・説教 ルカの福音書6章27-38節「あなたを量る秤」
復活節第7主日
2023.5.21
鴨下直樹
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今、私たちは主イエスが平地でなさった、「平地の説教」と呼ばれる箇所の御言葉を共に聞いています。主イエスは、私たちの生きている生活の場所まで下りて来られて福音を語ってくださいました。
前回、語られたのは「貧しい者は幸いです」という言葉でした。私たちがこの世にあって、自分の人生が思うようにうまくいくような状況は、幸福に見えても、実は不幸なのだと言われました。けれども、主イエスは、私たちが生きている困難な状況、厳しいところ、そこで神を見出すことができることは幸いだと言われます。私たちが不幸だと感じるような生活の中で、神を見出すことができるなら、神が私たちと共にいてくださることを覚える、その時こそ幸せなのだと言われるのです。これが、平地の説教の冒頭の言葉でした。
今日の箇所はそれに続いてのことばです。27節で、主イエスはこう言われました。
しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。
ここで、主イエスは「しかし」と語り出されています。「しかし」というのはどういう意味なのでしょうか?
主イエスはここで幸いな生活についてお語りになりました。そして、不幸な生活のこともお語りになられました。
富んでいる人、今満腹している人、今笑っている人、人々があなたがたをほめるとき、そういう人は哀れなので、実は不幸なのだ、災なのだと主イエスは言われました。そうすると、それを聞いた人々はどう思うのでしょう。貧しい人たち、今苦労をしている人の立場であれば、それまで成功者と思われていた人たちが、主イエスから実は不幸なのだと言われた時に、どこかでほっとする、どこかで「ざまあみろ」という気持ちを抱くのではないでしょうか。
主イエスは、説教者としてそういう人の心の動きをよく理解しておられるお方です。だから、ここで続けてこう言っておられます。
「しかし、・・・わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい」また、「あなたがたを憎む人たちに善を行いなさい」と言われたのです。
「ざまあみろ」と思うのではなくて、そういう相手である「あなたがたの敵を愛しなさい」「憎む人たちに善を行いなさい」と言われたのです。
主イエスがここで言われる「あなたの敵を愛しなさい」とはどういうことなのでしょうか。私たちは、この言葉を聞くと、どうしても「感情的に好きにならなくてはならないのだ」と考えてしまいます。もちろん、そうできたら良いのかもしれません。自分に対して敵対感情を向けてくる人を、自分の方から積極的に、自発的に好きになっていく。それが出来れば本当に幸いなことです。ただ、そう考えるとこの主の言葉は、私たちに非常に重い宿題を課すものとなっていきます。苦手な人を好きになれない自分は、何かが欠落しているのではないかと考えて自分を責めてしまうことになってしまうかもしれません。
主はここで28節から30節のところでこのように言われています。
あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。
主イエスがここで言われていることは、とても厳しいことです。とてもまともな感覚ではできそうもないことばかりです。そこで、まず理解したいのは、主イエスはこれらのことをどんな意図を持って語っておられるのでしょうか。
ここで言っておられるのは「好きになる」というような感情の話ではありません。むしろ、感情を殺していくような犠牲を強いるような言葉が続きます。自分を呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈り、頬を打つ者には反対を頬をも向けるように振る舞うことです。ここで、主イエスが語られている意図は、自分を犠牲にするということです。自分の敵とも思える相手のために、自分を犠牲にするようにと、主はここで要求しておられるのです。
どうして、そんなことが可能になるのかというと、この前に話されたように、あなたがたは幸せな者だからだ、ということになります。神の国の中に生きている、神に支配されて生きているのだから、もう何も失うものはないのだと言っておられるのです。
時折、お話していることでもありますが、この教会の前任者の浅野直樹牧師と、以前教団の学生会の働きを一緒にしていたことがあります。ある時、浅野先生はこんな話をしてくださったことがあります。それは結婚カウンセリングをする時に、まずはじめに「あなたの敵を愛しなさい」ということを教えることから始めるということでした。
