2023 年 6 月 11 日

・説教 ルカの福音書7章11-17節「もう、泣かなくてもよい」

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2023.6.11

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は、ひとりのやもめの息子の死が描き出されています。この葬儀の時の出来事です。

 葬儀の際に遺族と対面する時、どんな慰めの言葉をかけたらよいのかという思いを抱かれる方は少なくないと思います。そんな中で、私たちは「おつらいでしょう」と声をかけたり、「泣きたいだけ泣いてください」という声をかけたりすることがあるかもしれません。死を前にして、人はもはや何もすることができないのです。そのあとは、死の悲しみをどのように克服していくか、乗り越えていくかです。けれども、死の悲しみを抱いている人に「くよくよしてもどうしようもない」と言ったとしたらどうでしょう。その言葉は決して慰めの言葉にはならないのです。

 ある人は、「死は私たちに諦めを要求する」と言いました。死の後からでは、人はいっさい手出しすることができないからです。もはや抗うすべがないのです。だからこそ、私たちは、身近な人の死を経験する時に、大きな悲しみを味わうのです。どうしようもないから悲しみを覚えるのです。誰にも、もはやどうすることもできません。そんな中で、私たちは神に慰めを見出そうとするのかもしれません。

 今日の聖書箇所は、百人隊長のしもべの癒しの出来事に続いて、ナインという町に主イエスがいかれた時のことが記されています。このナインで、ある母親の一人息子が死んで担ぎ出される場面に、主イエスたちは出くわしました。そして、主はこのやもめの息子をよみがえらせたのです。

 こういう奇跡の記された聖書を読むと、「なぜ主は今も生きて働いておられるお方なのに、今同じような出来事が起こらないのだろう」という思いが、どこかでよぎるのかもしれません。毎日の歩みの中でも、同じような思いを抱くことがあります。どうして、こんな悲しみを神さまは私に経験させるのかと思うことがあります。それは、死の悲しみにとどまらず、病を患うときも、困難な経験をする時も、あるいは自分の子どもに何か思いがけないことが起こるときも、そのように思うのだと思うのです。

 ここに出てくるやもめは、まさにそのような人物の代表ともいえる人でした。この人はすでに夫を亡くしていました。そして、自分の唯一の希望ともいえる一人息子がいたのですが、その息子がどういう理由かは分かりませんが、死んでしまったのです。

 この母親は泣きながら、子どもの亡骸が町の外へ運び出されるのに付き添っています。遺体を町の外に運び出すのは、町の外にお墓があるからです。そうすることで、人々は自分たちの生活の場所から、死を遠ざけるのです。悲しみを目の当たりにしないようにしているのです。

 主は、やもめだけではなく、一緒になって亡骸を運び出す町の人々にも目を留められました。大勢の人が、この悲しみの行列に連なる姿に、主イエスは目を留められました。その行列の中心には、悲しみにくれる母親の姿がありました。嘆きの行列を目にし、自分の息子が町の外へと追いやられていく母親の悲しみは、どれほど大きかったことでしょう。

 13節にこう記されています。

主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。

 主イエスは、まさに絶望を突きつける死の悲しみを目の当たりにしている人に向かって、「泣かなくてもよい」と声をかけられました。

 「泣かなくてもよい」というのは命令の言葉です。どこに、息子の死を噛み締めている母親に、「泣くな」と声をかける人があるでしょう。誰も、悲しみの人にこう声をかけることのできる人はいないと思える中で、主は「泣かなくともよい」と声をかけられたのです。

 「泣かなくてもよい」と言われたとき、そこに出てくる思いは、どうしてそう言えるのか? という理由なのだと思います。主が「泣かなくてもよい」と語りかけられるとき、何の理由もなく語られることはないはずです。主イエスの言葉は、口先だけの言葉ではないのです。主のこの言葉は、死の悲しみの涙を打ち破る力を持っているのです。

 ここに「深くあわれみ」という言葉があります。これは、ギリシャ語で「スプランクニゾマイ」という言葉で、聖書の中でも共観福音書にだけでてくる珍しい言葉です。このルカの福音書の中では3度だけ出てきます。この言葉は「腑(はらわた)が捩(よじ)れるような」という意味の言葉です。自分の内臓に痛みを伴うような思いを主は抱かれるのです。人ごとではないのです。このやもめの悲しみを、主イエスは自らの痛みとして担ってくださるのです。自分のことのように、心を痛めておられるのです。ここに、主の愛のお姿が描き出されています。

 主は棺のとろこまで行かれると、棺に触れて、言われます。14節の後半から15節です。

「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。

 主イエスはここで驚くような言葉を発せられました。「起きなさい」と言われたのです。すると死んだはずの若者が起き上がって、話し始めたのです。

 主はここで誰もが驚くような御業を行われました。この奇跡の御業は、この後に続く18節以下で、ヨハネの弟子たちが遣わされてきた時に、「おいでになるはずの方はあなたですか?」という問いが記されていますが、その問いに、先んじて主イエスが何者であるのかを明らかにしているわけです。

