2010 年 7 月 18 日

・説教 主の祈り 「父よ、御名があがめられますように」 マタイの福音書6章9節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:35

鴨下直樹

 この朝から私たちは主の祈りを学び始めます。出来るだけ丁寧に主の御言葉を聴きとろうと願っています。私の前任の牧師であった後藤喜良先生は、その二年半の間に祈祷会で二年半かけて主の祈りを学び続けたと聞きました。おそらくそこに参加された方々は驚いたのではないかと思います。私自身もそれを聞いて大変驚いたのですが、主の祈りというのは丁寧に学ぼうとすればそれほどになるということであるかもしれません。

 かつて古代の神学者であった教会教父のテルトゥリアヌスは、主の祈りのことを「福音の要約」と言いました。この祈りの中に、福音が、神からの喜びの知らせがぎっしりとまとめられていると言ったのです。ですから、それを丁寧にひも解いていくとすれば、二年半という月日がかかるのかもしれません。

 そういう意味ではこの9節だけでも、何回かに分けて語るのが良いと思いますけれども、二週間前に説教の予定を変えたこともありまして、今朝はこの9節を一度で学びたいと思います。

 

 「主の祈り」というのは、主イエスが弟子たちに祈りを教えられたものです。この主の祈りはルカの福音書の11章でも主イエスが教えられた祈りとして紹介されています。けれども、ルカのほうはマタイと少し違っているところがあります。それは、弟子たちのほうから「私たちにも祈りを教えてください。」と主に願ったと記されているのです。弟子達は、祈りというものをどのようにしたらよいか分からなかったのです。

 私たちでも、始めて祈りをするという時には、どういうふうにするのかよく分からないというところがあるのではないかと思います。始めて祈るというのは、少しドキドキするものです。けれども、祈りの手引きをしてもらうと少し安心して祈りをすることができます。そのように、この主の祈りの中には、主イエスご自身が、祈りというのは一体どのように祈るものなのかを手引きしてくださっているのです。ですから、ここには、主イエスが願っておられる祈りというものがどういうものであるのかがまとめられているということができます。

 祈りというのは、私たちの信仰の姿勢がそのままあらわれます。ですから、最初に古代の教父テルトゥリアヌスが「この祈りの中に、福音が要約されている」と言ったのも、その意味ではまさにこの祈りの性質をうまく言い表したものだと言うことができると思います。祈りにおいて誤ってしまうと、信仰も間違ったものになってしまいます。ですから、私たちは祈りについて、正しく手引きしていただく必要があるのです。

 

 さて、それではそれではさっそく主の祈りの内容に踏み込んでみたいと思います。9節にはこのように記されています。

 だから、こう祈りなさい。

 『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』

 

 祈りの最初に覚えなくてはならないのは、私たちが誰に祈るのかということです。祈りを聞いてくださっているのはどのようなお方かということです。

 一般的に祈りたいと思う時、その心の中で起こっている祈りの動機は何かと言うと、まず、自分の願い求めだと言うことができます。何とかしたいけれども、自分ではどうすることもできないという時に人は祈ろうと考えます。その場合、祈りを聞いている相手が誰であるかよりも、まず自分の願いが先にでてしまうために、「困った時の神頼み」などという言葉が生まれて来るのでしょう。ここに、一つの祈りの姿があると言ってよいと思います。

 けれども、私たちは祈る時に神に向かって祈ります。そこで、まずよく考えなければならないのは、神は祈りをすることをゆるしておられるのかということです。例えば、誰か偉い人に何か物を頼む時に、こちらから一方的に、あれもこれも全てうまくやっておいてください、などと言ったりはしないと思うのです。相手の方から、何か必要があるかと尋ねられて、私たちはようやく何かを言うことができます。