これから結婚をしようとしている二人にとって、結婚の準備の期間というのはまさに二人の愛を育てる時期です。もう、相手のことが好きで好きでたまらないという時です。そういう二人に、「あなたの夫となる人、あなたの妻となる人はあなたの敵です」と話すのです。
そうするとそれを聞いた人たちは、はじめ「何を言っているんだろうこの牧師は?」と不思議に思うのです。けれども、自分たちが結婚する時に、相手が自分とは全く考え方も、育ってきた文化も習慣も違う、理解しがたい人物、まるで「敵」であるということになかなか気づきません。結婚して、数日のうちに、この人は自分とはまったく違う人だということはすぐ分かるようになるのですが、「好き」という感情が邪魔をして、相手のことを自分とはまったく違う存在なのだということに気づけなくしてしまっているのです。
その誤解を抱いたまま結婚すると、そこからは日毎にお互いの違いが明らかになっていきますので、どんどん好きという感情が冷めてしまって、二人の距離は少しずつ開いていってしまうことになるのです。けれども最初から、結婚したばかりの相手というのはまさに「敵」とも言うべき、全く正反対の存在なのだと理解して結婚生活をはじめていくと、喧嘩をするたび、お互いの違いを理解していくたびに、理解が深まって寄り添っていくことができるようになるのです。そうすることで、心が離れていくのではなくて、近づいていくようになるのです。
その話を聞いてなるほどと思い、私も結婚カウンセリングをするとき、一度はこの「あなたの妻、あなたの敵を愛しなさい」ということを教えるようになりました。その時に私が話すのは、「愛すること」は「意志を貫くこと」だと教えます。感情ではなく、志です。結婚の時に、神と人との御前で誓った誓いを守るように、その意志を貫くのです。「好きという気持ち」が重要なのではなくて「意志を貫けるかどうか」が重要なのです。
愛する時に、貫く意志というのは、どうすればよいかというと自分を犠牲にすることです。やられたらやり返すという発想を捨てることです。自分を攻撃してくる相手に対して、自分を守ることをやめて、その人を支えるように振る舞うことです。
愛は、ギブアンドテイクではありません。自分を捨てたら捨てた分だけ、犠牲を払えば犠牲を払った分だけ、その人を愛したことになるのです。
主イエスがこの27節から30節で言っておられるのは「受け身」です。相手を受け入れるというその心の持ちようを語っておられます。ところが、この後の31節から主イエスはさらにその思いを一歩進められます。
31節。
人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。
と言われます。これが、やがて、黄金律とかゴールデンルールと呼ばれるようになりました。愛することは想像力を持つことです。相手が何を望んでいるのかを知ることができないと、人を愛することができません。そこで、その人が何をして欲しいと願っているかを知るためには、自分が人からしてもらいたいと思っていることを、相手にしてあげればいいのだと、主イエスはここで言っておられるのです。そうやって自分の方から愛を示していくことができるのだと語っておられるのです。
ここで語られているのは、自分の方から積極的に働きかける愛の姿です。前半で語られていた、何か嫌なことを人からされたり、やられたりしたら、そこで我慢する。あるいはその時、敵が上着を求めれば下着も与え、殴られても殴り返さない愛を示すというのは、どうしても、我慢することと同じ意味に理解されてしまいがちです。主イエスは、敵を愛することは、ただ意志を持って我慢することに留まるのではなく、自分の方から積極的に働きかける能動的な愛であることもここで続いて語っておられるのです。
自分を愛してくれる者に親切にする、それはまさにギブアンドテイクですが、これはみんなやっていることだというのです。敵を愛する愛というのは、まさに自分を捨てる思いをもってその人を受け入れていく愛なのです。そのようにして示していく愛で、相手を包み込んでいくのです。
35節にこう書かれています。
しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。
主イエスはここでもう一度「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい」と語りかけられました。そして、ここで主イエスは「報いは多い」と言われました。ここで語られる「報い」とはなんでしょう。
この言葉も少し私たちには不思議に感じます。愛するというのは想像力を持って、自分に見返りを求めない事だと主は言っておられるのに、ここでは報いがあると言われるのです。
先ほどお話した、この世の愛はギブアンドテイクの愛です。愛すれば報いを期待するのです。けれども、それは誰でもやっている事だと言われたすぐ後で、「報い」の話をなさるのです。どういうことなのでしょうか?
