2023 年 12 月 10 日

・説教 ルカの福音書10章25-37節「隣人となる愛」

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2023.12.10

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は「善きサマリア人のたとえ」と呼ばれるところです。ルカの福音書の譬え話の中でもよく知られた譬え話です。

 内容は、お聞きいただければよく分かると思います。隣人を愛することとはどういうことなのかが、記されています。しかも、この譬え話は、イメージしやすい物語として語られています。ここに出てくるサマリア人というのは、ユダヤ人たちとはあまり仲が良くありません。言ってみれば敵対関係にあるような、そんな民族同士の争いを抱えている間柄です。そして、この物語の主人公となるサマリア人は、まったく偶発的に、この出来事に巻き込まれていくわけで、隣人を愛そうと思って、愛の業を行ったという話ではないのです。

 こういう話を私たちが読む時に、どうしても考えてしまうのは、どうしたら私たちは隣人に親切にできるようになるだろうかということです。道徳の教科書でも読むかのようにして、この譬え話から、「教訓」を導き出そうとしてしまうのです。けれども、私たちはそういう聖書の読み方を、一度立ち止まってよく考えてみる必要があります。

 このような出来事は、私たちの周りにはいくらでもあります。そして、私たちはこういう出来事を経験する時に、いわゆる「建前」としては、何をどうしたら良いかということは、よく分かります。けれども、「実際のところ」あるいは「本音」では、それができないということに直面させられるのです。

 先日、ある牧師から連絡をいただきまして、今、拘置所にいる方が教会に手紙を書いてきて、コンタクトを取りたいと言ってきているというのです。自分は対応できないので、岐阜県のキリスト教会の教誨師の方を紹介して欲しいということでした。拘置所にいるということは、今裁判中ということのようです。私はその話を伺って、教誨師を紹介しました。ところが、その教誨師は現在、病気の治療中であり、また自分は日本人ではないので手紙でコンタクトを取ることが難しいという返事が返ってきたということでした。あとでこの牧師から直接お話を伺ったのですが、刑務所にいる受刑者の方への教誨師の働きはされておられたのですが、裁判中の拘置者と連絡を取ることは困難だというご事情があったようでした。

 私はその話を聞きながら、このサマリア人の譬え話の、祭司やレビ人と同じことが起こっているなと感じるわけです。今困っている人を助けたいという気持ちはあるけれども、いろんな事情があって助けることができないのです。きっとこの譬え話に出てきた祭司やレビ人にだって、説明のつく助けられない事情があったのです。

 一方で、やはり助けてやるべきではないか、という思いがないわけではありません。けれども、そう思うと同時に、この話の相談を受けた私自身の中にも、この牧師はその立場にいるからやるべきだけれども、その時に私自身はどこか外からそれを眺められる所に立っているのだということもまた、考えさせられてしまうのです。

 結果としてどうなったのかというと、はじめに連絡をしてきてくださった牧師が直接対応されることになったようです。私も、何かあればコンタクトを取りますと昨日お伝えしたところでした。

 私たちは、「建前」では、何をすることが良いことなのかということは、誰でもある程度理解できます。けれども、実際にそれを行う時の難しさというものをどうしても意識せざるを得ないのです。

 最近は、こうした、他人に対し「建前の善い行いを要求する行為」のことを、「モラルハラスメント」と言います。この「善きサマリア人のたとえ」も、下手をすれば、この「モラルハラスメント」になる可能性もあるのだと私は思います。

「隣人を愛しさない。聖書にそう書いてあるのだから、やるべきです」そのように言うのは簡単ですが、実際に行うのは簡単なことではないのです。

 そして、私たちが特に気をつけなければならないのは、教会こそが、自分を正しいところに置いて、人を非難する場所になりやすいということです。私たちはそのことを意識していなければならないのです。

 今、私は東海聖書神学塾で、組織神学の「救済論」を教えています。先日は「全的堕落」というテーマについて、神学生たちと一緒に考えました。この「全的堕落」というのは、私たちは神様を知らない状態の時には、神様の喜ばれる善を行うことができないということを意味しています。ではクリスチャンではない人は完全に悪魔のような存在なのかというと、そうではありません。人に親切にすることもできますし、優しさや、愛情というものを持っています。ですから、この全的堕落という言葉は、人が完全に堕落しているという意味ではないわけです。そうではなくて、すべての面で、神様を喜ばせることができないという、人の罪の性質のことを言い表している言葉が、この「全的堕落」という言葉です。

 つまり、今日の聖書箇所で言う、「善きサマリア人」のこの「善き」という「善」というのは、人間の力や、思いの力で何とかすることのできるものでないのです。そんな話を先日の講義でしました。

 すると、その講義の中である神学生の方が、こんな話をしました。「自分の教会では洗礼を受ける前に、ある程度ちゃんとした行いができるようになっていないと、まだあの人が洗礼を受けるのは早すぎる。ちゃんと礼拝を休まず来れるようになって、献金を捧げられるようになって、ちゃんと奉仕ができるようになって、ある程度のラインに達してからでないと、洗礼を受けさせてはならないのだ、という役員がいるんです」という話でした。この「全的堕落」ということがあまり理解できていないというのが、その質問の意図でした。

 こういったことはきっとどの教会でも起こりうるテーマだなと思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?

