・説教 ルカの福音書10章38-42節「マルタへの福音」
2023.12.17
鴨下直樹
⇒ 説教音声のみの再生はこちら
何年か前のことです。誰と話したのかあまり覚えていないのですが、その方は、「私はこのマリヤとマルタの話が嫌いです」と言われました。その言葉だけが私の耳に残っています。「一所懸命奉仕をして、もてなしているのに、これではマルタが浮かばれない」ということのようでした。
反対に、この話が大好きですという方も何人かあるのだと思います。よく知られた話です。私自身も、聖書の話ということとは関係なく、「どちらが正しくて、どちらかが間違っている」と一方的に断罪される話はあまり好きではありません。そのどちらにも言い分というものがあると思うからです。
実際どうだったのでしょう。マルタはこの時、主イエスに咎められて胸が締め付けられたのではなかったか。「どうして自分ばかりが損な役回りをしなければならないのか」そんな思いが心の中に浮かんできたのではないかと思うのです。
私たちの周りには理不尽な出来事というのはいくらでも存在します。私たちはこの「理不尽さ」というものに対して、子どもの頃から立ち向かって生きていると言っても言い過ぎではないと思うのです。細かな例を上げなくても、みなさんも心の中にいくつも浮かんでくるのではないでしょうか?
そんな時、私たちは理不尽さに対して憤りを覚えたり、心をすり減らしたりしながら耐えている。職場でも、家の中でも、地域の中でも、この理不尽さというものは存在するのです。
マルタの家に主イエスたち一行がやってまいりました。前の話の流れからすれば72人という大所帯です。もし主イエスと12人の弟子たちだけであったとしても13人いますから、もてなす方としてはかなり大変だということは想像できます。
前のところで、主イエスが律法学者のシモンの家を訪ねたときには、ここでは「あなたは足を洗う水をくれなかった」と言われています。そんな主イエスの言葉を耳にしていたとすれば、弟子たちの足を洗う水の準備だけでも大変だったと思うのです。今のように水道のある世界ではありません。もし72人もいたと考えると、考えるだけでも恐ろしいことです。
今の日本のようにお茶を出す習慣があったとは思いませんが、手を洗う水や、飲み水の準備もあったかもしれません。弟子たちを座らせるだけでも、一苦労だったに違いないのです。
そして、気づくと、おそらく妹だと思うのですがマリアを見ると、弟子たちと一緒になって腰を下ろしている。
私がマルタでも、マリアに一言言ってやりたい気持ちになるのは当然のことです。もちろん、マルタにも良くないところがあります。せめてマリアの耳元で「ちょっと大変だから手伝って!」と言えばよかったことを、こともあろうに主イエスに当たるかのように言ってしまいました。
先日の水曜と木曜の祈祷会でもかなり賑やかな議論になりました。ある方は「ワシならマルタの方がいいけどなぁ」と言っておられました。私が「どうしてそう思うんですか?」と尋ねると、「そうでなければワシがやらないかんやろ!」というわけです。もうこの時点でどなたが言われたのか想像できるかもしれませんが・・・
ただ、その方も「このマルタがここでしたことはいただけない」と言っておられました。みんなの面前でマリアを晒し者にするような言い方はちょっと問題だというのです。
もちろん、こう言いたくもなるマルタの気持ちはよく理解できます。
先日の祈祷会でも少しお話ししたのですが、「共観福音書の社会科学的注解」という、社会科学者が書いた聖書の解説書があります。これはいわゆる聖書学者がギリシャ語ではこういう意味でという解説をするものではなくて、当時の社会がどういう生活をしていたのかに目を向けながら、聖書の解釈を手助けしてくれるものです。
これによると、この時代のパレスチナというのは、男性と女性の役割が明確に区別されていて、特に未婚の女性は男性の前にはそもそも出て行かないものだというのです。家の中でも、男と女が顔を合わせるのは食事の時くらいだと書かれていました。ただ、食事のときには、女性たちはさまざまな準備をする必要があります。そう考えると、マリアの方は男のように振る舞っていたことになるわけで、問題があったのはマリアの方であったことは間違いないのです。
いつも祈祷会の時は、できるだけ一節ずつ丁寧に御言葉を一緒に考えていきます。いつもそうなのですが、先日はかなりみなさんが張り切って発言してくださったので、私が口を挟む余地がないほど盛り上がったのですが、いろんな意見が出れば出るほど、私は細かく説明をすることになります。そうすると、手の内を全部見せるしかないわけで、できるだけ説教まで言わないようにしておく話も、答えないわけにはいかなくなります。あまり話し過ぎますと、説教で聞いたときに新鮮味がなくなるので、どこまで話すかというのが難しいところです。
