2010 年 8 月 8 日

・説教 主の祈り「日毎の糧を」 マタイの福音書6章11節

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鴨下直樹

この「日毎の糧を与えたまえ」という祈りは、私たちにとっておそらく最も身近に感じる祈りだと思います。この祈りはこの時代に生きる私たちにとってますます身に迫る祈りとなっているといえるかもしれません。この主の祈りについては、さまざまな時代に語られてきました。特に、私たちの国においても、いわゆるバブルと言われた時代、経済的な心配をそれほどしなくてもよい頃の説教というのは、多くが、私たちはこの祈りをしなくても食べるものには困らないけれど、それでもこの祈りを祈るのは何故か、という問いを持って語られることが多かったのです。ところが、このところの先行きの見えない経済、増え続ける税金などによって、もう一度この祈りが切実な響きを持つようになってきたと言えます。
このように、この日毎の糧を求める祈りというのは、必要が満たされるようにという祈りとして単純に理解すれば、私たちの生活の中心に置かれた祈りであると言えます。そして、この祈りが主の祈りの中の中心に位置しているのも偶然ではないだろうと思います。
礼拝の中で主の祈りを祈りながら、ここでようやくほっとすることができるということもあるのではないでしょうか。ここからが、私たちの日常の祈りであると感じるのです。確かに、この主の祈りは二つに分けることができると言われています。前半は神を讃える祈り、神についての祈りです。そして、ここから始まる後半部分が、私たちの祈り、私たちの生活に関する祈りであると理解することができるのです。

そこで、私たちはよく考える必要があるのですけれども、なぜ、罪の赦しを求める祈り、試みに対しての祈りに、この日毎の糧を求める祈りが先立っているのかということです。日々の糧というものは、私たちの生活の必要というものが、罪の赦しよりも先に、祈らなければならないことなのかどうかということです。
この日本語の聖書では「糧」というふうに訳されておりますけれども、例えばドイツ語の聖書などには「パン」とはっきり訳されております。これは、「主食」ということです。日本なら「お米」としてもいいようなものです。私たちが生きていくために必要なものです。私たちは時々、「飯を食って行くためには、働かなくてはならない」などと言います。やりたくないような仕事であっても、ご飯を食べていくためには仕方がないことだと。そのように口にされる場合に、「ご飯」やあるいは「パン」という生活の糧を得るという事、そこには少しの悲しみが含まれて語られています。そこには「仕方がない」という響きがあるのです。

食べるために仕事をするというのは当然のことです。それは、誰もが認めることです。使徒パウロも、自身の書いた第二テサロニケ人への手紙の中で、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」(3章12節)と勧めています。この時代に仕事をしないで、教会で行われていた配給だけを頼りにしていた人たちが実際にいたのです。そこにいた人たちの中には、神さまが食べさせてくださるのだから働かなくてもいいだろうと考えたのです。
私が高校生の頃のことです。父が牧師をしておりましたから、教会堂に住んでおりました。子どもの頃住んでいた教会は、駅から近かったこともあって、時々お金を恵んでほしいと尋ねてくる人がありました。その時、たまたま家に私しかおりませんでしたので、高校生の私が話をしました。見ての通りの生活をしているので、お金を分けて欲しいというのです。高校生の私にもお金はありません。けれどもそこで、先ほどの聖書の箇所を読みまして、聖書はちゃんと働くようにと勧めている。申し訳ないけれども、ただお金をあげるなどということはできないと言いました。すると、その方は非常に憤慨しながら、施しもできないなら教会の看板を下ろしてしまえ、と捨て台詞を残しながら去って行きました。まだ、働いてもいない高校生に言われたのでは腹が立ったのだろうと思います。気持はよく分かります。しかし、意外に多くの方が、この方のような考え方をしていることがあるのです。教会というのは、困った人を助けるところ、施しをするところであると。(もちろんそれを否定する必要はありませんけれども、それが教会の姿というわけではないのです。)むしろ、聖書はここではっきりと働くということを語っています。なぜかというと、働くということは、いやいや生活のために食べていくためにするものなのではなくて、神からの祝福だからです。神が私たちの労働を祝福してくださることを、私たちは働くことを通して知るのです。このように、パウロは労働して糧を得るということの大切さをここで語っているのです。

