2010 年 8 月 1 日

・説教 主の祈り「御心が行われますように」 マタイの福音書6章10節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:32

鴨下直樹

今、私たちは「主の祈り」を学んでいます。主の祈りを通して祈る心を学んでいます。ここに、私たちが日毎に口ずさむべき祈りがあるのです。
祈りを学びたいという人に私はよく紹介する一冊の本があります。P・T・フォーサイスの書いた「祈りの精神」というものです。もう何度も版を重ねておりまして、これを出していた出版社が倒産してしまったために、もう手に取ることができないかと思いましたけれども、先日、また異なった出版社から出されることになったと聞きました。教会の図書にも入っておりますので、是非お読みいただきたいと思う書籍です。
先週から信徒による聖書の学びが始まり、非常に豊かな時間を過ごすことができました。それに先立ちまして、先々週の祈祷会で、この「祈りの精神」という書物の最初の部分を共に読みました。出席された方々は、すでに最初のところを一緒に読んだのですけれども、「最悪の罪は祈らない事です」と言う言葉から始まるのです。神と共に生きる者は、祈りながら、他者のため、他の人のために祈ることになると、最初に語りながら、祈りがどれほど私たちの生活に必要であるかを語ります。この本の第一章は「祈りの本性」というタイトルがつけられています。この前半の中心的な言葉はこういう言葉です。「あらゆる祈りのうち、真の祈りは、『神よ、あなたの御心がなりますように』という祈りである」と言っているのです。祈りというのは、私たちの生活に不可欠なものだけれども、その祈りの中心は、結局のところ「御心がなりますように」という祈りだというわけです。
この祈祷会である方が質問をしました。「自分の祈りは自分の事ばかりを祈っていたのだけれども、そういう祈りは間違っているのか」という質問です。みなさんもそのような問いを持たれるのではないかと思います。「主の祈り」の祈りに一つ一つ耳を傾けていきますと、そこで知らされるのは私たちが日ごろ祈っている祈りとの大きな食い違いです。もちろん、自分の事を神に切実に祈り求めるという祈りの姿勢が間違っているとは言えないと思います。困った時に、悩める時に、神に心が向かうということはキリスト者として大切なことだと思います。そして、それが私たちの日常の祈りの姿であるといえるかもしれません。しかし、そのような祈りも突き詰めていくと「御心がなりますように」という祈りになるのだということを、フォーサイスはこの本の中で語っているのです。

私たちの日常の祈りと、この主の祈りとの間にあるギャップというのはどこから生まれるのかというと、まさに、私たちは「御心を求めて生きている」とは言えないところから生じているのではないかと思うのです。
そもそも「みこころ」とは一体何をさして言うのでしょうか。「みこころが天でおこなわれるように」とありますから、天での生活、天使たちがしているような生活の中には、当然神に仕えているのが天使ですから、そこでは神の心が十分にいかされているに違いないと考えることはできます。
来週から根尾山荘で学生のキャンプが始まります。私は長い間この学生キャンプの担当をしておりましたので、この時期になるとよく学生たちの言葉に耳を傾けることが多くありました。特に、この時期というのは高校三年生や大学生などは自分の進路を真剣に考えるようになります。どこに就職するか、どこの大学に入るかということを決めるというのは非常に大事な選択です。そうすると、そこで学生たちが考えるのが自分の人生を神がどのようなお考えを持っておられるかを知りたいと思う。神の御心はどこにあるかを知りたいと考えるようになります。自分の人生の大事な決断を失敗したくないので、神の御心を知りたいと考えるわけです。自分の決断が間違わないように、神からの証明が欲しい、神からのお墨付きをいただきたいと考えるのです。私はよくこのような症状に陥ることを「みこころ症候群」と呼んでいます。
この「みこころ症候群」というのは、自分の大事な決断を失敗したくないという思いが先だったものです。これは何も進路だけではありません。結婚でも、就職でも、日常の生活のあらゆる決断について回る失敗したらどうしようという気持ちが先立ってしまうところで、神さまに出て来ていただいて、うまく導いていただこうというわけです。そこには、神の御前で、自らの責任において応えていこうという、キリスト者の自由はありません。あるのは、恐れです。不安です。そこでちょっと何かに後押ししてもらいたいという考えがあるのです。それは、そういう意味では占いと何ら変わりありません。この占いというのも、最近ではどんな小さな雑誌にも、朝のテレビ番組にも必ずといってもいいほど載せられています。それだけ、この世界の人々は何かに後押ししてほしいという思いがあるのでしょう。そんなものは、自分に役に立たない事は分かっているなどと言いながら、気にして見てしまう。運勢だとか、手相だとか、血液型、星座ありとあらゆる占いがあって、こういうものを書く人が商売として成り立つ世の中です。キリスト者もせっかく本物の神さまがいるのだからと、その神様に登場いただいて、自分の決断を支えて貰おうとすることの何が悪いかと考えるのは非常によく分かるのです。まして、「みこころ」を求めているのであって、自分の思いではないのだからと言うことだってできるのです。そう言いながら、自分の決断を、他のものに押しつけようとしてしまうのです。自分の責任において決断するのはしんどいことだからです。不安が伴うのです。私たちはそこで自分の弱さを気づかずにおられません。そういうところで使われる「みこころを」という言葉は、神の名を借りた、自分の決断を後押ししてくれる何かということでしかありません。それは、決して神の心でなくてもいいことになる危険が、そこには伴うのです。