先週の祈祷会でも話したのですが、今日のマリアとマルタの話は、先週の「隣人を愛する」、「隣人となる」という話の続きで記されているところです。ですから、当然のように、私たちは隣人を大切にするという視点をもったままで、この物語に目を通すことになるわけです。そういう視点で考えてみると、マルタという女性はまったく自分のことを度外視して、主イエスと、主イエスの弟子たちに対して、この隣人愛を実践している人ということが分かるわけです。
ところが、そのマルタに対して主はこう言われたのです。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
マルタはこう言われたときに何を感じたでしょうか。特に気になるのは、この41節の「心を乱しています」という言葉です。この言葉は「混乱する」とか「パニックになる」という意味の言葉です。もともとの言葉の意味は「騒音」という言葉の派生で、「騒音に悩む」ということになります。心にいろんな声が聞こえてくるのです。「あれをした方がいい」「きっとこうしないと誰かが何か文句を言うかもしれない」「あの人にはこうした方がいい」いろんな音が頭の中で鳴り響くのです。
私たちはこういう主イエスの言葉を読むと、主に忠告されてしまったマルタは間違ったのだと読んでしまいがちです。ここの説教をいくつも読みましたが、そのほとんどがマルタは間違ったのだというものばかりです。マリアのようになるべきだ。だから、御言葉を第一にしましょう。礼拝が一番大切です。そういう説教がここからなされてきたのです。
けれども、それらは福音ではありません。それは単なる教訓です。戒めです。こうするべきだと言うのは、簡単なのです。どちらかが悪くて、どちらかが正しいのだという判断は誰だってできます。
けれども、主はここでせわしなく働き通しのマルタを叱りたかったとは、私にはどうしても思えないのです。マルタはここで「あなたは心を乱しています」と言われたとき、どう思ったのでしょう。
あなたはその心の中にいろんな音が聞こえてきているのでしょう。その騒音があなたを苦しめてきたに違いない。けれども、大切なことは一つです。マリアは良い方を選んだのです。そう聞いたときに、マルタはそれまで頭の中で鳴り響いていた様々な思い、あれもしなければいけない、これもするべきだという思いから、一気に解放されたのではないでしょうか。
主は、もてなすことが必要ないと言いたいわけではないと思うのです。ここで心が潰れるほどになっているマルタに対して、優先順位が何か、ということを整理してあげたに違いないのです。
「あなたの頭の中で今、いろんな騒音が鳴り響いているみたいだね」でも、「必要なことは一つだけだから」そう言われたのです。
これは、マルタが聞き取った主からの福音の言葉であったに違いないのです。
今、教会はクリスマスシーズンを迎えています。さまざまなクリスマスの集会の準備があります。けれどもそれだけでなくて、年末を迎えているわけで、正月を迎える前に、家を掃除しなくてはいけないし、あの仕事もやり終えておかなくてはいけないし、今年の正月は子どもたちが孫を連れて帰ってくるし、あれもやっておきたい、このことも終わらせておきたい。いろんな声が私たちの頭の中で鳴り響くのです。
「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
この主イエスの言葉は、私たちへの福音の響きを持つ言葉なのです。それは、私たちが何を優先すべきか、そのことを私たちに教えてくれるのです。優先順位が整理されると、私たちはすべき順序を整理して、落ち着いてそれに取り組むことができます。主の聖霊が私たちの心の中を支配するようになるからです。そして、主の言葉を聞くときに、私たちの心は、主を知る喜びで満たされるようになり、心から喜んで隣人を愛することができるようにと備えられていくのです。
インプットがなければ、アウトプットが出来ません。アウトプットばかりを求められ続けては、私たちはいつか枯渇してしまうのです。そのために、まず大切な優先順序は、主の言葉を心の中に蓄えることなのです。それを自信をもってしたらよい、周りの声に押しつぶされず、堂々としたらよい。そうしたら、私たちは私たちの周りの人を、豊かに心から愛することができるようになるからです。
主はここでマルタを取り扱っておられます。そして、マルタのような心配りをする一人一人に語りかけておられます。
いろいろな声に支配されることはない、まず大切なことは神様の言葉を安心して受け取りなさいと。これが、マルタに語りかけておられる主の福音なのです。私たちが御言葉に耳を傾け、主の心を知るとき、私たちの心は満たされて、隣人に心を向けることのできる愛を獲得することになるのです。
主の福音を聞き取ること。このことが、常に私たちの優先順位の一番上にあるのです。
お祈りをいたしましょう。