私たちは、生きていくためには、食べていかなければならないと考えます。そこで、このパウロが語っているような労働の中にある祝福ということがよく分からないということが起こります。そうすると、生活のために働くというのは、何か神さまを期待していないような、俗な生き方なのではないかという問いが心の中に残るのです。生活のためにだけに集中して生きているというのは、生きがいのない生活のような気がするのです。そして、そこから、自分の生き方に対する自信のなさのようなものが生まれてきてしまうのです。
先日も特別伝道礼拝での加藤先生の説教の中にもこんな話がありました。鎌倉の教会にいた時に、ドイツの神学者であったマルクス・バルト先生がお見えになった時、教会で自己紹介をした。そこで、一人の方が、「私はただの主婦です」と言った。すると、このバルト先生は、その「ただの」という言葉を取りなさいと言ったということでした。そこで言われたのは、「あなたが、家で病の夫をささえるために仕事ができないという思いで家庭に生きることと、加藤牧師が牧師として働いていることとどこに違いがあるか」と。どんな仕事をしていても、主の前に生きているのであって、その労働に貴いものと、卑しいものがあるということではないということを教えられました。この先生が教えたかったことも同じです。労働は神からの祝福なのです。まして、愛する者のために生きるとなればなおさらのこでしょう。それが、自分の願うような働きができず、夫の介護をするということであったとしてもです。神がそこにその人を置き、神の祝福を味あわせてくださるのです。ですから、この祈りがここで、罪の赦しや試みに対する祈りに先立つようにして祈られているのは、私たちが神によって生かされていることを覚えることがそれだけ重要だということを意味すると考えられると思うのです。

この朝は、主の祈りの聖書に先立ちまして、共に出エジプト記の第16章6節以下の御言葉を聴きました。ここは、イスラエルの人々がエジプトからモーセに導かれて出て来て、荒野で四十年の間旅を続けていたときの出来事です。食べ物もなく、ひもじく感じたイスラエルの民は、エジプトにあのまま残っていたら今ごろは肉だって食べられたのに、こんな荒野に連れ出されてしまったと文句を言い始めます。主はこの声をお聞きになって、朝にはパンを降らせ、夜にはウズラが飛んできて肉を食べることができるようにしてくださいました。ここでは、神、主はイスラエルの人々に食べ物を備えてくださったのです。まさに、日毎の糧です。ここで、覚えなければならないことは何でしょうか。それは、私たちの生活というのは、主によって支えられているということです。主によって生かされているということです。神はここで、労働の結果としての糧ということではなくて、イスラエルの民をエジプトの奴隷であったところから贖い、解放し、救いを与えたということは、イスラエルの人々の命そのものを贖ったのだから、救ったのだから、その命は神が支えてくださるのだということを、目に見える形で示して下さったということができるのです。

そこで、思い返していただきたいのですけれども、主イエスが宣教を開始される前に、四十日の断食の後で悪魔の試みにあわれました。四十日の間、主は荒野において悪魔との試練に立ち向かわれました。そこで最初にあわれた試練、試みは何であったかというと、パンの誘惑でした。悪魔はここで主イエスに対して、断食をして空腹なのだから、石をパンに変えたらよいではないかと主イエスを試みたのです。そこで、主イエスがお答えになられたのは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」ということでした。ここで、主イエスの考えがさらにはっきりしているのですけれども、自分の力で糧を得ると私たちは考えてしまいがちなのですけれども、私たちのいのちは、自分の労働の力、自分の働きによってではなくて、神にいのちが支えられているということです。確かに、私たちの生活は糧によって、パンによって支えられます。けれども、それは一面的な部分に過ぎません。私たちはただ、ご飯を食べていけれるということだけで、生きているとはいえないのです。自分が何のために働いているか。自分の仕事に意味を見出すことができるのは、ただ、自分が納得した仕事をしているというようなことに留まるものではないからです。神は、私たちの生活そのものをよりよいものとするために、私たちに救いを与えてくださるのです。そのために一つ一つの言葉を持って語りかけてくださるのです。生きる意味を見出すこともできずに、奴隷として働かされてきたイスラエルの人々の心の中にあった思いは、まさにここにあったといえます。強制的な労働をさせられながら、そのような労働の中で、自由を奪われた人々は神から救い出されることによって、自分が何のために生かされているかを知るようになりました。新しい約束の国で、神の国で自分たちの新しい生活が待っている。そのために、神は、イスラエルのために生きるため言葉、十戒を与え、また朝も夜も食べ物を与え、いのちを支えてくださいました。神が自分のいのちを支えてくださるのです。自分は、この神に救われて神のものとされた。「人は、パンだけで生きるのではない。神の口からでるものによって生きる」と主が語られた時に、これを聴いた人々は、自分はこの神の言葉によって、自分が神のものとさていることを思い出すことができたのです。