 神に祈る時にも、私たちはこのことをよく覚えている必要があります。祈りというのは、こちら側から一方的に、好きなことを祈ればいいというようなものではないのです。しかし、ここで、それ以上に私たちがよく覚える必要があるのは、主イエスが私たちに祈るように招いていてくださるということです。それで「だからこう祈りなさい」と、祈りに主イエスが招いてくださっているのです。主イエスの父であられる神は、私たちにとっても、父のようにして祈ることを待っていてくださるのだと、この祈りの初めに教えていてくださっているのです。

 

 「父よ」とこの祈りはこのように始まります。この祈りの言葉の初めに書かれているのは「父よ」という言葉から始まっているのです。神の御子であられる主イエスが「父よ」と祈るのであれば、私たちはそれほど難しいことを考えなくても納得します。けれども、私たちにも、この主イエスをこの地に遣わしこの天地をお造りになられたお方、私たちの言葉に耳を傾けようとしてくださっておられる偉大な神に向かって、あたかも自分の肉親のように「父よ」、「お父さん」と祈れと言われるのです。ここに、すでに、私たちが神の子どもとされているという前提があります。このお方に祈る者は、もうすでに、神の子どもとされているのです。

 伝道者パウロは「私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」とローマ人への手紙(8:15)で語りました。別のところでは「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3:26)とも言っています。私たちは、この祈りにおいて、イエス・キリストを信じることによって神の子とされ、私たちの内に働いてくださる聖霊によって、「父よ」と祈ることができるのです。

 ですから、私たちは祈りによって、三位一体の神に支配されていることを体験することができるとさえ言うことができます。この三位一体の神との交わりに生かされているのは私たち独りではありません。自分一人がそうだというのではなくて、「私たち」がなのです。それで、この祈りは「私たちの父よ」という呼びかけの言葉となっているのです。

 このお方に祈りをささげようとする時に、私たちは「私たちの父よ」と祈るのです。そのように私たちが祈る時、そう声を上げた時から私たちは、神の御前に独りで立っているのではないということを覚えることになります。このことは私たちにとって大きな励ましです。偉大な神の御前で、自分独りぼっちで立ちながら語りかけることほど、恐ろしく、不安なことはありません。しかし、私たちは祈る時に多くの信仰者と共に祈っているのです。あの人も、この人も、一緒になって神の御前に立っている。右にも、左にも、私たちの側に、多くの一緒に生きている人々がいるのです。その隣に立っている人々に励まされながら祈りをするのです。

 ですから、その祈りは当然、自分一人の事だけを祈ると言うわけにはいかなくなるかもしれません。いや、自分一人のことを祈ったとしても、その祈りは、実はこの隣にいる人の祈りでもあるのです。あの人も、この人も、同じことを願いながら、祈りを捧げているのですということになるのです。それほど心強いことはありません。だから、私たちが祈る時に「私たちの」と祈ることができるというのは、そのような励ましでもあるのです。

 

 このように、父なる神の御前で隣人と共に祈る時、私たちがどうしてもそこで知ることになるのは、私たちは生きているのは地である、この地上で主に生かされているということです。この地に生きている自分を知る。そのことは言い換えると、自分自身を知るこということです。祈る相手を知るならば、当然、私たちはそこで自分自身をも知ることになります。自分は今、どこに立っているのか。私たちはどのようなところで生かされているのか。誰と共に生き、どんな問題を共有し、どんなことを神に祈る必要があるのかを、そこに気づかされるのです。

 私たちの祈りに耳を傾けてくださる父なる神を「天におられる」と祈る時、私たちはこの地上で、地にはいずりながら生き、天を仰ぎ見る者とされているのです。そして、神が天に住んでおられるということは、私たちの希望となります。人間の手の届かない所に神はおられる。それゆえに、私たちの手の届かない神の御業を、天から、すべてをご覧になっていてくださる方がなして下さるだろうと信じることができるのです。

 

