2023 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「祈りをおしえてください~主の祈り1」

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2023.12.24

鴨下直樹

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 クリスマスおめでとうございます。クリスマスにお生まれになられた主イエスの祝福が皆様の上にありますようお祈りします。

 今日は、クリスマス・イブです。でも、今は朝の礼拝なので、イブというのはなんだか変な感じがするかもしれません。みなさんは、今日の週報に待降節第四主日と書かれているので不思議に思われる方もあるかもしれません。

 「クリスマス・イブというのはクリスマスの前夜祭です」そんな説明が巷ではなされることがあります。そういう理解だと、今日のような24日の朝の礼拝が、待降節第四主日だということが分からなくなってしまうのかもしれません。

 当時のイスラエルの暦というのは、日が暮れたところから一日が始まるという理解があります。ですから、24日の夜に主イエスがお生まれになったと考えると、その日はすでにイスラエルの考え方では25日になったわけで、それで25日がクリスマスということになったのです。でも、私たちの暦では深夜の12時を過ぎてから日付が変わります。主イエスがお生まれになられた夜は、まだ24日ですから、24日の夜のことを「クリスマス・イブ」と言ったり、「聖夜」と言ったりするわけです。

 ですから、今朝のこの24日の礼拝は、厳密に言うと日が暮れていませんからクリスマス・イブではないことになります。なので、今朝は少しまだるっこしいのですが待降節第四主日という言い方になってしまうのです。

 先ほど、私たちはスキット(寸劇)で宿を探すヨセフとマリアの場面の聖書の物語を聞きました。人々が、長い間待ち望んでいたはずの救い主がお生まれになられるのに、実際にはそのことに誰も気づかなくて、マリアとヨセフは宿を見つけることができなかったのです。とても残念な出来事でした。

 今日の礼拝は、子どもたちも一緒にこうしてみ言葉を聞いています。この日の夜、サンタさんがクリスマスプレゼントを持ってきてくれることになっています。どうでしょう、子どものみなさんは、明日の朝、プレゼントが届いているのに、それに気づかないなんてことがあるでしょうか? もし気づかなかったら血眼になって探すかもしれないですね。
 
 私が小さかった時、小学生の低学年の時に、朝起きるとクリスマスプレゼントにセーターとくつ下が入っていたことがありました。そういう時代だったといえばそうなのかもしれませんが、子どもの私は、その事実を受け入れることができませんでした。欲しいものが沢山あったのに、よりによってセーター? くつ下? 弟も姉も、その年は同じような衣類で、微妙な顔をしていました。もう記憶があまりないのですが、たぶん両親に泣いて抗議したのだと思います。でも、もうプレゼントは届いてしまっているわけで、返品も交換もできません。

 願い事というのは、強ければ強いほど、それが実現した時には、「願ったものはこんなものではない」という思いが強くなるのかもしれません。

 旧約聖書の時代から、神の民であるイスラエルの人々は救い主が与えられることを願い、祈り続けて来ました。そして、待ちに待った救い主が、この夜にお生まれになられました。今は、世界中でこのクリスマスのお祝いをしています。救い主イエス・キリストのことをよく知らない人でさえ、このクリスマスをお祝いしています。

 けれども、お生まれになられた時は、誰もマリアのお腹に神の御子であられる救い主が宿っておられるとは気づきませんでした。それこそ、どこにも身重のマリアを泊める家もないほどに、無関心だったのです。あんなに楽しみにして、長い間たくさんの人たちがお祈りしてきたのに、ちょっとびっくりしてしまいます。

 今日から、私たちは主の祈りのみ言葉に耳を傾けようとしています。ここには、主イエスが教えられた祈りが記されています。主イエスの弟子たちも、祈りを知らなかったわけではないと思うのです。けれども、主イエスの祈る姿をこれまで何度も見てきて、自分たちの祈りと、主イエスの祈りは決定的に何かが違うと思ったのだと思うのです。それで、祈りを教えて欲しいと主イエスに願いました。

 子どもも、大人もそうですけれども、私たちはお祈りをする時に、はじめはどう祈っていいかよく分かりません。だから、誰かにお祈りを教えてもらいます。あるいは、他の人のお祈りを聞いて、その真似をするかもしれません。