 そこでも、私たちが心の中で考えてしまうのは、「その役員さんの言うことは当たり前だ」と思ったり、「それは厳しすぎる」と思ったり、いろんな反応が出てくるのだと思います。「ああするべき」「こうするべき」といろんな議論をすることは可能だと思うのです。ただ、そこで私がその時に神学生に話したのは、「そういう判断のどこに福音がありますか?」ということでした。

 私は、この聖書の箇所の説教をいくつも読みました。その全部とはいいませんが、いくつかの書物を読んでいると、「あなたもそれを実行しましょう」というお勧めの説教が多くて、福音の響きを感じられないものがあるのです。どうしても、「建前」の信仰になってしまいやすいのです。

 そもそも、この問いを主イエスにもたらした「律法の専門家」は、どんな思いで、主イエスの前にこの問いを持ってきたのだろうかと考えさせられます。25節。

さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」

 このように問いかけています。実はこの25節だけで一回の説教ができそうな思いでいるのですが、できるだけ難しい議論を避けて、簡潔に話したいと思います。

 まずここで、律法の専門家がどうしてここに登場してきたのかという、ルカの意図を考えてみる必要があります。そうすると見えてくることは、この前の場面で72人の弟子たちが伝道に派遣されて帰ってきた時に、主イエスは弟子たちに「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われ、これらのことは「知恵ある者や賢い者には隠して」と言っておられます。

 聖霊が与えられた者でなければ、主のお許しなしには、信仰に至ることができないことを、このところで主は明らかになさいました。その流れで、知恵のある者、賢い者の代表者として、その後の今日の箇所で「律法の専門家」が登場してきているわけです。

 ですから、ルカとしてはこの人を「分かったつもりになっているけれども分かっていない人」の代表みたいな立場で描き出そうとしていることが分かります。

 この人は、主イエスを試そうとしています。どうしたら永遠のいのちを受け継ぐことができますか? というのはとても大切な問いかけですが、この律法学者は、自分は分かっている側の人間として、主イエスに問いかけているのです。

 では、ここでこの律法学者が問いかけている永遠のいのちを受け継ぐというのは、どういうことのなのでしょうか。

 難しい議論はやめて結論を先に言ってしまうと、ここで尋ねている「永遠のいのち」というのは、「神の国で生きる」という意味です。私たちはこの「永遠のいのち」という言葉を、どうしても「永遠に生きる」とか、「死に支配されないいのち」と考えてしまいがちです。旧約聖書には「永遠のいのち」という言葉は出てきません。ただ、天地創造の出来事の後で、アダムとエバが罪を犯して、エデンの園から追い出された時、創世記の3章22節で「いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」と書かれています。それらしい聖書箇所はここだけと言ってもいいと思います。

 そこで聖書が語っているのは、この時から人は永遠に生きることが許されていないということです。ここから、旧約聖書では人が永遠に生きるという考え方は描かれていないのですが、新約になって神の国が語られるようになった時に、この意味がもう一度回復することになります。私たちが主イエスの語る「神の国の福音」を受け入れた時に、人はこの神の支配の中で生きるようになるのです。これを「永遠のいのちを得る」と言うのですが、結果として神の支配の中に生きることは、もう一度あの「エデンの園」の状態、「神の国」に生きることができるようになるということが、意図されているのです。ですから、直接的には、「永遠のいのち」は「死なない」とか「永遠に生きる」という意味ではないのですが、結果としては「神に支配されたいのち」は、神の前での死は、もう乗り越えられていて、神のいのちに生きるものとなったと言うことができるわけです。

 ここで、今日の聖書箇所のテーマである「隣人愛」に話を戻していきたいと思います。

 「永遠のいのちを受け継ぐ」ということが、どうして「隣人を愛する」というテーマになるのでしょうか。そもそも、この問いで主イエスが、律法にはどう書いてありますかと尋ねた時に、律法の専門家は二つの答えをします。この一つは、「主を愛すること」です。そして、もう一つの答えが「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。二番目の答えには二つの意味があります。それは「自分を愛すること」と、「隣人を愛すること」です。

 つまり、「神を愛すること」、「自分を愛すること」、そして「隣人を愛すること」の三つのことが語られています。そして、主イエスはここで、この律法の専門家の言ったことを実行するようにと言いました。