 マタイの福音書はすでに何度も「天の御国」という言葉を使い続けてきました。私たちには手の届かない所に神が住んでおられる国がある。その天の御国はあなたがたのものである、と何度もこの山上の説教の冒頭で語り続けています。神が支配してくださる国がある。この天の御国におられるお方が、私たちの父として、祈りに耳を傾けておられるのだからと、主イエスは私たちに教えていてくださるのです。このお方に祈ることが、私たちの希望のすべてなのです。このお方に祈ることができるということが、私たちのなぐさめなのです。この父なる神は、この天の御国にいるような幸いを私たちに与えるために、天で祈りを聴いていてくださるのです。ここに、私たちの祈る喜びがあるのです。これが、「天におられる私たちの父よ」という主の祈りの呼び掛けに込められているのです。

 

 

 さて、ここから続いて祈りの内容へと移っていきます。その祈りの最初の言葉が「御名があがめられますように。」という祈りです。神のお名前があがめられるように、素晴らしいお名前です、と人々がこの神の御名を聴いた時にほめたたえるようになりますようにというのが、この最初の祈りです。

 ですから、ここで教えられている祈りは、私たちのための祈りではありません。自分のことを祈っていないのです。自分のために祈ってはいないのです。これは、私たち自身にとって少し厳しいことです。私たち自身の日ごとの祈りの生活のことを考えてみると、よく分かります。私たちの祈りというのは、どうしても自分のことを祈らざるを得ません。祈らなければならないという気持ちになる時というのは、何か困ったことが起こったり、悲しんでいたりする時であることが多いのではないかと思うのです。けれども、主イエスは、祈りのまず最初に神のことを祈るのですよ、と教えてくださっているのです。

 このことは、私たちはよく理解しなければなりません。ここですぐに、私たちの日常の祈りの生活と、主が教えてくださる祈りとの食い違いがあらわれているからです。

 では、「御名があがめられるように」というのは、どういうことなのでしょうか。興味深いことに、宗教改革者ルターは、この祈りはドイツ語にすると「あなたの御名が聖いものとされますように助けたまえ」ということだと記しています。ところが、ルターはそこで立ち止まって考えます。神の名前というのは最初から聖いはずではないかと。そうすると、聖くないものにしてしまうのは誰かと考えると、私たちしかいないということに気づくとルターは言います。

 神の御名が汚されてしまっているのです。神の名が軽んじられてしまっているのです。それは、この世界の人々が神を軽んじてしまっているということもありますけれども、私たち神を信じている者さえも、神の名前を汚してしまっているのです。

 ドイツの説教者でヘルムート・ティーリケは、かつてこの主の祈りから説教をしました。第二次世界対戦の敗戦の中で、礼拝堂は空襲のため廃墟となり、ティーリケ自身大学で教えることも出来ない状況の中で、ひたすら御言葉を語ることに集中しました。このティールケの主の祈りを語った説教が書物になっているのですが、ティーリケはここで、「主の祈りの最初の祈願は、隠れた悔い改めである」と語りました。このティーリケの説教はこう語りかけます。

 「あなたがその人である!」と神は語りかけておられます。「あなたが、少しも贖われた者のようではなく。そのために偏見の毒を含んだ種を周囲に播き散らかす人なのだ。あなたが、まさにその人である!」と。

 ティーリケは大変厳しい口調で語ります。私たちが、神に贖われた者として生きていない事をはっきりと指摘したのです。考えて頂きたいのですが、戦争に負けて気落ちしている人々、しかも慰めを求めて教会に集まって来ても、その礼拝堂さえも空襲のためにないのです。緊急で何処か場所を借りて礼拝をする。そこに集まってきている人々が聞きたい言葉は、こんな言葉ではなかったのではないかと思うのです。けれども、ティーリケはそこではっきりと宣言するのです。私たちは、神の名を汚してしまっていると。敗戦の中で、自分たちの都合のよい救い主を求める危険があるからでしょう。自分たちの生活を再び成り立たせることができますようにと祈る、その人々の祈りに釘をさすように、ティールケはさらに言うのです。「そういう自分自身に抗いつつ祈ることによって、神の御名は栄光を受けるであろう」と。

