・説教 詩篇116篇「死からの救い」
復活主日(イースター)礼拝
2023.4.9
鴨下直樹
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イースターおめでとうございます。
今日は、私たちの主イエスのよみがえりを共に祝い、喜ぶ日です。
今日はこの詩篇116篇が私たちに与えられています。この詩篇116篇は、教会の伝統では洗足式の木曜日に読まれたり、また、葬儀の時に読まれたりすることの多い詩篇です。
この詩篇の主題は、死と、よみの恐怖からの救いと、その感謝が歌われています。
3節にこう記されています。
死の綱が私を取り巻き
よみの恐怖が私を襲い
私は苦しみと悲しみの中にあった。
この詩篇はいつの時代のものか、誰が書いたものであるかははっきりしません。けれども、イスラエルでは古くからこの詩篇を個人の救いの感謝の詩篇として用いることが多かったようです。ここに書かれている「死の綱が私を取り巻く」というのは、死に支配された状態です。病のため、あるいは、人が何らかの事情で窮地に置かれた時に、まるで大蛇が体に巻き付いて自分を締め付けるように、死の綱が私を取り巻いたと、この詩篇では表現されています。この詩篇を書いた人は、そんな死の恐怖を味わっていた人のようです。
この詩篇の言い方から分かるのは、死の危機が迫っている状況は、よみの世界に落とされてしまったことと同じように考えられているということです。まだ、死んではいないのですが、死に支配された時、それは「よみ」に、つまり死の支配する世界にいるのと同じだと考えているのです。
このような表現はまさに、主イエスが十字架に磔にされて、死なれ、よみがえられるまでの、よみの期間を過ごされたことと重なります。
詩篇の祈り手は、死の支配の中にあって4節にあるように「主よ、どうか私のいのちを助け出してください」と祈りました。主の御名を呼び求めると、救い出されたのです。主の御名を呼ぶことがどれほど大きな意味を持っているかが、ここで私たちにはよく分かります。
この4節で「私は主の御名を呼び求めた」とあります。この詩篇の中で「主の名を呼ぶ」という表現は、13節にも、17節にも出てきます。
救いの主の御名を呼ぶことから、主の救いの御業は始まるのです。
「どうか、私のいのちを助け出してください」という祈りは、どの世界の人々もしているのだと思うのです。けれども、ここではその前に「主よ」という言葉が冒頭にあります。この主の御名を呼ぶということが、とても重要なことなのです。
「神様、仏様、キリスト様・・・」どんな神様でもいいので願いを叶えて欲しいですというのは、多くの人の思いです。それは、自分のことが一番重要で、神への恐れはそこには込められてはいません。
「主よ」と私たちが呼びかける。この「主」というのは「イスラエルの神の御名」のこと、つまり「ヤハウェ」と呼ばれる主の御名のことです。イスラエルの人々は、この主の本当のお名前は一般的には知られていませんでした。隠されていたのです。イスラエルの民に与えられた戒めの十戒に「主の御名をみだりに唱えてはならない」とあります。そのために、主の本当の名前は人々には明かされていなかったのです。
この戒めにあるように、主の民は「ヤハウェ」という名前を使わないで、その代わりに「アドナイ」という言葉を使いました。これが一般的に使う「主」という言葉です。
この詩篇116篇でも、「太字の主」という言葉と、「細字の主」とに分けられていることに気づきます。この違いは新改訳聖書の特徴なのですが、「ヤハウェ」という名前か、「アドナイ」と書かれているかの違いを表しています。もちろん、意味は同じなのですが、「太字で主」と書かれている原文のニュアンスを表すために新改訳聖書では、そのような翻訳をしたのです。新共同訳聖書も、協会共同訳もこの太字と細字の区別はないのですが、新改訳聖書のこだわりがここに表現されています。こう記すことによって、主の御名の持つ意味がいっそうはっきりするのです。
この詩篇は冒頭にこうはじまっています。
私は主を愛している。
唐突なはじまりです。しかも、この文章はあとのどの文章にもかかっていないのです。ある聖書学者(ヴェスターマン)は、「文章が壊れている」と書いています。
新改訳聖書はこの言葉をむりに後ろの文にくっつけたりしないで、原文のニュアンスのままを訳しました。
実は、10節の「私は信じています」という文章も、壊れているとこの聖書学者は言っています。そして、この詩篇はギリシャ語の70人訳聖書やラテン語の聖書では、別々の詩篇に数えられているのです。この詩篇116篇は、他の詩篇に繋がっていたものだという可能性もあるにはあるのです。
けれども、70人訳聖書もラテン語訳聖書も、今私たちが使っているヘブル語の聖書と最初の定本が違うと考えられています。この辺りの話は面白いのですが、テーマが変わってしまいますので今日はお話しませんが、ヘブル語の聖書は、ちゃんとこうして116篇として一つの詩篇としてまとめられています。
