2024 年 1 月 28 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「御国が来ますように~主の祈り4」

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2024.1.28

鴨下直樹

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 少し前のことですが、あるクリスチャンホームの家庭で、幼稚園の子どもが教会で教えてもらった子ども賛美を口ずさんでいたそうです。元気な賛美で、子どもに人気のある歌です。

イエス様を信じるだけで 天国へ一直線に進む 
涙ふいていっしょに乗ろう 喜びがあふれてくるよ
さあ 救いの汽車に乗り かがやく天国へ行こう 
さあ イエス様のまってる 天国へいっしょに行こう

 その娘の歌う歌を聴いていた、その家のクリスチャンではないご主人が、奥さんにこう言ったそうです。
「教会では、こんな小さな子どもに早く死ねって教えているのか?」

 この話を聞いたのはもうずいぶんと前のことですが、私にとって忘れられない出来事でした。この子どものお父さんの質問は、一つの信仰の急所をついた言葉だと言えます。

 まず、長い間、福音派の教会は「天国」のことを「死後の世界」のことだと教えてきたという事実があります。イエス様を信じたら、天国へ行ける。死の不安から抜け出して、来世に希望を見出すことができる。いわゆる大衆伝道者と呼ばれた牧師たちは、そういう福音を語ってきました。

 これは、完全に間違っているわけではないのですが、かなり偏った信仰理解を生み出してしまったと言わなければなりません。「イエスさまを信じたら、天国に行ける」と聞くと、今の苦しみから目を背けさせることができるかもしれませんが、今の生活から目を逸らさせる、現実逃避の信仰ということになりかねないのです。

 けれども、この主の祈りの今日の言葉、「御国が来ますように」という祈りは、そういう信仰の理解に対して、はっきりと「NO!」と告げていると言えます。

 この祈りは、「御国に行けますように」と祈っているのではない。「天国に入れますように」と祈るのではないのです。ここで、主イエスは「御国が来ますように」と教えているのです。

 では「御国が来る」というのは、どういうことなのでしょうか? 下手をすると、この地上の国の他に、天上にも、もう一つ別の国があって、映画の「未知との遭遇」のように、空から巨大な御国が突如現れて、地上に混乱を巻き起こすというようなスリリングなものをイメージしてしまいかねません。そうして、この地上の国はダメなので、天上の国にみんなで逃げましょうということにもなりかねないのです。

 確かに私たちは、この地上の国はもう安心して生きていくことができないと考えても仕方がないような現実を知っています。

 ロシアとウクライナの戦争、イスラエルとハマスの戦争、また、この国でも先日から大きな能登半島地震や津波の被害で多くの人が被災生活を強いられています。政治は腐敗し、この国の経済もなかなか回復の様子は見えてきません。

 こうなると、私たちの現実世界から目を背けて、天国に希望を持ちたくなる。「涙を拭いて、天国へ一直線に進もう」と歌いたくなるのかもしれません。

 私たちが生かされているこの世界は、アダムとエバがエデンの園から追放されてからというもの、この世は死に支配され、罪が蔓延する世界として今日まで続いています。創世記には、神がこの天地を創造された時、この世界を「良しと見られた」と書かれています。この世界は、神の目にかなう、とても美しい素晴らしい世界だったのです。まさに、「楽園」とか「パラダイス」と呼ぶに相応しい「御国」「神の支配された世界」だったのです。

 けれども、人間は罪を犯し、神の思いから遠く離れてしまいました。それ以来、この世は、罪と死の支配する世界、戦争、地震や災害、困窮や混迷の支配する世界となってしまったのです。

 しかし、この世界を愛しておられる神は、この世界を何度も再創造しようとなさいました。ノアの大洪水を通して、もう一度再スタートを試みました。その次はアブラハムをお選びになり、神はご自分の民に神の御心を示されて、神の思いに応える民としてイスラエルを特別に選び出されました。そして、新約聖書の時代になって、神の御心を生きることのできる人として主イエスをお遣わしになり、主イエスを通して、この世界を再創造しようと計画されたのです。

 神は、この世界を諦めてはおられません。人々が絶望しようと、この地上の生活から抜け出したいと願ったとしても、神ご自身はこの世界のことを諦めてはおられないのです。人に期待しておられるのです。人を信じているのです。何度戦争を繰り返そうと、神はこの世界を再創造したい、この世界が、神の御心にかなう世界になるようにと願っておられるのです。これが、この世を愛される神の心です。

 だから、祈るのです。「御国が来ますように」と。そして、この祈りを祈るようにと弟子たちに教えられるのです。かつて、エデンの園が神の目にかなう「良しとみられた」世界であったように、この地上の世界が、御国のような世界になるように祈れと言われるのです。

 主イエスはこの世界を愛しておられます。主イエスはこの世界に生きる人々を愛しておられるのです。

 多くの人がこの悲惨な世界を見て言います。「もし神がおられて愛のお方だというなら、なぜ戦争ばかり起こるのか、この世界から不公平がなくならないのか」と。

 けれども、この問いこそが、まさに神の問いなのです。なぜ、神ご自身がこれほどまでに人を愛し、不公平を憎んでいるのに、この世の人々は争い続け、国と国とで戦争をし、不公平の世界をつくるような自分の利益ばかりを求めるのかと。私たちは、その責任を主になすりつけることはできないのです。

