2010 年 7 月 25 日

・説教 主の祈り「御国がきますように」 マタイの福音書6章10節 

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鴨下直樹

私たちの芥見キリスト教会ではいつもですと、水曜日と木曜日の祈祷会の時に牧師か宣教師が聖書の学びをしております。私はアブラハムの生涯をしておりますし、マレーネ先生はペテロの生涯の学びをしていてくださいます。ところが、この夏休みの季節になりますと、信徒がこの祈祷会で御言葉を語ります。そこでは、人によって御言葉からの証しをしたり、普段それぞれが御言葉と向かい合っている生活の中で、自分はこのように理解しているのだけれども、他の人はどのように御言葉を受け止めているのかなどというような問題提起をしながら語り合ったりしているようです。さっそく今週から「信徒による楽しい聖書の学びと祈祷会」などという名前が付けられまして、担当者のリストがみなさんの手元に配られていると思います。私はキャンプなどで留守をすることが多く、全てに参加することはできませんけれども、できるだけ多くの集いに参加し、共にみなさんがどんなことを語られるのか今から大変楽しみにしています。いつもの祈祷会の時よりも多くの方々が参加されるようです。それは、私たちにとって大変意味のある時だと思います。誰がどのように御言葉に生きているのかということを直接に聞くことができるからです。そして、その時に、おそらくさまざまな感想が生まれるのだろうと思います。自分の御言葉に対する姿勢と違うというような経験をするからです。もちろん、それはどちらが正しいとか、ということではありません。それぞれの生活の中で聴き取る主の御言葉は、さまざまな聞かれ方をするのです。同じ御言葉を聴いていても、そこで起こる反応や応答は誰もが異なるのです。もっと言えば同じ御言葉を説き明かしていても、牧師の説教がすべて異なっているのと同じです。それは、また牧師の説教が異なるということだけではありません。それぞれの教会の伝統が異なるので、そこでまた強調して説かれることも変わってくるということもあるのです。

この主の祈りについても、これまで実に様々な牧師たちがここから説教をしてきました。私の小さな書斎にあるだけでも何十という書物があるのです。それは、時代によっても、国によっても、異なった説かれ方をしてきました。そのような、さまざまな主の祈りから聞き取った説教者たちの言葉を聴き取ることもまた大変楽しいことです。そうすることによって、神の言葉が実に豊かな広がりをもって受け止められて来たことを改めて知ることができることは、説教者として本当に幸いな経験であるということができます。

今日、私たちが共に聞きたいと願っているのは、主の祈りの第二の祈願である「御国がきますように」という祈りです。そこで私がどうしても一緒に考えてみたいのは、「御国が来ますように」と祈る時に、私たちはどのようなことを考えて祈っているのかということです。
私たちは御国を求める祈りをしながらも、自分の国を求めながら生きている、そういうことに力を費やしていることが多いのではないかと考えさせられているのです。私たちは誰もが自分の国、自分が生きやすい場所を求めています。先日も、名古屋の神学校の神学生と話していました。その方は子どものある方ですが、二十歳を過ぎた子どもさんがこの方にこう言ったそうです。「今しかできないのだから自分の好きなことをさせて欲しい」と。親に支配されて生きていたくはないということでしょう。もう自立した大人なのだから、自分のすることに干渉しないでほしいということです。その子どもの側の立場にまわれば気持ちは良く分かります。私たちでもそのように考えていることがあるからです。誰もが自分の国を求めていると言っても言い過ぎではないと思います。自分がより生きやすいように生活したい。それを邪魔する人がいれば面白くはないのです。私はその時にも話したのですけれども、子どもというのはそうやって少しづつ自分が自由に生きられると思う幅を親から勝ち取っていくものです。そして、それは親との関係だけではなくて、私たちの周りの人間関係の中でも同じようにしながら自分の国を築き上げていくのです。
そこで、私たちが覚えていなくてはならないのは、これは子どもだけのことではなくて私たちのことだということです。私たちは誰もが、自分の国が来るようにと考えながら生きて来ているのです。けれども、そうすると、そこで立ち止まって考える必要があります。
私たちは「御国がきますように。」という祈りをどのような思いで祈っているのかということです。
この祈りは、私たちの子どもの頃から持っている「自分の国が来ますように」、「自分が自由に振舞える日が一日も早くなりますように」という祈りに真っ向から対立する祈りです。私たちはそのことをよく理解した上でこの祈りを祈る必要があるというのが、私たちに問いかけていることです。