そんな中で、「私は主を愛しています」とか「私は信じています」という、いきなり告白するような詩篇の書き出しというのは、とても魅力的な響きがあります。
この詩篇を記した作者の一番伝えたい思いが、ここに集約されているからです。ここから別の詩篇だなと考えなくても、意味はよく分かると思うのです。
私はこの詩篇116篇というのは、主イエスが墓からよみがえられた時の心が、ここにそのまま歌われている気がしてなりません。
先ほど、ルカの福音書の24章の冒頭をお読みしました。そこには、よみがえりの日の朝のことが記されています。マリアたちが主イエスの納められた墓に向かった時に、三人の女たちの前に、まばゆいばかりの衣を着た人が、二人が現れます。そこで、主のよみがえりの知らせを告げるのです。
この時、主イエスの体は墓にはありません。よみがえられた主イエスは、弟子たちに会う前に何をしておられたのだろうかと考えることがあります。私は思うのです。当然のこととして、主イエスはよみがえられた時に、主なる神に祈り、賛美をささげられたに違いないと。そうすると、何を祈られたのだろう。どんな賛美をされたのだろう。そう考えるとやはり私の頭に浮かんでくるのはこの詩篇116篇なのです。
もう一度、そんな想像をしながらこの116篇の御言葉に耳を傾けていただきたいのです。
詩篇116篇1−19節 (新改訳2017)
1 私は主を愛している。
主は私の声 私の願いを聞いてくださる。
2 主が私に耳を傾けてくださるので
私は生きているかぎり主を呼び求める。
3 死の綱が私を取り巻き
よみの恐怖が私を襲い
私は苦しみと悲しみの中にあった。
4 そのとき 私は主の御名を呼び求めた。
「主よ どうか私のいのちを助け出してください。」
5 主は情け深く 正しい。
まことに 私たちの神はあわれみ深い。
6 主は浅はかな者をも守られる。
私がおとしめられたとき 私を救ってくださった。
7 私のたましいよ おまえの全きいこいに戻れ。
主が おまえに良くしてくださったのだから。
8 まことに あなたは 私のたましいを死から
私の目を涙から
私の足をつまずきから救い出してくださいました。
9 私は生ける者の地で
主の御前を歩みます。
10 私は信じています。まことに私は語ります。
私は大いに苦しんでいました。
11 この私は恐れうろたえて言いました。
「人はだれでも偽りを言う」と。
12 主が私に良くしてくださったすべてに対し
私は主に何と応えたらよいのでしょう。
13 私は救いの杯を掲げ
主の御名を呼び求めます。
14 私は自分の誓いを主に果たします。
御民すべての目の前で。
15 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。
16 ああ 主よ 私はまことにあなたのしもべです。
あなたのしもべ あなたのはしための子です。
あなたは私のかせを解いてくださいました。
17 私はあなたに感謝のいけにえを献げ
主の御名を呼び求めます。
18 私は自分の誓いを主に果たします。
御民すべての目の前で。
19 主の家の大庭で。
エルサレムよ あなたのただ中で。
ハレルヤ。
いかがでしょう。16節の「あなたのはしための子」という言葉までが、まるで主イエスのことを語っているように読めてくるのです。
この詩篇は死からの救いの歌です。
死の恐れ、よみからの救いの歌です。そして、与えられた救いを心から喜ぶ歌です。神が、私を死の支配から引き上げてくださったということが分かるなら、この詩篇の冒頭にあるように「私は主を愛している」という叫びになるのだと思うのです。他に理由はないのです。死の恐怖や不安から救い出されたとき、人はただただ、そう叫びたくなるのではないかと思うのです。
この詩篇は、私たちにとって希望の歌です。
だから、葬儀の時にこの詩篇を読むのです。きっとみなさんの葬儀の時にも、私はこの詩篇116篇を読むのだと思います。それは、私たちがやがて死を迎え、主と顔と顔を合わせた時に、この詩篇のように主なる神に祈るのではないかと思うからです。
5節から7節までをもう一度読みます。
主は情け深く 正しい。
まことに 私たちの神はあわれみ深い。
主は浅はかな者をも守られる。
私がおとしめられたとき 私を救ってくださった。
私のたましいよ おまえの全きいこいに戻れ。
主が おまえに良くしてくださったのだから。
私たちの主は救いの神です。
私たちを死の恐れから、死後の恐れから、私たちを解き放つために主イエスはこのイースターでよみがえってくださったのです。この主イエスのよみがえりは、私たちの人生の最終的な勝利と深く結びついています。私たちがやがて死を迎え、御国で目覚める時「やったー!」と心から喜びの声を上げることができるのです。そして、「イースターおめでとう」と、今日お互いに挨拶の言葉を交わしたように、「新しい命があたえられておめでとう」と、互いに喜びの挨拶を交わし合うことができるのです。この主が、私たちの神であられるので、私たちは自分の人生の最後の、その先にまで希望を見出すことができるのです。
お祈りをいたします。