2023 年 4 月 7 日

・説教 イザヤ書55章1-12節「苦難のしもべ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:07

受難日礼拝
2023.4.7

鴨下直樹

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 今日は受難日です。主イエスが十字架にかけられて殺されたことを心に刻む時として、私たちは主のみまえに集まっています。

 この主の受難を覚える時に読む聖書の箇所のひとつが、このイザヤ書53章です。ここには「苦難のしもべ」と呼ばれる人物が出てきます。預言者イザヤは、52章の13節から「わたしのしもべは栄える」と語り出して、ここで主のしもべのことを記していきます。ここに記されたしもべは、さまざまな苦難を受けることが描き出されています。それで「苦難のしもべ」と呼ばれるようになったのです。

 そして、このイザヤ書53章に記されている苦難のしもべのお姿は、そのまま受難週に描き出されている主イエスのお姿と重なります。私たちは、このイザヤ書を読む時に、聖書は、こんなにもはっきりと主の苦難のお姿を、あらかじめ記していたのかと驚きを覚えます。それほどに、明確に主の苦難のお姿が描き出されているのです。

 1節から3節にこのようにされています。

私たちが聞いたことを、だれが信じたか。
の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。
砂漠の地から出た根のように。
彼には見るべき姿も輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、
私たちも彼を尊ばなかった。

 この苦難のしもべと呼ばれる人は、蔑まれ、人からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていたとあります。悲しみの人、病の人、というのは人が注目するような魅力的な人物ではありません。人から注目される人物とは正反対の姿です。だから、誰も、彼を尊びませんでした。

 ところが、そのような人の目に留まることのない人物には大きな役割がありました。それが4節です。「まことに、彼は私たちの病を負い、/私たちの痛みを担った。」と記されているのです。「私たちの病を負い」「私たちの痛みを担った」と記されているのです。そして、この4節の後半ではこう記されています。「それなのに、私たちは思った。/神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。

 私たちは、ここに描き出された苦難のしもべが、私たちのために病や痛みを担っていることがあまり理解できません。理解するどころか、あの人は神に罰せられていると思っているのです。かわいそうな人だと思って見ているのです。

 それは、多くの人が十字架上の主イエスのお姿を見た時に思い描く感想とよく似ています。

 ヨーロッパの教会に行きますと、カトリックの教会には、この十字架上の主イエスの彫刻や絵が至る所に置かれています。その主イエスのお姿を見ると、当時の姿を思い描くことができるのですが、どこか人ごとのように眺めているのです。それが、大抵の人の感想です。

 大切なことが、この後の5節に記されています。

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。

 ここでは、この苦難のしもべは、私たちのために刺されている、私たちの咎のために砕かれている、私たちの受けるべき痛みを担い、私たちの抱えている病を負っておられるというのです。いったいそれはどういうことなのでしょうか?

 5節には更に、その続きが記されています。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。

 苦難のしもべが懲らしめられることを通して、私たちに平和がもたらされると、ここに記しているのです。イザヤがここで語っている「平和」とは何でしょうか?

 「平和」と聞くと、戦争がない状態のことをすぐに連想してしまいます。しかし、主イエスが死ぬことでもたらされる平安というのは、おおよそ「戦争」とは関係ないものです。

 エドワード・ヤングという聖書学者はこの「平和」とは「福祉なのだ」と書いています。「福祉」とはどう意味なのだろうと思って辞書を開いてみました。何となく「福祉」というと、体に障がいがある方や、高齢の方の介護とかケアという意味だと私たちは勝手に思い込んでしまっています。

 けれども「福祉」というのは「社会の構成員に等しくもたらされるべき幸福」という意味だと辞書に記されています。そして、ヤングはさらに、ここでいう「平安」というのは「それは物質的に繁栄するという意味ではなく、神と私たちとの間を隔てていた壁が取り除かれること」と書いています。

 病にかかるとこの時代の人々は神からの刑罰だと考えました。「神に罰せられ、打たれ、苦しめられた」と。けれども、苦難のしもべが苦しむことを通して、神はその神と私たちとの間に築かれてしまった、どうやっても乗り越えることのできない壁を、壊してくださったのだというのです。そうして、私たちに平和がもたらされるというのです。

 少し例えで説明してみたいと思います。

 高い壁の張り巡らされた家の中に、どんな病気でも治すことのできる医者がいたとします。病に侵された人は、医者を訪ねて癒してもらわなければ、その病が癒されることはありません。病を抱えたままでは安心して生活できないのです。けれども、高い壁があるので医者に直接会うことができないのです。

