2023 年 6 月 4 日

・説教 ルカの福音書7章1-10節「共に見上げる信仰」

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三位一体主日
2023.6.4

鴨下直樹

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 今年の9月に、この岐阜市にあります長良川国際会議場で第7回日本伝道会議が行われます。5年ほど前から準備が進められまして、いよいよあと4か月を切りました。明日から、掛川でJEA(日本福音同盟)の総会が行われますが、そこでも伝道会議のために多くの時間を取ろうとしています。

 今回の伝道会議のテーマは「おわりからはじめる宣教協力」です。この「おわり」には、いろんな意味合いを込めています。尾張地区から宣教協力が始められることを期待しています。また、今は「終わり」の時であるという終末的な意味もありますし、これまでのさまざまな習慣や伝統も、「終わらせる」ものは終わらせて、新しい取り組みをしていこうという願いも込められています。

 こういうテーマが掲げられております一つの理由は、今、教会の伝道の力が落ちてきていて、このままでは良くないという危機意識があるからです。もっと真剣に伝道について考えていかなければならないという危機感があるのです。その一つには2030年問題と言われているものがあります。2030年になりますと、日本の人口の3分の1が65歳以上になると言われています。そうすると、人材がどの分野でも不足していって、これからの社会が成り立たなくなるということが警戒されています。それは教会も例外ではなく、牧師に定年のない教団でも、日本中の牧師の数が半分になって、教会が立ち行かなくなると言われています。

 先週、日本自由福音教会連盟の理事会が行われました。この連盟ではルーツを同じくする同盟福音基督教会、日本福音自由教会、日本聖契キリスト教団、日本聖約キリスト教団という4つの教団が定期的に交わりをしておりまして、さまざまな宣教協力を行なっています。この理事会の最後に、私が閉会説教をしました。そこでも話したのですが、伝道が難しくなったのは今になって始まったことではありません。キリスト教会の伝道は、教会が誕生したペンテコステの時から今日に至るまでずっと難しい時代を通らされてきたわけで、あと7年で、どうにもならなくなるというようなものではないのです。私たちはいつも、今も生きて働いておられる主の働きに期待することができるのです。

 私たちの主は、今も生きて働いておられるお方です。この神と出会い、この神と共に歩んでいく以外に、私たちの道はありません。主はこれまでにも何度も、何度も教会を大変な状況の中に置かれましたが、その都度、よみがえってくるのが、私たちの信仰です。

 先週の木曜に朴先生が宣教報告に来られました。そこで興味深い話をしてくださいました。ある時、テレビを見ていたら解剖学者の養老孟司さんが出ておられたのだそうです。そこで、インタビューをする人が、「死についてはどうお思いですか?」と訊いたそうです。そうすると、養老さんは「死というのは、夜寝て目覚めなかったら死んでいるんだから」と達観しているように答えられたのだそうです。

 それを聞いて朴先生は「そうか、それなら私は毎朝復活のいのちを頂いているんだ」と思ったのだそうです。「今日生きているのも当たり前のことではない。主に生かされているのだということを改めて知った」「私たちはすでに永遠のいのちを与えられているのだから、たとえ目覚めることができなくても、天で目覚めるんだから、これほど確かなことはないと感じるようになった」とも言っておられました。

 私たちは、毎日、朝を迎えるたびに新しいいのちに生かされている。この毎日いのちを与える主が、私たちの主であることを知るなら、どんな困難な状況に置かれたとしても、私たちの将来は闇に覆われるということはない。これが、私たちに与えられている信仰なのです。

 今日、私たちに与えられている聖書の御言葉は「百人隊長のしもべの癒し」と呼ばれる出来事です。

 みなさんも、さきほどの聖書朗読を聞かれて、いくつかの発見があったのではないでしょうか? マタイの福音書にも同じ出来事が記されていますが、この福音書を記したルカの書き方は少し違っています。マタイでは百人隊長と主イエスは直接語り合っています。しかし、このルカの福音書では百人隊長と、病のしもべは一度も姿を現していないのです。ところが、ここでクローズアップされているのは、この場にはいない百人隊長の信仰です。ルカはここで百人隊長をとりまく人々が、百人隊長をどう見ているかという、「証言」に焦点を当てていることが分かります。

 はじめに主イエスの前に現れるのは、百人隊長から遣わされたユダヤ人の長老たちです。長老たちは主イエスのもとに来て、こう言います。4節と5節です。

イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」

 百人隊長はユダヤ人ではありませんが、ユダヤ人たちを愛して、自分から会堂を建ててあげた人だという報告です。そういう立派な愛の人なので、主イエスに来ていただいて、癒しをしていただく資格がある人だと言ったのです。