主イエスがなぜ、ここで「みこころを求める」という祈りを私たちに教えられたのかというと、主イエス御自身が誰よりもこの私たちの弱さをご存じだからです。私たちはどうしても祈る時に、自分のことを考えてしまうのです。そういう意味では自分というところから本当に自由になって祈るということは出来ないと言っていいほどです。当然そこで起こるのは葛藤です。自分の思いと神の思いというのは同じではないということが祈りの中でこそ明らかになるのです。そうすると、どうしたって自分の願いを神に聞いていただきたいと思うし、自分の決断も、自分が安全に、幸せに生きるために神にお助けいただきたいと思う。そのような弱い私たちが、自分の思いを持ちだしながら「みこころがなりますように」と祈るというのは、格闘以外の何ものでもないのです。
おそらく、そのために大抵の場合は、この祈りを真剣に祈ろうという思いに残念ながらならないのです。神の「みこころ」と私の「おこころ」というものが遠く離れていることを私たちは知っているのです。

けれども、そこで私たちがどうしても見つめなければならないのは、主イエスが十字架につけられる前になさったあのゲッセマネの祈りです。
マタイの福音書第26章36節以下にこの主イエスの祈りの姿がでてきます。全部お読みしたいのですが、今はその時間がありません。このゲッセマネにおいて主イエスは三人の弟子たちを傍らにおいて祈られました。祈る時に、この弟子たちにこう語られました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしと一緒に目をさましていなさい。」と。十字架を目前にしておられた主イエスはここで一人の弱い者として祈りをしておられます。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と言う言葉の中に、この祈りがまさに格闘の祈りであったことがよく分かります。十字架で死ぬことを、神から引き離されることを、主イエスは恐れたのです。その祈りはというと、こう記されています。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」。
ここで主イエスの願いが明らかになります。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」主イエスは十字架の刑にかけられることを拒みたいと思っておられたのです。けれども、神のみこころは十字架の死です。それで、祈りにおいて、自分の心と神の思いとが衝突するのです。心の中で葛藤が起こっているのです。主イエス御自身が十字架にかかることを、自分の願いは「この杯が取り除かれること」だとしながら、神の思いと異なることに苦しんでおられるのです。その姿をわたしたちに示してくださっているのです。
私たちはそこで勘違いをしてしまうことがあるのですが、この主イエスの祈りは諦めの祈りではなかったということです。諦めてしまったのは主イエスではなく、むしろこの祈りを共に祈ることの出来なかった弟子たちなのです。祈っている間に眠くなってしまう、祈りに熱が入らない、気が入らない、そのうちに祈りが祈りでなくなってしまうという経験を私たちはすることがあるかもしれません。そのような祈りがこの時の弟子たちの祈りの姿でした。藁をも掴む思いで祈りながらも、祈りが聞かれるのかどうかも分からないまま祈っているうちに飽きてしまう、諦めてしまうということが起こる。そうして祈る意味が見出せなくなることが、何と多いことかと思うのです。
主イエスはここで諦めていないのです。自分の意思を神の御前に注ぎ出して祈っておられるのです。そういうところが、この祈りの格闘が生まれるのです。