 このティーリケの説教を紹介しはじめると、いっそそのままこの説教を読んだ方がいいのではないかと思えるほどに、力強い言葉に満ち溢れています。ぜひ、一度手にとって読んでいただきたいと思う書物です。今、ここで全てを紹介することはできないのですけれども、私たちがここで心に刻みつけたいことは、神の御名が崇められるために、私たちは、自分自身としっかりと向き合って闘わなければならないということです。私たちは、罪人です。神の願いに逆らって生きているものです。神の思いに応えて生きたいのですと願いながらも、自分自身のための心からの願いを捨てきることができない者です。私たち自身、汚れた者であるということです。

 ルターの聖書はこのところを、「あなたの御前が聖とされますように」と訳しました。誰によって、神の御名が聖いものとなるのか。それは、もはや罪に汚れた私たちによってでないことは明らかです。私たちのような汚れある者が、どんなにかんばって神の御名が聖なるものとなるために努力をするなどということはできません。その力もないのです。そのように考えていきますと、ではなぜこのような罪にまみれた私のような者が、こう祈ることがゆるされるのかとさえ思えてきます。

 この祈りはこういうことなのです。自分のために祈りながら、自分が神に祝福されることによって、周りの人々にあなたの神さまは素晴らしいですねと言って貰おうなどとするようなところから解き放たれることなのです。そして、私たちが自分の力によって、自分の努力によって、神が神らしく人々に認められるようにしようと努力することを捨てることです。

 「御名が聖とされる」というのは、私たち自身ということは一切関係ないところに、神が聖別されているということです。私たちが御名が崇められるように生きていけるとか生きていけないとか、そんなこととは一切関係なく、全く自由にされて、この私のような者が神のために祈るのだという祈りへと引き上げられるのです。私のようなものが、神のために祈るのです。そのことを通して神は、神であるということが、明らかになりますようにということなのです。

 神のために祈る必要があるのかと考える方があるかもしれません。神は何でもご自分でなさることのできる全能の神なのだから、神のために私たちが祈る必要などないではないかと考える。それは、よく分かります。神は神なのです。誰の助けも、支えも必要とされないお方です。そして、そうであるがゆえに、私たちと全く異なったお方が、光そのものであるということのできるお方が、闇そのものだと言うほかない私たちに、その光をもって私たちを包みこんでくださったのです。この方の光り包みこまれたものだけが、この方のぬくもりを知ったものだけが、あなたは光ですということができるでしょう。あなたは神ですということができるのです。

 「御名があがめられますように」という祈りは、そういうことなのです。私と、あなたは違いますと、その違いを知ったものだけが、本当に真実な心でそう告白することができます。そうすることによって、神の御名があがめられるのです。神のために祈りをすることになるのです。この祈りは、ですから、悔い改めであると同時に信仰の告白の祈りです。しかも、祈りの最初に最もふさわしい、告白の祈りです。

 

 私たちは地に生きています。私たちはこの地でさまざまな罪を犯しながら生きてしまいます。けれども、私は知っています。あなたは天におられるお方です。あなたは私たちと全く異なるところにおられるお方。そのあなたが、私たち闇に生きている者に光を与え、いや、光を与えただけではなく、生きることそのものを与えてくださいました。今、わたしは、あなたが教えてくださった生き方をします。そう生きたいのです。あなたは、そのような私にとって特別なお方なのです。そうです。あなたは天におられ、その天の御国の生活を、私たちにくださった、わたしのお父さんとお呼びすべきお方なのです。

 そのような思いを込めて、私たちは祈るのです。そう祈ることがゆるされているのです。「天におられる私たちの父よ。御名があがめられますように!」と。

 

 お祈りをいたします。

 

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