 イスラエルが待ち望んでいる「救い主」のしるしが、ここで明らかにされているのです。

 続く、16節では人々の反応が記されています。

人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。

 ここで「顧みてくださった」という言葉が出てきます。聖書の中によく出てくる言葉ですが、これはどういう意味なのでしょうか。

 この「顧みる」という言葉は「訪問する」とか「訪れる」とも訳される言葉です。ここでいえば「神が、訪問してくださる」という意味だということが分かります。このよみがえりの出来事を目の当たりにした人々は、神が、私たちのところを訪問してくださったと理解したわけです。この言葉を、ある人は「お忘れにならず」と訳しました。神が、訪ねてくださるというのは、神が私たちのことを忘れてはおられなかったという意味に理解したのです。

 この訪問するというのは、たとえば、病人のところに医者が訪問するというときも使われる言葉です。病院に入院された経験のある方は、そこでまるで誰も自分のことを気に留めてくれていないのではないかというような寂しさを感じることがあるのだと思うのですが、主は、そのような病の人を顧みてくださるお方なのです。お忘れになることなく、訪問してくださるお方なのです。それは、病の人を救うためにです。

 ここでは人々は「『神がご自分の民を顧みてくださった』と言って、神を崇めた。」とあります。民を顧みてくださったわけですから、このやもめひとりを顧みたわけではなく、イスラエルの民を神が忘れることなく、救い出すために訪ねてくださったという意味でもあります。

 この人々の告白は、まさに救いの神の御業を、人々が主イエスのなかに見たということです。

 主は悲しむ者に目を留めていてくださるお方です。ルカは、このやもめの信仰のことは少しも書いていません。主イエスを信じたら、奇跡が起こるというように書いているわけではありません。私たちは、そこで誤解をしてしまいがちです。信じたら、奇跡が起こるということをルカは描こうとしているのではなく、先行する神の恵みを描き出しているのです。

 神は、ご自分の民を目に留め、憐れんでくださるお方なのです。私たちが、悲しんでいるとき、私たちが、病の中にあるとき、私たちが不安な思いに支配されているとき、私たちが死の恐れの中にあるとき、私たちの主は、私たちをみていてくださって、私たちの痛みを、ご自分の痛みとして、私たちに寄り添ってくださるお方なのです。

 私たちに絶望を突きつける死は、私たちに「諦め」を突きつけてきます。何をやっても、無駄ではないか。結局人は死ぬのだ。死んだらすべてのことは意味がないのだと、私たちに思わせようとするのです。その前で、私たちはすべてを諦め、涙を流すしかなくなってしまうのです。

 しかし、主はその死の前に立ちはだかってくださるのです。「もう、泣かなくてもよい!」と。

 先日、一つの話を読みました。そこにこんな話が書かれていました。

 少し前の話ですが、あるところにひとりのやもめがいました。この人も、この聖書とおなじように一人息子がいたのですが、その息子を亡くしてしまったというのです。息子に病気が分かった時、この母親はできるかぎりのことをしようと、いろんな病院を訪ねたのですが、この病気は、今は治す方法がないと言われてしまったのだそうです。それで、この人の子どもは亡くなってしまったのです。

 その後、母親は気落ちして塞ぎ込んでしまい、何も手につかなくなってしまったのだそうです。すると、その人のところに、一人の人が来て、言いました。「働きなさい!」と。それを聞いていた人は、「何を無茶なことを言うのですか?」と言うのですが、この人はもう一度その母親に「働きなさい!」と言ったのです。

 そして、続けてこう言いました。

「死んでしまったのはあなたの息子ではなく、あなた自身だ!」と。「ただ泣いてばかりで、いなくなった息子のことで嘆いていて、そして何もしないで嘆き続けている。死んでいるのは他でもないあなた自身ではないか! 立ち上がって、働きなさい! 生きた者となりなさい!」

 そう言われた時、この母親はもう一度立ち上がって、生きることができるようになったというのです。

 ここで起こっているのは復活の出来事です。主イエスは、死がすべてを終わらせてしまうということに対して、立ち向かっておられます。ここで表されているのは、死はすべてを終わらせるものではなく、主イエスはその死に対しても、力を持っておられるお方であることを明らかにしておられるのです。

 主は、今私たちの周りの病の人や、死んでしまった人に対して何もできないお方ではありません。主にあって死は終わりではなく、主は死に打ち勝たれるお方であることをここで明らかにしておられます。

 主は言われるのです。「もう、泣かなくてもよい!」と。

 そして、「起きなさい!」と語りかけられるのです。

 主は生きがいを失ってしまっている者、悲しみに暮れている者、気力を失っている者に語りかけておられます。

 私たちの主は、私たちのことをよく見ておられるのです。そして、私たちが悲しむ時、私たちに対して、自らのことであるかのように心を痛めて、あわれみの心を示されるお方なのです。

 お祈りをいたします。

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