2024 年 1 月 21 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「御名が聖なるものとなる~主の祈り3」

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2023.1.21

鴨下直樹

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 新改訳2017になって、「主の祈り」の文章が大きく変わりました。一番大きく変わったのは、この「聖なるものとされますように」という文章です。これまでは「御名があがめられますように」となっていました。いつも、礼拝で主の祈りを祈るときも、「御名があがめられますように」と祈っています。

 この「御名があがめられますように」というのは、どんなイメージでしょうか。この「あがめられる」というのは、みなさんにとっていろんなイメージがあるかもしれません。「あがめられる」というのは、「尊敬される」とか「褒められる」というような意味の言葉です。もっと分かりやすく言うと「すごいと思われる」というようなイメージなのではないでしょうか。

 神様の名前が、尊敬される、すごいお方だと思われる。これがこの祈りの主要な意味の一つだと言っていいと思います。この世界のすべての人に神があがめられるようになることです。この祈りがまず第一に私たちに訴えているのは、主の主権がこの世界で確立するようにという祈りだということが分かると思います。

 この世界を創造され、お造りになられたのは、私たちの父なる神です。この世界は主の御手の中にあって、主なる神様がこの世界の主権者であり支配者です。けれども、この世界の多くの人はそのことを知らないでいます。それは、とても残念なことです。何よりも、神ご自身がそのことを残念に思っておられます。

 かつて、ドイツの説教者ヘルムート・ティリケは主の祈りの説教のなかで「主の祈りの最初の祈願は、隠れた悔い改めである」と語りました。この言葉は、まさにこの箇所は、このことを言い表しています。多くの人々が、この世界の創造主であられる父なる神に、語りかけることをしてこなかったのです。

 そんな世界の中にあって、多くの人に忘れ去られている神のことを、心の中に留める人たちが起こされるようになる。人々がもう一度、主の神の御名を思い起こして祈りを捧げるようになる。このお方のことをあがめるようになる。このお方を、尊敬し、すごいお方なのだと告白するようになる。それが、この祈りの中心的な内容です。

 この「あがめる」という言葉をもう少し考えてみると、この日本語は「きわめて尊いものとして敬う」という意味だと書かれています。そして、二番目の意味としては「寵愛する」とか「大事に扱う」と書かれています。まさに、神様を敬う、神様を拝むというような場合に使われる言葉だということが分かってきます。ということは、この「あがめる」というのは、「お祈りをする」ということを私たちに連想させます。

 多くの人が神様のことを知るようになって、このお方がこの世界の創り主であることを知って祈るようになる。そんな祈りを祈っていくことが、求められていると言えるかもしれません。

 これまで「あがめる」と訳していたこの言葉ですが、今回からは「御名が聖なるものとされますように」と訳されることになりました。けれども、こうなると、私たちのこの祈りの印象はかなり変わるのではないでしょうか?

 この言葉は、ギリシャ語で「ハギアゾー」という言葉です。これは「聖なるものとする」という意味です。この「ハギアゾー」の名詞は「ハギオス」といって、「聖」という言葉です。そして、この言葉は多くの場合「聖霊」のことを表します。

 つまり、ここで書かれている「聖なるものとなる」というのは、聖霊との関わりがある祈りだということが何となく理解できるのではないでしょう。

 けれどもそうすると、これまで主の祈りで「御名があがめられますように」というイメージがかなり変わってきます。これまでの「あがめる」という言葉はあまり「聖霊」をイメージする言葉ではありませんでした。ところが今回、この言葉は「聖となるように」というのです。これは教会の中では「聖化」と呼ばれてきた言葉で説明することができるかもしれません。

 先週と、先々週の二週間にわたって教会の聖書の学びと祈り会で、「キリスト教の教理を学ぶ意味」というお話をいたしました。あまり教理とか神学のことは、教会ではお話ししない内容でしたので、参加した方は少し驚かれたかもしれませんが、とても良い学びの時となりました。

 その学びの時にある方が、「義認」とか「聖化」とか「栄化」というのは何ですか? という質問をされました。これは、私たちが救われる時にどんなことが起こるのかを簡単にまとめて書かれていた部分への質問でした。

 他にも気になる方があると思いますので簡単に説明すると、「義認」というのは、神様に罪を赦していただいた私たちは、神様から罪人とは見なさないよ、もう義である、神様は私たちのことを罪がないと見なしてくださいますよという意味です。「聖化」というのは、私たちが救われてから聖霊によって少しずつ聖なるものへと変えられていく過程のことを表した言葉です。最後の「栄化」というのは、私たちがやがて栄光の姿に完全に変えていただいて、「栄光の姿」に変えられることを表した言葉です。先週そんな解説をちょうどしたところでした。