 すると、その医者の息子が、医者である親を説得するために、自分が親からの刑罰を受けるから、その扉を開いてやって欲しいと頼んだのです。ここに記されているのは、そういう意味だということなのです。

 こんな説明を聞くと、なぜその医者はそこまでして、病人を診てやらないのかと思うのかもしれません。これには長い歴史があります。この医者は長い間、人々に病気にならない生活を教えてきました。けれども、人々は、この医者の言うことに耳を貸さず、医者の言うことをずっと無視しつづけたのです。医者は人々のことを思って、病気にならないための方法を、ことあるごとに教えてきたのに、人々はその話を真剣に受け止めなかったのです。そして、人々は医者のいるところから離れてしまいました。その結果、人々と医者との間に高い壁が築き上げられてしまったのです。こうして人々はこの医者の目の届かない遠く離れたところで勝手に生きることを選んだのです。

 けれども、人々は病になると都合よく医者の前に現れて、あそこが痛いとか、ここが悪いとか言って、都合のいい時だけ医者のところを訪ねては助けを求めるのです。

 聖書が「罪」と呼んでいるのはこういう人間の性質のことです。犯罪を犯したかどうかということではないのです。

 ところが、人々が苦しむ姿を見て、その医者の息子は、医者と人々の間を取り持つために立ち上がったのです。それが、このイザヤ書53章に記されている「苦難のしもべ」の姿です。

 では、なぜこの医者の息子が、この「苦難のしもべ」として描かれているように、人々のために苦しんで、犠牲を払わなければならないのでしょう。

 それは、医者は人が困った時だけやってきて、その病を癒したとしても問題が解決しないからです。人は病気が治ってしまうと「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、またすぐに医者の言うことを聞かずに、自分勝手な生活をすることになるのです。病気にならないようにするには、医者の言うことを理解して、健康な生活をしなければなりません。その「大切な気づき」を与えない限り、人間はこの「罪」から抜け出せないのです。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。

 とイザヤは語りました。これは、まさに医者である神ご自身が、神の御子、主イエス・キリストを苦難のしもべとして、神と人間の間に立たせられたことを物語っているのです。主イエスがまさに、苦難のしもべとして、神と私たちとの間を取り持ってくださることを通して、私たちは病から、罪から癒される道が開かれたのです。

「私たちは癒された」とここに記されています。彼が、主イエスが苦難のしもべとして苦しんだことを通して、私たちは癒されるのです。罪の問題を乗り越えて救いを得、病気に支配されず、罪の思いから解放されるようになったのです。この癒しが事実として与えられたのは、苦難のしもべである主イエスが、あの苦しみを味わったからです。このしもべが負った苦しみこそが、十字架の上での死だったのです。この事実が、私たちに理解されなければならないのです。

 私たちの病、罪という名の病は、「苦難のしもべ」の犠牲があってこそ、私たちは癒しを経験することができるようになるのです。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらす

 これが、この受難日に明らかにされた主の十字架のみわざです。

 私たちは、この時、十字架に磔にされている主イエスの姿を心に刻む必要があるのです。主イエスは何のために、十字架にかけられたのか。このことが分からないなら、私たちはまた、何度も過ちを繰り返し続けるのです。

 主が十字架の上で釘を打たれ、槍で貫かれたのは、私のためであったことに気づく必要があります。主が、十字架の上で「父よ彼らを赦したまえ、彼らは何をしているのか分からないのです」と叫ばれたのは、この私のためのとりなしの叫びだったのです。

 人ごとではないのです。誰かのために、主は十字架の上で叫んでおられるのではないのです。あなたのために、あなたが、死に至る病から癒やされるために、主イエスは十字架にかけられているのです。

 10節にこう記されています。

しかし、彼を砕いて病を負わせることは
のみこころであった。
彼が自分のいのちを
代償のささげ物とするなら、
末長く子孫を見ることができ、
主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 主なる神のみこころは、この主イエスの犠牲によって成し遂げられるのです。なぜ、神は、罪深い私たちのために、そこまでなさるのでしょう。言うことを聞かない人間を、病で死ぬ、罪で死ぬままにしておいても、それは自業自得でしかないはずです。それなのに、主が、人間を諦めないのは、ひとえに主なる神様の私たちへの愛以外の何ものでもないのです。

 主は私たちの目の前で、十字架におかかりになられました。そこで、私たちの目を見ながら言われるのです。「あなたの罪は赦された。これから先は罪を犯さないように歩みなさい」と。

 私たちは、この受難日に、主イエスの十字架の前に立たされています。この十字架の上で主イエスによって示された神の愛のみわざを、この時私たちは心に刻みたいのです。

 お祈りをいたします。

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