最初にも言いましたけれども、これまでこの主の祈りは、歴史の中で様々な聖書学者、説教者が主の祈りを説き明かされてきました。そこで、いつも問われている一つのことは、「御国」、つまり「神の国」はすでに来たのか、まだ来ていないのかという議論です。「御国が来ますように」という言葉の中には、御国はまだ来ていないのでこの祈りがなされたのかという問いが一方ではあるのです。
この「御国」という言葉は「神の国」のこと、「神の支配」と言い換えることができる、とこれまでも何度も説明してきました。神が私たちの世界を支配してくださるということは、私たちの世界が天国のようになること、と言い表すこともできます。そして、そう考えるならば、確かに御国は私たちのところに来ていないことになります。私たちの生きている世界は、まだ天国のようではないからです。
主イエスが宣教を開始されたときに、「天の御国は近づいた」と語られました。これは、「来りつつある」という言葉です。つまり、主イエスがこの地上においでになった時に、神の国は始まり、完成へと向かいつつある。そうすると、ここで語られている「御国」、「神の国」とはどういうものかと言いますと、主イエスによって与えられる「救い」のことであるということができるわけです。

そうであるとすると、確かに既に信仰が与えられ、洗礼を受けられた方々は、神の国が私の生活の中に確かに始まったと実感しておられるのではないかと思います。ところが、その神の国はまだ完成したとは言えないのです。というのは、私たちは一方で神に救われて喜びの中に生かされているのですけれども、私たちの中には、まだまだ自分の国を打ち立てたいという思いが潜んでいますので、神にも支配されたくないという領域を心の中に持ってしまっているのです。
そうすると、どうなるかと言いますと、この「御国をきたらせたまえ」という祈りは、どうしても悔い改めの祈りに成らざるを得ないのです。
「父なる神よ、私は今なお自分が王として支配することのできる、自分の裁量で自由に判断し、決断し、実行したいと思っています。けれども、そのままではあなたが、私の生活を完全に支配することができませんから、どうか、私の生活を、私が支配するのではなく、あなたが支配なさってください。」という祈りをどうしてもしなければならないのです。
そして、それはもはや自分の力で一生懸命努力をしてなし得ることというよりも、むしろ、神に本当に自分の生活をおゆだねして、あなたが私を支配してくださらないことにはどうにもなりませんということを認めて、神の御前に悔い改めつつ切に祈らなければならないのです。

けれども、そこで私たちが同時に考えなければならないのは、その場合の御国、神の支配、神の国というのは自分のことだけを考えているということになりかねません。自分の生活だけをじっくりと眺めながら、神が支配してくださるのは自分の心の問題だけというように考えてしまいやすいのです。確かに、私たちは自分の生活の中で王となろうとしているということはよく分かるのです。けれども、そのような間違いを犯しているのは、私だけ、自分だけのことではありません。そうではなくて、世界全体が罪を犯しているのです。
ですから、主イエスは私たちを救うためにこの世界に来て下さったのですけれども、それは、私個人のことだけを見ておられるわけではなく、世界を贖うためにこの地においでになられたのです。この私たちの生きている世界が丸ごと贖われなければ根本的な解決にはいたらないのです。だからこそ、今、私のところにはじまった神の御国はひとつの点のような小さなものにすぎないけれども、これがどんどんと広げられて、それこそ世界中にこの主イエスがもたらそうとしておられる救いがもたらされますように、という祈りを祈っているということを私たちは覚えなければなりません。
それで、昔からこの「神の国」というのは「教会」を指していると言われました。それは、「教会」は神が支配してくださっているからです。もちろん、「神の国」イコール「教会」ということはできません。神が支配なさるところは完全であるべきですが、この世の教会は完全なものではありませんから、その意味でもイコールとは言えません。けれども、神の国は、神に救われたことを証しする教会が、この世界に示して行くところという意味では、神の国は、教会において表されるということは可能だと言っていいと思います。
この「神の国」はどのように成就するのか。どのように完成されるのかということは、私たちには大変興味のあることです。それは聖書の中でさまざまな表現で記されていますけれども、代表的なところは、ヨハネの黙示録の第21章3節から5節をお読みいたします。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

天の御国の姿がここでは描かれておりますけれども、ここでは神と私たちと共に住むと記されておりまして、そこでは私たちの目から涙がぬぐい取られ、死も、悲しみも、叫び、苦しみもなくなると書かれています。神が私たちと共にいてくださり、天の御国の中に私たちが生きるというのは、そのような具体的な慰めがそこにあるということがここには語られているのです。