 そして、聖書の箇所というのは、いつも必ず神学的なテーマがその背後に隠れていて、説教でも、実はそんな教理のテーマで語られているんですよという話をしました。

 そういう意味でいうと、今日の箇所は「聖霊のお働き」ということになると思います。父なる神さまの御名が聖なるものとなっていくようにと祈っているのです。

 この「聖」というのは、分かりやすく説明すると「別の」という意味です。たとえば、旧約聖書の中で、神様にお捧げするために収穫物などの10分の1を取り分けておきました。これを「聖別する」と言いました。神様のために特別に取り分けておくのです。このように、「分ける」とか「別にする」というのが、この「聖」という言葉の意味する中身です。

 そうすると、父なる神の御名が、聖なるものとされるというのは、この父なる神の御名は、この世界にあるあらゆる名前と同じなのではなくて、この父なる神様のことを、「特別扱いする」ということだということが分かります。

 そして、その特別扱いするために、人の心の中に「聖霊」が働いてくださるということになります。私たちの心の中に、聖霊が働いてくださることを通して、私たちが「聖なるものへと変えられて」つまり「聖化」されて、父なる神様のことを、このお方は特別なお方なのだということが分かるようになるということなのです。これは、聖霊なる神様の働きによるものなのです。

 私たちが、頑張って理解を変えて、この世界に神様の名前を知らせるように敬っていくということではなくて、私たちの中に、聖霊が働いてくださる結果として、父なる神の御名が、特別に扱われるようになっていきますようにという祈りなのです。

 この「聖なるものとなりますように」という祈りには、さらなる深みがあります。それは、私たちの父なる神さまは、聖なるお方ですから、このお方は、まったくもって特別な存在だということです。他に、替えがきかないお方なのです。「スペシャルな存在」と言ってもいいし、「オンリーワン」と言ってもよいかもしれません。

 たとえば今、野球で言えば、大谷翔平選手はこれまでの日本の野球選手のみならず、世界の野球選手の中でも頭一つ飛び抜けた選手と言ってもいいと思います。そういうスペシャルな存在というのは、いろんな分野にいて、注目を集めます。多くの人は、そういう人をみると、憧れを抱きます。そして、その人に関心を持つようになります。あるいは、その人に近づきたいと思う人は、その人の通ってきた道を真似しようと思うようになります。近寄りがたい存在なのですが、私たちはそういう特別な存在にとても興味を持ちます。

 私たちの父なる神は、それにもましてもっと特別な存在です。他に誰にも追随をゆるさないお方であるとも言えます。この恐れ多いお方のことを、私たちは一方で「アバ」と呼びかけます。まったく、距離がないかのような親しみを込めて、祈ることがゆるされているのです。と同時に、このお方は聖なるお方、このお方はまったく特別なお方で、この世の誰とも重ねることのできないような聖なるお方、特別なお方なのです。

 そこから分かるのは、私たちが祈る相手は、私たちを遠くに追いやって私たちを避けておられるようなお方ではなくて、私たちに心を向けて、私たちと親しく語り合いたいと思っておられるお方だということが分かってきます。。

 以前、私はYouTubeで大谷さんにサインを求める小学生の映像を見ました。「大谷さーん。サインくださーい」その子どもの声は、何度も、何度も叫び続けていました。子どもの声は、かすれてしまっています。もうずっと叫び続けて声がかれてしまっているのです。すると、その少年の声に気づいた大谷選手は、近づいてボールにサインをして渡してくれました。ボールをもらった少年が嬉しそうな声をあげたところで、その動画は終わっていました。

 自分が憧れる人に、声をあげて聞き届けてもらえる。それがどれほど幸せな瞬間だったのか、その動画を見た人なら誰もが分かります。それと同時に、大谷選手がどれほど優しい人物かということもよく分かります。

 私たちが、主に祈りを捧げる時、私たちはこの少年のように、主に呼びかけることができます。主への尊敬と憧れを抱きながら呼びかけます。その祈りを私たちの心の中に呼び覚ますのは聖霊なる神の御業です。そして、その呼びかけを主ご自身が誰よりも喜んでくださるのです。

 主の御名が「聖なるものとされる」、それは、特別な祈りをすることではありません。子どものように、父なる神に思いを寄せて呼びかけることです。それこそが、主の主権を認めることであり、主をあがめる行為なのです。主は、聖なるお方です。主は、スペシャルなお方であり、オンリーワンなお方です。このお方は、特別な方であるだけでなく、私たちの心に聖霊を与えてくださいます。そして、私たちの心に聖霊を通して働きかけ、祈る心を呼び覚まし、父を慕い、憧れ、敬い、あがめる心を与えてくださいます。