 確かに、主イエスはこれまで平地の説教で、「あなたの敵を愛しなさい」と教えられました。その教えをまさに実践しているローマの百人隊長がいたというのですから驚きです。前回のところで、口先だけの信仰ではなく、しっかりと自分の生活の土台となるような信仰を求められた主は、ここで異邦人の中にそのような者がいると聞かされて興味を覚え、百人隊長のところに向かっていかれるのです。

 すると、百人隊長の家の近くまで来た時に、今度は百人隊長に遣わされた友人たちが登場します。この友人たちは主イエスにこう言います。6節の後半から8節です。

「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください。
と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」

 この百人隊長は驚くような言葉をここで発しています。まず、興味深いのは主イエスのもとに来たユダヤ人の長老たちは「そうしていただく資格がある人です」と言ったのですが、ここで友人たちは「私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。」と言っているところです。

 正反対の言葉です。長老たちの言葉は、長老たちから百人隊長の人となりを見て出た言葉ですが、この友人たちの言葉は百人隊長自身の言葉として紹介されていますので、私には主をお呼びたてする資格がないというのが、百人隊長の思いなのでしょう。

 そして、なぜそう思うのかということが続いて語られています。ここで明らかにされているのは、「あなたのお言葉には力があると信じている」という信仰の表明です。自分のような者にも、上から授けられた権威があって、その権威のもとで自分の言葉にも力があることを、毎日の職務の中で経験しているというのです。

 けれども、主イエスには、もっと上からの権威が与えられているはずで、その権威ある方が遣わされたお方があなた、主イエスです。ですから、あなたのお言葉には力があると私は信じているのですということをここで明らかにしているのです。

 主イエスは、この百人隊長の言葉に感心されました。9節で主イエスはこう言われました。

イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」

 主イエスは、自分の後ろについて来ている群衆に向かって、「今の話、聞いた?」と話しかけられたのです。とても印象的な描き方です。「すっげー」と言いながら感心している主イエスの姿が見えてきそうです。

 まさに、平地の説教を実践する者を主イエスは見出されたのです。

 ここには百人隊長も、その病のしもべも姿を現していません。主イエスと百人隊長を取り巻く人々との会話だけで物語が完結しています。この間で成り立っているのは、「言葉」のやりとりです。まさにこの「言葉」だけが出来事の中心となっています。

 ルカの福音書は、平地の説教の部分は「言葉」が大切で、ここは区分で言えば「奇跡」という区分になるわけです。言ってみれば言葉の実践です。けれども、その実践の中でも、やはり「主イエスの言葉」が中心にあるのです。

 信仰というのは、私たちの実践によって、表面に現れるものと考えがちです。私たちの行いが問われると考えます。けれども、ここで描き出されているのは、主の言葉の力そのものです。

 主イエスが褒められたのは百人隊長の「行い」、「行為」ではありませんでした。主イエスが目に留められたのは、その「信仰」です。信仰のあり方そのものです。

 百人隊長が示した信仰というのは「主イエスよ、来てください。そして、お言葉をください」ということでした。色々書かれていますが、肝心な部分はこれだけです。主の言葉に期待する心です。

 これは、2030年問題でも同じことです。「主よ、私たちのところに来てください。そして、お言葉をください」。主の言葉を期待する時に、そこに神の御業が起こるのです。

 神は、何もないところに「光よ、あれ!」と語られると、そこに光を生み出すことのできるお方なのです。このお方が、私たちの信じる主なのですから、私たちはこの言葉の主であられる神の言葉に期待するのです。これが、信仰です。

 今日の説教題を「共に見上げる信仰」としました。他の題でも良かったなと思うのですが、いつも説教をつくるまえに、説教題を暫定的につけますので、時々、内容と異なる場合があります。前日、週報を作成する時に最後の訂正をするチャンスがあるのですが、その時もまだ説教が完成しているわけではありません。昨日も、どうしようか迷った挙句、そのままにしました。私たちが見上げる信仰というのは、この神の言葉に期待する信仰だからです。いつも、私たちは心を高く上げて主を仰ぎ見、この主の言葉に期待するのです。

 私たちは、主なる神を見上げつつ、この主から神の言葉を頂きます。私たちの傍には主イエスが共にいてくださり、受け取ったみことばは、共に働かれる聖霊によって私たちに内在化します。すると、この神の言葉は、出来事となるのです。

 主の言葉を聞くこと。すべてはそこからです。はじめに言葉があったのです。この言葉は神と共にあり、この言葉にはいのちが宿っているのです。闇の中に光をもたらす力です。この言葉を受け取る時、百人隊長が信じたように、この言葉は出来事となるのです。

 今日の最後のところに記されています。10節です。

使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。

 私たちには、この神の言葉が語りかけられているのです。出来事となる神のみ言葉を、私たちは聞いているのです。

 お祈りをいたします。

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