 自分でお祈りをしたいと思うようになる時に、その心の中に抱いているのは「憧れ」です。自分もあんな風に祈りたいという思いが、私たちの祈りを豊かなものにしてくれます。

 この弟子たちの願いに対して、主イエスは祈りを教えてくださいました。これから、何週かに分けて少しずつ、この祈りの言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 今日は短い説教にしたいと思っていますので、できるだけ難しい話をしないようにと思っていますが、ここで主イエスが教えられた祈りは、ほとんどが「願い求め」「祈願」の祈りだということに気づきます。もちろん、聖書をよく読んでみると、自分自身の願い事というわけではないのですが、願い求めが祈りの基本なのだということがここからもよく分かると思います。「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください・・・」どれもお願いの祈りばかりが続くのです。

 私たちには、いろんな願い事があります。それこそ、クリスマスプレゼントに代表されるような、こういうプレゼントが欲しいというのも、願いごとです。けれども、最初に話したように、願いが強ければ強いほど、それが実現した時のイメージも私たちの頭の中ではどんどんリアルになっていくのだと思うのです。

 そして、神様がその祈りに応えてくださっているのに、祈りの答えであると気づかないことがあるようです。そのことに私たちは注目する必要があるのだと思います。これは、いつも祈りの話をする時にお話ししていることでもありますが、私たちはどこまでも「自分の願い」「希望」というものに固執してしまいやすいのです。けれども、そうなると、「神の御思いが何であるか」ということが、分からなくなってしまうのです。

 弟子たちが、主イエスに祈りを教えて欲しいと思ったのも、実にこの部分が、自分たちの祈りと違うのではないかと感じたからではなかったでしょうか。

 弟子たちは、これまでに何度も主イエスの祈る姿を見て来ました。そして、ついに、「祈りを教えて欲しい」という願いにまで繋がったのは、自分たちの知っている祈りと、主イエスの祈りの世界に違いがあったからです。

 先日、各務原イオンに行きました。すると、小さな子どもがおもちゃ売り場で大きな声で「これ買って!」と両親に訴えています。でも、両親は聞こえないふりをして、どんどん先に進んでいってしまいます。子どもはそれでも諦めないで、さらに大きな声で「お母さん、これ欲しい!」と訴えます。こうなると、子どもと親との戦いです。子どもたちは、何度かそういうことをした記憶があるのではないでしょうか。

 私たちの祈りは、これに似ているのかもしれません。もちろん、そういう訴えの祈りの姿も、可愛いものですし、そういう祈りがダメというわけではありません。親子でも、そういう時代があって、良い信頼関係が築き上げられていくのです。

 そして、子どもが成長していくと、落ち着いた話をすることができるようになります。自分の願いばかりを訴えるのではなくて、親のことも気遣うことができるようになるものです。大人はそんな日がくることをどこかで心待ちにしています。

 祈りというのは、神様との対話です。そして、主イエスご自身もまた、父なる神との交わりに生きているのです。父との祈りを楽しんでいるのです。それは実に、豊かな良い時間なのです。弟子たちは、そんな素敵な主イエスの祈りの姿をみると、自分の願い求めばかりの祈りと何かが違うなと、主イエスの父と子の交わりの豊かな姿に憧れを抱いたのです。

 主イエスの祈りの姿は、まさに完全な理想的な親子の対話の姿であったに違いありません。そこには深い愛の結びつきが見られます。他者を寄せ付けないような、密接した関係が、主の祈りの姿の中で見られたに違いないのです。

 私たちにはそのような聖なる交わりが、賜物として与えられています。それが祈りです。父なる神に祈ることができること自体が、私たちに与えられている祝福であり、恵みなのです。私たちの父であられる神は、私たちとそんな豊かな交わりができることを心待ちにしておられるのです。

 私たちもそのような深い信頼を、主との間に築き上げていきたいと思うのです。このお方は、子どもである私たちに良いものをくださらないはずがないのです。

 今日は、クリスマスをお祝いする礼拝の時です。私たちは、この日、長い間神の民であるイスラエルの人々がお祈りをしてきたことを思い起こします。そして、その祈りが実現したことを思い起こすのです。はじめは誰も気づきませんでしたが、だんだんと気づくようになり、今では世界中の人たちがこのクリスマスの意味を知っています。神は、私たちの祈りを忘れていないことが、このクリスマスに世界中に知らされたのです。

 そして、子どもたちはそのことを忘れないようにと、プレゼントが届けられるのです。それは、とても素敵なことです。まさに、私たちへの神様からの贈り物です。

 お祈りをする。それは、お祈りに耳を傾けてくださり、私たちに心を向けてくださる神がおられることを覚える時です。祈りは私たちにとってなくてならない大切な時間です。神様との交わりの時なのです。

 私たちの主なる神様は、私たちとゆっくりとした豊かな時間をともに過ごしたいと願っておられるお方です。このお方と、私たちは心からの時間を祈りの中で過ごしていきたいのです。

 お祈りをいたします。

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