 このお方の御名が聖なるものとされるとき、この世にあって聖なるものとされる時、この世界は主の前に、自らの罪深さを認め、低くなって、隣人を愛するようにと変えられていくはずです。

 私たちがお祈りをしたいと思う時というのはどういう時でしょうか。心に喜びが満ち溢れている時でしょうか。それとも、心の中に平安がなくなってしまった時でしょうか。はたまた、困っているその只中にある時でしょうか。

 私たちは不思議なもので、多くの場合喜びに満ち溢れていたり、悲しみに打ちひしがれていたりする時というのは、あまり祈りに心が向かわないのかもしれません。

 「参照基準」という言葉があります。自分の中に、あるものを比べるときの基準です。私は果物の梨が大好きです。そういうこともあって、夏になると、いろんな方が私に梨をくださいます。そうすると、だんだん美味しい梨が、私の参照基準になってしまうので大変です。なかなかスーパーで梨を買う勇気が湧かなくなってしまいます。高いお金を出しても、あまり美味しくないという経験をするからです。

 良いものに常に触れていると、それが私たちの参照基準になっていきます。そうすると、良いものが、良いものだと分からなくなってしまうことがあります。カトリックの聖書学者で本田哲郎という人が言っています。「自分が落ち込んでいるとき、便所の100ワット電球みたいに、無駄な明るさの人がそばに寄ってくると、うっとうしいし、ありがた迷惑だと感じます。それよりも、人から無視されるさびしさ、つらさ、悔しさを分かってくれる人が、そばにいてくれる方が、どれほどうれしく、元気づけられることか。そこそこ普通にやっていけるときには、だれが声をかけてくれても、『ああ、ありがとう』といって済ませられる。それで何の問題もない。けれども、本当にだれかの支えが欲しいとき、助けてもらいたいとき、ただ明るい人、喜びいっぱいの人というのは何の役にも立ちません。痛みを知っている人こそ、力を与えてくれるのです。」

 痛みを知っている人こそが、辛い立場にいる人を支えることができる。私は、この言葉を読んだ時に、少し考えさせられてしまいました。参照基準が低い方が、慰めになるというわけです。聖い、特別でスペシャルな神様は素晴らしいお方だということは、十分分かるのです。けれども、あまりにも自分と違いすぎると、単なる憧れになってしまって、寄り添ってもらえないんじゃないかという気持ちになる。そんな思いになることも分かる気がします。

 その点で、聖書というのは不思議です。私たちには、痛みを知っておられる主イエスがおられるのです。このお方が寄り添ってくださる時に、私たちは祈ろうという気持ちを、もう一度取り戻すことができるのかもしれません。

 そして、私たちの心の中には聖霊なる神様が働いておられます。三位一体の神なんていうと、また難しい話と思われてしまうかもしれませんが、私たちが信じている神様は絶妙な関係でもって私たちに寄り添ってくださるお方なのです。

 不思議なもので、「参照基準」というのは絶対的な基準ではありませんから、その基準は毎日のように変わります。美味しいと感じるものも、好きだと思うものも、そのときの心の状況や、そのとき置かれている状況で変わってしまうことがあります。だから、あまり自分のそのときの気持ちというものに支配されてしまうと、私たちは、どんどん周りのものが嫌になってしまいます。誰かと比べることに、それほどの意味なんてないのです。でも、三位一体の神様は、父なる神は聖なるお方としておられ、私のことをよく知ってくださる主イエスがおられ、私の心に働きかけてくださる聖霊なる神さまがおられます。この三位一体のお方が働いてくださる時、私たちは「参照基準」から自由になって、少し聖なる者へと変えられて、この主のみ顔を仰ぎ見ながら祈ることができるようにされるのです。

「父よ、御名が聖なるものとされますように。」

 こう祈るとき、私たちの心はこの世界のあり方から解き放たれます。自分が落ち込んでいても、悩んでいても、喜んでいても、つねに私が心を向けるのは聖なるお方に心を向けるのです。このお方に、こう呼びかける時に、私たちは自分の状況で左右されるのではないのだということに、気付かされるのです。そして、父よと祈る時に、私たちは少しずつですが、この主の聖さにふれさせていただくことができるのです。そして、心から父よ、あなたが、あなたこそが、特別なお方なのだということを、この世界中の人が知ることができますようにと、祈ることができるようになるのです。

 お祈りをいたします。

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