 ところが律法の専門家は、さらに自分が正しいことを示そうとして、もう一つの質問を投げかけます。「では、私の隣人とはだれですか」と問いかけたのです。何を思ってこの問いかけをしたのかと思うのですが、結果として、この問いのおかげで、私たちは「善きサマリア人のたとえ」を聞くことができるのです。

 ここでもう一度この譬え話の内容を繰り返すことはしませんが、ここで主イエスは隣人とは誰かと言う問いに答えていきます。そして、この主イエスの問いで明らかになったのは、主イエスが考えておられる隣人というのは、同胞のユダヤ人のことや、家族や親戚、あるいは向こう三軒両隣というお隣さんのことではなくて、まったく偶発的な出会いをした、敵のような関係の人とだって「隣人になれる」ということを明らかになさったのでした。

 最後の36節で主イエスが「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と問いかけておられます。律法学者は「隣人というのは、この人たちのことですよ」という答えを想定していたと思うのですが、それよりももっと大きな答えが返ってきたのです。

 私たちがここで、もう一度振り返って考える必要があるのは、私たちはどのようにして「神の国の福音」を知るようになったのかということです。「神の国の福音」というのは、私たちに、その福音を届けてくれた人が必ずいるはずなのです。「永遠のいのち」というのは「神の国に生きる」ということだとすれば、「神の国の福音」を知らないままで、神の国、神の支配の中で生きることはできません。

 私たちはきっと一人一人、誰もが教会に導かれてきた経緯は違うはずです。そこで、福音を牧師から聞いたのか、友達や家族から聞いたのか、あるいは、特別な講演で聞いたのかは分かりませんが、そういった人たちを通して私たちは神を知るようになったはずです。そして、その時、私たちは神があなたのことに心を向けておられるということに、気づくようになったのです。私たちはその時に、神の愛を受け取りました。そしてその時、聖霊が私たちの心の中に働くようになったのです。自分が神に愛されていること、神に受け入れられていることを信じて、受け入れるようになったのです。こうして、私たちの中に信仰が与えられました。

 この時、私たちは「全的堕落」の状態から、恵みを受けたことによって変えられて、神の愛を知って新しく生きる者となったのです。ここで、はじめて私たちは「善い」ことを行うことができるようにされたのです。神が喜んでくださることを行うことができるようになったのです。これが、ここで語られている「福音」です。神が、私たちの隣人となってくださって、愛を届けてくださったので、堕落していたはずの私たちは、神の思いを知ることができるように変えられたのです。

 そうして、私たちは神に支配されて、神のいのちをいただいて生きることができるようになりました。ただ、確かに、私たちは主によって堕落した存在から変えていただいたのですが、いきなり完璧にできるようになるわけではありません。ここからは、一人一人その人のペースで変えられていくことになります。そして、その歩みが、神を愛すること、自分を愛すること、隣人を愛する歩みへとなっていくのです。

 「完璧に隣人を愛することができるようにならなければならない」などということではないし、「ある程度できるようになる必要がある」ということでもないはずなのです。私たちは完全に堕落した、善いことを行うことができない者だったわけですから、急には変われません。一歩ずつ、少しずつです。けれども、どうなることがゴールなのかということは、私たちは知っておく必要があります。それが、この善きサマリア人のようになっていくのですという、見本なのです。見本がなければ、私たちは「どう行うのか」ということですら分からない者なのです。それなのに、自分は全部分かっているとなってしまうと、ここに出てくる律法学者のようになってしまうことにもなるのです。

 主は私たちに、私たちがどのように歩んでいくことを主が望んでおられるのかを、こうして譬え話を通して、示し、教えてくださいました。そうして、私たちは分かったように、教えられたように、歩んでいくことになるのです。

 そこで大切なのは、私たちは神を通して隣人が与えられていて、その隣人から、主が私たちの隣人となってくださっているという事実に目を留めることです。主が、私たちを受け入れてくださっているというこの素晴らしい神の愛の業を受けとめることです。このことを知るならば、私たちも誰かの隣人になることができるようになるのです。

 私たちは、自分がしてもらったように、人にもするのです。けれども、自分がしてもらったことに気づいていないなら、それを行おうとするとどうしても頑張らなければならなくなって、義務的になって、強制的に感じてしまいます。そして、人へのモラルハラスメントを行うようにもなってしまうのです。

 まず、主が「私」を、「あなた」を受け入れてくださいました。私たちはこのことを、私たちの周りを通して、知るようにされました。主が私たちの隣人となってくださったことを知るのです。そして、私たちはこの事実、この福音を受け取る時に、私たちもまた、誰かの隣人となることができるのです。

 お祈りをいたします。

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