2024 年 1 月 7 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「祈りの呼びかけ、父よ!~主の祈り2」

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2024.1.7

鴨下直樹

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「祈りとは天と地が口づけするようなものである」

 私がこの言葉を耳にしたのは、北海道に向かうフェリーの中でした。もう20年ほど前のことになるでしょうか。教団の学生キャンプを北海道で行ったことがあります。その時のテーマは「主の祈りを学ぶ」というものでした。その中でこの言葉を私に教えてくださったのは、芥見教会の前任の浅野直樹牧師でした。

 フェリーに乗って京都の舞鶴港を出て、日本海から北海道の函館を目指します。1日半の船旅ですが、甲板に出ても見えるのは、ひたすら海と水平線です。その水平線を見ながら、「祈りとは天と地が口づけするようなもの」との言葉を耳にしたのです。私の心の中に、深くその言葉が刻まれました。

 天と地を結びつけるもの。私たちは普段、地平線も水平線も見えないような山際に住んでいます。目に入るのは建物であり、山で遮られた世界です。それはそれで味わいがありますが、天と地が結びつくイメージはなかなか描けません。祈りとは天と地を結びつけるものだというのです。

 私たちがこの地上から祈りを捧げる時、それは天と繋がりを持つ。もっと言えば、祈りだけが、天と地を結びつけるものなのです。

 この時、主はこの祈りを教える中で、「父よ」と呼びかけています。この天地を創造されたお方を父と呼ぶ。これが、天と地を結びつける祈りの呼びかけです。神は、私たちの父である。この呼びかけが、天と地を結びつけるのです。

 この「父よ」との呼びかけは、主イエスの弟子たちにとって驚きであったに違いありません。神は、「ヤハウェ」という名を持っています。けれども、この神の御名は軽々しく口にして良いものではありませんでした。十戒で、「主の御名をみだりに唱えてはならない」と戒められているほどです。それで、「主」(アドナイ)という言葉を代わりに使ったのです。

 しかも、この父よという呼びかけは「アバ」という呼びかけでした。「アバ」というのは幼児語です。生まれた赤ちゃんが最初に口にする言葉であるとも言われています。そんな誰もが使うような言葉で、畏れ多い神に呼びかけるようにと、主イエスは教えられたのです。

 子どもが生まれて、それまで「オギャー」と泣いていた赤ちゃんが、ある時から「ママ」と呼び「パパ」と呼ぶようになる。これは親にとっては感動の経験です。子どもを得て、最初の感動と呼べるものかもしれません。この赤ちゃんは、この子どもは自分の子であるという感動が、この呼びかけにはあるのです。

 そして、驚くのは父なる神ご自身が、そのように呼びかけられることを願っておられるのだという事実です。「御名をみだりに唱えてはならない」という戒めから受ける印象とは、まるで真逆な印象を受けるのではないでしょうか。

 神を父と呼ぶということは、私たちは神の子どもであるということです。そして、父である神は、子どもの発する言葉、子どもの祈りには心を向けざるを得ないという、強い親子の絆がここで意図されています。

 そこでは親子の信頼関係が描き出されています。ここで求められているのは特別難しいことではありません。子どもが親への信頼を表す。それだけのことです。そうすることで、神との関係が回復するのです。私たちは父よと祈ることを通して、父にすべてを委ねる子どものような心を取り戻すのです。

 私たちは、祈る時に、神に向かって「お父さん」と呼ぶことができる。呼ぶことが許されている。そんな単純なことなのですが、その背後には、とても大きな愛情が詰まっているのです。

 私たちがドイツに行った時に、お世話になった方でウルスラーさんという方がいました。私の母くらいの年齢の女性です。この方は、私たちがドイツに着いたばかりの時に、初めてうちを訪問してくださった方でした。その最初の訪問の時に、マジパンで作った見事な赤いバラの乗った大きなケーキを焼いてきてくださいました。そして、ウルスラーさんが私たちにこう言ったのです。「ドイツに来て、色々心細いことがあるでしょう。何か困ったことがあったら、私のことをドイツのママだと思って、なんでも言いなさい」と。

 どれほど、その心づかいが嬉しかったか、まだ知り合いもいない来たばかりの土地で、この言葉は私たち夫婦がドイツで生きていくための足がかりになりました。

 主イエスがこの祈りで、神のことを父と呼ぶようにというのは、まさにこのことなのです。闇の支配するこの世界の中で、私たちにはこの天地を創造された方を神と崇めることができる。その神はどこか遠くにいる、よく分からないお方なのではなくて、私たちのすぐそばで、何かあったらすぐに声をかけてくれれば何でも助けるからと言ってくださる「父なる神」なのです。「アバ」「パパ」「ダディー」「父ちゃん」というような気軽さで声をかけることができるお方なのです。