私たちは、ここまでの主イエスの話で、愛するというのは、自分の損得勘定を捨てて、相手に対して、自己犠牲を払う思いで接することだということを、理解してきました。ところが、その最後のところで「報いは多い」という話をなさる。普通に読んだら混乱してしまいます。どう読んだらよいか分からなくなってしまいます。
主イエスがここで「報い」と言っておられるのはどんな内容なのでしょうか? その内容を見てみると、主イエスが語られている報いとは「いと高き方の子どもになります」と言っておられます。
では、そのいと高き方というのは、どんなお方なのでしょうか。続いてこう記されています。「いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。」とあります。「あわれみ深い方の子どもとなる」ということは、その子どももあわれみ深くなるということでしょう。つまり、それがここで言っている主イエスの語られる「報い」なのです。
とんちのような言い方です。主が持っておられるようなあわれみ深さを、報いとして得られるというわけです。この「あわれみ深い」という言葉は、人のために自分の心を痛めるという意味の言葉です。
私たちが考える報いというのは、人を自己犠牲の愛でもって愛することができたら、その交換条件に、幸せなことがたくさん起こるとか、病気を治していただけるとか、人生がうまくいくようになるというようなことをどうしても考えてしまいます。「損してばかりではない、報いがあるから」と聞くと、「きっと後で何か良いことがあるから」という意味だと考えてしまうのです。しかし、主がここで語られる「報い」というのは、「いと高き方の子どもになります」つまり、「あわれみ深い主イエスのようになる」というのです。
だから、その後の36節でもそのことを繰り返しています。
あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。
「あわれみ深い者としていただける」、相手のことに心痛める者となる。これが、主が語られる「報い」です。それは、私たちが思い描く報いとは異なっているのかもしれません。主イエスがここで語られているのは、徹底して愛に生きる者となるということなのです。
そこで、この結びの37節と38節ではダメ押しと言わんばかりのことが語られています。
さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。
この最後に書かれているのは、さらにダメ押しで3つの命令が記されています。「さばいてはいけません」「不義に定めてはいけません」そして「赦しなさい」という命令です。命令の背後には、神様の愛の心があると言う話を以前しました。この主イエスの命令の背後にある神の愛の心は、その後に記されています。あなたがたが裁かれないため、不義に定められないため、赦されるためだと言われています。
よく考えてみれば、ここにも報いが記されています。ここに来てようやく、このように言われる神の心が見えてきます。それは、神ご自身が、あなたがたを敵とはみなさないでいてくださるからだというメッセージです。
神にとって敵とは誰でしょう。それは、神を悲しませる人たちです。つまり神の敵は、私たちです。私たちは神に敵対して生きています。無自覚であろうと、神の思いに逆らい、神を悲しませ、神を苛立たせて生きているのは、私たちなのです。私たちが、いと高き神の子として歩もうとする時に、神がどんな思いで私たちのことを見ておられるのかに気付かされます。けれども、ではなぜ神は神の敵である私たちのことを、何度も何度も赦してくださるのでしょう。何度も受け入れてくださるのでしょう。それは、神が、私たちのことを愛しておられるからです。
しかし、私たちのような者を愛して、赦して、受け入れたからといって、神に一体何のメリットや、見返りがあるというのでしょう。何もありそうには思えませんが、それでも神は私たちのことを愛してくださるのです。そこに見えてくるのは、気前のよい神様のお姿です。それこそが、私たちに備えられている本当の、報いです。それを、聖書は「神の恵み」という言葉で表現しているのです。
神は、私たちに恵みを与えたくて仕方がないお方なのです。私たちに、気前よく量って懐に入れてくださるのです。何故か。私たちの主は気前がよい方だからです。神のところには、豊かなものが満ち溢れているからです。だからケチケチする必要がないのです。
このお方は、人に愛をお示しになるために、自己犠牲を払って損をしたからといって、もう手元に何も残らないような金欠の神ではありません。私たちの神は、恵み豊かなお方で、このお方のところには、何でも、満ち溢れるほど有り余っているのです。
私たちが敵を愛する時にこそ、私たちはこの神のお姿を知ることになるのです。主なる神は、敵である私たちのことを、何度でも、何度でも赦し、受け入れてくださるお方です。私たちを裁かず、不義に定めず、私たちを赦してくださるお方なのです。この恵み深いお方を知るときに、報いとしてこのお方の子どもとなることの意味が分かるようになるのです。神の豊かな恵みを知り、この恵みの中に生きること、これが私たちに約束されている最も大きな報いなのです。
お祈りをいたしましょう。