なのでしょう。

 人に関して無関心なのは現代の話ばかりではないのです。2000年前のイスラエルでもすでに、人への無関心の生活は当たり前になっていたのです。

 神が見ておられる闇の世界が、ここに示されています。「闇」とは「無関心」のことなのです。そしてさらに言えば「愛の消失」と言い換えることができるのかもしれません。人は自分の生活のことだけを考える。他の人のことを顧みることができなくなる。それが闇です。闇の世界では人は孤独を感じるのです。寂しさを感じます。自分だけが世界から取り残されているような思いになるのです。

 そして、神の愛そのものである主イエス・キリストは、そのような闇の中に、何の力もない姿で、真っ裸の赤ちゃんとしてお生まれになったのです。

 世界の創造者であられるお方を、ご自分が創造された世界なのに迎える場所がなかったのです。そして、このクリスマスに神によって示された闇は、クリスマスを祝う私たちの中にも、今なお存在し続けているのです。

 はじめ、世界に灯された明かりは、とても弱く小さいものでした。せいぜい周囲を数メートル明るくすることができた程度の明かりにすぎませんでした。生まれたばかりの小さなキリストの明かりも、この時はまだ弱く小さなものだったのです。

 今、私たちは燭火礼拝を行っています。この講壇に灯されていた一本の燭台の灯火を、皆さんは受け取りました。小さな一つの明かりも、全体に灯っていくならば少しずつですが、この部屋は明るくなります。この光が灯って行くにつれて、居場所を失っていた人たちが、この明かりに照らされていくようになります。こうして、この光は今日に至るまで2022年間にわたって灯され続けたのです。

 私たちが灯せる明かりは大きくはありません。せいぜい周囲数メートルの光なのかもしれません。この世界に広がる圧倒的な闇の前に、無駄と思えるような明かりなのかもしれません。それでも、私たちはこの光を頂いたものとして、この明かりを私たちの周りにもたらしていくのです。真っ暗な闇であった家に明かりがもたらされていきます。その光は、周囲の家の希望となるのです。

 この明かりは、少しずつですが明るさを増すものでもあるのです。主イエスは、その生涯を通して、この暗闇の世界に大きな希望の光となって輝きました。このまばゆいばかりの光は、その生涯の最後に待っていた十字架と復活によって、さらに大きな光となりました。人は死んだらすべて終わり。死という、人にとって絶対的な絶望と無力を突き付けるものが支配しているのに、死で終わらない将来があることを、キリストはその最後にお示しになられたのです。

 まだ小さな光であってもよいのです。この小さな光を携えて私たちは家に帰ります。そして、その光を少しずつ育てていくのです。この光のことを愛と呼びます。私たちはこの愛の光を、自分一人だけでもっているのではありません。私たちの周りにも、この光は備えられているのです。ここに、私たちは励ましを受けます。みんなで、この世界を照らす大きな光となって行けばよいのです。

 私たちは、今からクリスマスの賛美、「きよしこの夜」を賛美します。この歌を歌いながら、もう一度クリスマスの意味を心に刻みましょう。そして、共にこの与えられた光を、心から一緒に喜びたいのです。

 お祈りをいたします。

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