 そこにあるのは、愛の交わりです。神との関係の回復です。私たちのそばにいてくださるお方が、私たちが祈るお方なのです。

 私たちは、このお正月に大きな地震を経験しました。この辺りでも震度3の大きな揺れがありました。石川県では最大震度7、マグニチュード7.6という大きなものでした。すでにこの一週間で亡くなった人は100人を超え、今も行方不明の方が200人以上いると言われています。今も多くの方が避難生活を強いられています。

 先週の金曜日にキリスト教の各地区の災害対策担当の方々の代表が集まるキリスト全国災害ネットの会議が行われました。そこで、100名ほどの各団体の代表の方々集まって現在の被災状況の確認や、今後の支援について話し合われたようです。

 みなさんも石川県の震災のことを、心を痛めながら、お祈りしてくださっていることと思います。その会議で現地の方々から現状の報告がなされたそうです。その報告によると、現在はまだ瓦礫の撤去と同時に行方不明の方の捜索が優先で、一般のボランティアなどはやがて必要になるけれども、今の時点では受け入れていないとのことでした。私たちとしても、今できることは祈ることと、支援金を集めること、この2つが今の時点でできることです。

 ただ、私たちには祈ることができるというのは、クリスチャンの大きな恵みです。私たちの主なる神は、私たちが祈ることを求めておられるお方なのです。

「父よ」という祈りの呼びかけは、父なる神が私たちの命の根源であり、私たちの保護者、守り手であり、私たちの代表であり、リーダーでいてくださるお方という意味がそこには込められています。このお方は、私たちに無関心な方ではありません。

 被災地で疲弊して、祈ることができないような状況に置かれていたとしても、神の家族である私たちが、覚えて祈る時に、主はその祈りを父として耳に留めてくださるのです。

 父のことを「アバ」と説明しているローマ人への手紙の8章14節から16節にこのように記されています。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、「アバ、父」と叫びます。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

 ここでは、私たちが父と祈る時には、私たちの心の中に「御霊」「聖霊なる神」が働いていると書かれています。この聖霊は、神様の霊です。この神から与えられる「霊」が私たちの中に働いているので、私たちは「父よ」と呼びかけることができるのです。

 石川県には、私たちが顔を合わせたこともない教会の人々がたくさんいます。この人たちにも、神の御霊が働いていて、この人たちは私たちと同じ神の子どもです。この方々のために、兄弟、姉妹のために私たちは心を痛め、祈るのです。

 私たちが祈る時は、クリスチャンのためだけでなく、そこで苦しんでいる人たちのことも覚えて祈ります。私たちが、この方々のために祈ることができるのも、私たちの神が、父なる神でいてくださるからです。父なる神は、この世界のすべての人間の父であられるお方なのです。このお方が、私たちの神なので、私たちはこの父なる神に祈るのです。

 今被災している人たちをお助けください。そこで兄弟、姉妹として歩んでいる神の子どもとされているクリスチャンの人たちのことも覚えながら祈るのです。

「祈りとは天と地が口づけするようなものである。」

 私たちは祈ることで、天におられる父なる神と、この地上の人々を結びつけることができるのです。そして、父なる神はそのような神として働かれることを望んでおられるのです。

 私たちは、今年の年間聖句を受け取りました。

「一切のことを、愛をもって行いなさい。」

 第一コリント16章14節の御言葉です。

 私たちの父なる神は、一切のことを、愛をもって行ってくださるお方です。文字通り、「一切のことを」です。私たちの父なる神は、愛の神です。私たちに父親として豊かで、大きな愛を示してくださるお方です。そして、子どもである私たちは、この愛の神に祈ることができるのです。

 三浦綾子さんの書かれた『海嶺』の中に、難破した船乗りである岩吉、音吉、久吉が協力して翻訳して、最初の邦訳聖書ギュツラフ訳と呼ばれる聖書ができたことが記されています。更に聖書の中の「愛」という言葉を日本語にどう訳したかも描かれています。今は「愛」という言葉は、かなりポピュラーになった言葉ですが、当時は愛というのは、あまり一般的な言葉ではありませんでした。そこで、日本の3人は、「愛」という言葉を「御大切」と訳したのです。

 「LOVE」という言葉を「御大切」と訳したのです。この翻訳は画期的な翻訳だったと言えます。愛することは、相手のことを大切にすること。そして、私たちの父なる神は、私たちのことを大切にしてくださるお方だということも、よく分かると思います。

 私たちのことを大切にしてくださる父なる神は、私たちだけでなく、私たちの周りの人々も大切にしてくださるお方です。この愛である神に、私たちは「父よ」と呼びかけるのです。私たちが呼びかける時、その時、神の心は動き始めるのです。私たちのことを大切にしたいと思っておられる神の心が動き始めるのです。

 私たちは祈ることができます。私たちの主は、私たちが祈ることを期待しておられます。そして、「父よ」と呼びかけられることを待っておられるのです。

 私たちはこのお方に、今日も祈ります。明日も祈ります。私たちが父なる神との深い交わりに生きることを、神ご自身が願っておられるのです。私たちは、この父なるお方の前で、心を注ぎ出して、お祈りし続けていこうではありませんか。

 お祈りをいたします。

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