「御国が来ますように」

 この祈りは、悔い改めの祈りです。争い合い、憎み合い、喧嘩ばかりの私たちが、もう一度立ち返って、神の御国を取り戻すことができますようにという悔い改めの祈りです。人から奪い、不公平な社会を作り出してしまっている私たちの悔い改めの祈りなのです。

 そして、この祈りは、この地上の世界を、再び新しく造り直し、エデンの園の時のように神の愛を互いに感じ、互いに愛し合い、受け入れあっていくことができるようにという祈りです。

 この祈りは、この世界に再び神の国を再建しようと願っておられる、神の愛に触れる祈りなのです。

 主はこの世界を破滅へ、死へ追いやろうとしておられるのではありません。この世界にいのちを再び与え、愛をよみがえらせたいと願っておられるお方です。

 主はこの美しい世界を、そしてこの世界の自然や動物たちを、破壊されていくままにしておかれるお方ではありません。この世界を再創造したいと願っておられるお方です。

 人がどんどん孤独になって、誰も助ける手を差し伸べないような、寂しい世界に涙をながしておられるお方です。主は、どんな小さな者であったとしても、その傍に寄り添い、支えを与え、希望を与え、生きる意味を見出させたいと願っておられるお方なのです。

 天の御国、神の国は、死後の世界のことではなく、今のこの現実の世界が、神の御心が支配する、神ご自身が支配してくださる世界のことです。この御国は、神の愛が支配する世界なのです。

 ある説教集の中で、私は「愛は雑巾のようだ」と語られた牧師の話を目にしました。はじめは、少し何を言っているのか分かりませんでした。けれども、よく読んでみると、その意味が少しずつ分かるようになってきました。

 そこには、こんな説明が書かれていました。2枚の雑巾があります。一枚は、まだ使っていない綺麗な雑巾です。そして、もう一枚は真っ黒に汚れた雑巾です。

 そこに、こんな質問が書かれていました。「この2枚の雑巾はどちらが綺麗ですか、美しいですか、どちらの雑巾が欲しいですか。」そういう質問です。もちろん答えは綺麗な雑巾の方です。もらうとしたら綺麗な雑巾がいいに決まっています。

 けれども、そこで質問を変えてみたいと思います、とあって、こんな質問が記されていました。「どちらが貴いですか?どちらが立派ですか、どちらにありがとうと言いますか?」

 この質問になると、意見が半分くらいに分かれるかもしれないと書かれていました。

 そして、こう書かれていました。最初の問い、どちらが綺麗か、美しいか、欲しいかという問いは、人生の若い時の問いだと。けれども、人生の折り返し地点に来ると、その質問が変わってくる。どちらが貴いか、立派か、どちらにありがとうと言いたいかに変わって来ると。

 自分の人生を用いて生きるということが分かってくると、その人生の中でも問いが変わってくると言います。綺麗な雑巾であろうとするよりも、その雑巾を使うことの大切さ、ありがたさが分かってくると。

「愛とは雑巾のようだ」

 ある人にとっては、この言葉は、まったく何も響かない言葉であるかもしれません。けれども、ある人にとってはこの言葉の意味がよく見えるようになるかもしれません。雑巾は、使えば使うほど、汚れてきます。ボロボロになってきます。ボロボロになって汚れた雑巾は誰も欲しくはないかもしれません。けれども、そこには多くの汚れを拭き取って、綺麗にしてきたという実績が伴います。

 主イエスによって示された神の愛の姿は、これと重なります。神は、このまっ黒に汚れてしまったこの罪の世界を、再び愛の国に作り変えるために、主イエスを用いて、まさに真っ黒になるまで、この世界の罪を、汚れを取り除かれました。主が愛を示されれば示されるほどに、主イエスはボロボロになっていって、ついには捨てられてしまうことになるまで、愛の業を全うされたのです。

 でも、それはきっかけにすぎませんでした。この世界は、今もなお罪が積み重なり、汚れは広がり続けています。そして、主イエスがおられない世界は、もうこの世界は二度と綺麗になることはないのでしょうか?

 そうではないはずです。なぜなら、ここに私たちがいるからです。私たちが、今度は自分を用いて、この世界を愛していくことができるのです。この世界の汚れを拭き取っていく使命が私たちには託されているのです。

 今年の年間聖句で語られている通りにです。

「一切のことを、愛をもって行いなさい」

 第一コリント16章14節です。

 「愛は雑巾のようだ」それは、雑巾のように、自分をささげて愛を行ってくださった主イエスの姿そのものです。そして、その愛の主イエスのお姿は、私たちの心の中へと刻まれていったのです。

「御国が来ますように」

 この祈りの中に、神の願いが込められています。この「御国が来ますように」という言葉そのものが、私たちへの福音そのものです。神は、この世界を、御国のようにしたいと願っていてくださるのです。この祈りに、諦めていない神の心が示されています。

 私たちは、この世界で起こる、さまざまな痛ましい出来事に心を痛めます。思い悩みます。慰めと救いがあるようにと祈ります。そう祈ると同時に、私たちはこの愛の祈りを祈るのです。

御国がきますように。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 この主の祈りを心に刻みながら、今度は私たちがこの愛に、雑巾のような愛に生きるのです。

 お祈りをいたしましょう。

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