最初に紹介したフォーサイスの言葉をもう一度思い出したいと思うのですが、「あらゆる祈りの中で、真の祈りは『神よ、あなたのみこころがなりますように』という祈りである」と言いました。祈りは、つきつめるとこの祈りに集約されてしまうということを、フォーサイスは語っているのです。祈り始める時、私たちは、自分の願いが自分の心を支配してしまうということが起こります。そして祈り始めるのですけれども、祈る中で、自分の願いと神の思いとがぶつかる。格闘する。そうしていきながら、あなたの心が、神の心が行われることが最善であるという思いに至るようになる。自分の願っていることよりも、神が願っていてくださることの方が最善に違いない、とその格闘の中で気づくからです。神が、私に最善をなしてくださると信じる。こうして、この祈りの中で私たちは神への信仰に導かれていくのです。ですから、この「みこころが行われますように」という祈りを祈るということは、諦めの祈りをするということではなくて、神のお心を、神の私たちに向けられている愛を知る祈りとなるのです。祈りながら、その祈りにおいて神と出会う時に、私たちはそこで平安を得るのです。このお方に任せてみようという信仰が生まれる、そして、自分の願いから自由になるのです。

そういう意味では、このみこころを求める祈りは、自分の生活が神のものとなることを求める祈りになるのです。私たちの生活が神のものとなるときに、私たちはそこで自由を得るのです。自分の願い事からさえも解き放たれて、神が私を支配して下さっているから、私は自分の人生の決断も勇気を持って決断することができる。結果を恐れないで決断することができる。そのような真の自由を得ることができるのです。
私たちの日ごとの生活は、本当に様々な決断の繰り返しです。自分の進路や結婚というような大きな決断だけではありません。今夜は何を食べるか。何を着るか。そのような決断まで、神は私たちのその日常の歩みに自由を与えてくださるのです。そのような小さなことにまで神は目を向けてくださってくださる。神は私の決断を、私の思いが何であるかを知っていてくださる。だから、わたしは主への信頼を込めて決断することができるという自由を得るのです。

この第三の祈りはこうです、「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」
神のみこころが行われるように、天でも地でもという祈ります。つまり、この祈りは自分のことだけに限られた祈りでもないのです。古代の神学者アウグスティヌスもこの主の祈りの大変素晴らしい解説の書物を書いています。この人は三世紀、四世紀の人です。ですから、この時代に教会がどのようにこの主の祈りを受け止めていたかが分かるのですけれども、アウグスティヌスはここで大変興味深いことを語っています。この祈りは、罪人もまたそのようになりますようにという祈りだというのです。神を信じている者が、神のみこころが行われることを願うだけではなくて、神を知らない者もまた、神のみこころを行う者となりますようにという祈りであると。アウグスティヌスはこれには二つの解釈があると言っています。一つは、「罪人が回心しますように」という意味が含まれているということで、もう一つは「その人が受けるべき報いが与えられるように」という意味だというのです。前半は良く分かるわけですけれども、二つ目はこういうことだというのです。罪人がこの地において好き勝手生きている、その地上での生活の報いが、天で正しく行われるようにということも考えられると。
今日ではそのように、この祈りが説かれることは無くなったと言っていいと思います。これは、罪人にも正しい裁きが行われる祈りでもあるというのはこの聖書が語っている内容を超えている気がします。けれども、この祈りは自分の事だけを考えるのではない、自分の周りに生きている人のことも考えて祈るのだということは、忘れられてはならないだろうと思うのです。自分さえ正しく生きていたらいい。自分は神と共に生き、祈りをしていればいいということではないと思うのです。この祈りは常に「私たちの父」に向かって祈られている祈りである以上、祈る時には、私たちの周りに一緒に生きている人が、神のみこころを求めて、神から自由を与えられて生きることができるようになりますようにと祈ることも忘れてはならないと思います。

この祈りは、私たちの生活の中心におかれるべき祈りです。ですから、私たちは日毎に、祈りの中でこの主の祈りを祈るということがどうしても大事になってくるのです。私たちは、この祈りを祈ることによって、自分の信仰を主の前に整えることになるからです。自分が我がままになっていることも、自分勝手な祈りばかりしていることも、この祈りを祈ることによって格闘しながらも、祈る心が整えられていくのです。そうして、祈りの生活において、神と共に生き、隣人と共に生きるという、私たちに与えられている神の救いの喜びを感じることができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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