ですから、この「御国が来ますように」という祈りは、主の再臨を求める祈りでもあるのです。主が来られ、この罪の世界を終わらせ完成してくださるようにという祈りです。
私の個人的な思いかもしれませんけれども、「再臨」という言葉は今日あまり強調して語られなくなった気がいたします。この言葉は、キリストが再び臨在されると書きます。キリストが再び来られるのを、私たちは心待ちにしています。その時、神が全てを完成させてくださるからです。罪の支配が終わるからです。そして、それはこの世界が神の裁きの前に立たされるということでもあります。ところが、キリストが再び来て下さり、罪の支配から解放してくださることも良いことだけれども、神の裁きの前に立つということはあまり聞きたくないのです。それで、人があまり聞きたくないことは語らないようにというような考えがあるからでしょうか、神の裁きということは、あまり語られなくなった気がいたします。
そうするとどうしても考えなければならないのは、私たちの教会が「敬虔主義」という流れの中にある教会であるということです。この「敬虔」というのは、人生の中で様々な「経験」をするという言葉ではなくて、よく「敬虔なクリスチャン」などという時に使われる「敬虔」です。この敬虔主義(あるいはピエティズムとかパイエティズムと言うほうが分かる方があるかもしれませんけれども)、この敬虔主義の信仰の流れというのは、実践的な信仰を強調します。救われただけではだめで、それは信仰によって証しされるべきであるなどという考え方です。それで、クリスチャンは敬虔であるべきだという流れの中にあるということです。この流れは、キリスト者の生活を倫理的、あるいは道徳的に正しくするという意味では大きな意味をもっていました。ところが、そこで強調されてきたのは、悪い生活をしたままではやがて罰が当たるというような意味から、神の裁きということが語られる傾向がありました。これは、行きすぎた考えになりますと、信仰を持ったキリスト者であったとしても罪を犯すので、その罪は神の前で必ず何らかの罰を受けるとか、神の再臨の時に、全てのキリスト者は一度みなこの神の前で裁きを受けなければならないというように考えられ教えられてきたのです。
おそらく、そのように教えられて教会生活を始められた方はこの芥見教会の中でも少なくないのではないかと思います。けれども、この敬虔主義の流れの中にあるこのような考え方は、少し行き過ぎではなかったかという反省が行われるようになってきました。その意味で、神の裁きということを昔のように語らなくなったということは、確かに言えるかもしれません。私たちは、すでにキリストが私たちのために裁きを受けられたのですから、再臨の時に、もう一度すべての生活が人々の前にさらけ出されて裁きを受けるのだなどというようなことはありません。もしそうであるならば、キリストの十字架の死というのは、形だけ、建前であったということになりかねないのです。私たちは、私たちを救ってくださるお方によって完全に贖われているのです。キリストの贖いだけでは不十分だということにはならないのです。
けれども、だからといって、私たちは神の裁きということを軽んじることはできません。私たちは罪の支配の中に生きてます。神の支配のもとにないこの世の生活というのは、そういう意味ではすでに裁かれた生活であるとさえ言えます。神が共に生きてくださっていない世界というのは、たとえ傍からは幸せに見えたとしても、人が羨むそうな生活をしていたとしても、その生活は神の裁きのもとにあるのです。ところが、人はそのような神から離れた生活を普通のこと、当たり前のことと考えてしまっています。ですから、その生活が、神に裁かれた生活ということがよく分からないのです。けれども、そのことが明らかにされる時が来るのです。それがキリストの再臨の時です。人は誰もがその時に神から離れて生きていたことを明確に知るのです。そして、その時、先ほどの黙示録の御言葉が告げているように、神の民にとっては大いなる慰めの日となるのです。
ですから、この「御国が来ますように」と祈りは、神の再臨を待ち望む祈りであると同時に、神の裁きと、救いが実現する時を求める祈りでもあるのです。私たちはこの事をよく心に留めて祈る必要があります。

宗教改革者ルターは主の祈りの解説を大教理問答の中で書いていますけれども、この祈りのところでこんなことを書いています。富も権力も持っている偉大な王が、憐れな乞食になんなりと欲しい物を望めと命じられた時に、この乞食が愚かにも一杯のスープを下さいとしか求めなかったとすれば、それはこの王を馬鹿にしたことになるのではないか、同じように神は私たちに多くの賜物を与えてくださると約束しておられるのに、一切れのパンしか求めないのであれば、それはこの神に対して恥をかかせることになるのではないかと。ルターはそう語りながら、この主イエスは、「神の国と神の義を求めなさい」とこの後で語っておられるではないかと言っています。
主イエスは、私たちに神の国を、天の御国を下さると約束しておられるのです。それゆえに、私たちはこれを求めるのです。自分が自由に生きられれば十分だと思っていた私たちに、神はそれよりも大きな神の御国を備えてくださるのです。自分だけが幸せに生きるのではない、そこでは、多くの人々が共に、私たちの涙をぬぐい、私たちの悲しみや嘆きを取り去ると約束してくださるのです。
この約束の神は、神も持てる全ての力をもって、私たちに最善のものを与えようと約束してくださるのです。この偉大な王の前に、私たちは祈ることが求められているのです。「御国が来ますように」と祈る時、そこで、神は天の窓を開き、神のあらゆる恵みを私たちに下さろうとしておられることを覚えることができるのです。

お祈りいたします。

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