主の祈りのこのところは新改訳ですと「日毎の糧を」と訳されています。1880年訳といわれるもっともよく知られている文語文の主の祈りでは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」となっています。「日用」という言葉で訳されていました。この「日毎の」という言葉は実に不思議な言葉でして、聖書の中にもここで一度だけ使われている言葉です。ですから、意味がはっきりしないのです。「日毎の」とか「日用」というのは、その言葉の意味を色々と考えながら、苦心して訳された言葉です。ですから、未だにはっきりした意味は分かっていないと言われています。ただ、最近になって、この言葉と同じ言葉が見つかりました。それは、この時代のある主婦が買い物のメモ書きにしていたものが見つかって、そこにこの言葉が使われていた。そこには忘れてはならない買い物というところにあったということです。それ以外のことは良く分からない。そこで、今日言われるもっとも有力な説明は、今この時に必要なということではなくて、今さしあたって次の時に必要な、という意味であろうということです。朝祈るのであれば、昼のための、夜祈るのであれば、明日の朝の必要な糧を与えてくださいという意味であっただろうというのです。
そこで私たちが考えなければならないのは、これから先の歩みをも主のものとしてください、という祈りであるということだということです。今この時のことだけでなく、漠然とした自分の生涯ということでもない。一歩一歩着実に主のものとして生きていくことができますようにという祈りだということです。
今、祈祷会で信徒の方々がそれぞれに自分の御言葉の体験を語ってくれています。大変豊かな時間です。その中で、どの方の話の中にも共通していることがあります。それは、それぞれの歩みが、主に着実に支えられて、今日まで生かされて来たということです。看護師として働いておられる方の証しを聴きました。自分が聾(ろう)として生きて、聞こえないという生活の中からどのように信仰に導かれたか、あるいは韓国語の教師となるまでの決断、自分の子どもたちとの関わりから、牧師となるために決断するまでの家庭を親として見て来られながらの主の働き、実に豊かな話を聞くことができました。どの話を聞いてもそこにあるのは、主のものとされているということです。私に必要なものはパンだけではない、あらゆる主の助けです。その主からの助け、いや救いそのものを、今日も、朝も、昼も、夜も、与えてくださいという祈りの中で、養われてきたそれぞれの生活があるのです。

その神に与えられた毎日の歩み、日毎の糧を求める歩みというのは、自分だけに与えられればよいということではありません。わたしにあるように、あの人にもという祈りになる。それで、この主の祈りはここからもう一度「私たちの」という祈りの言葉になっているのです。
先週も紹介しましたけれども、古代の神学者アウグスチヌスの言葉の中にこういう言葉があります。
「身分の高い者も、身分の低い者も、ともに神に向かって『我らの父よ』、(『私たちの父よ』)と呼ぶのである。もし、お互いにこのことを認めないならば、真実に祈ることはできない。」
この言葉を読みながら、私自身様々なことを考えさせられるのです。アウグスチヌスの生きた時代というのは三世紀、四世紀という時代です。ですから、当然まだ奴隷制度が残っていた時代でした。そして、教会には、奴隷の主人も、また奴隷も共に教会に集うということがありました。そうすると、ここで「私たちの日毎の糧を」と祈るのは、今日よりももっと切実な響きがあったと思うのです。主人は僕に対してしっかりとその務めを果たさなければ、こう祈ることができないからです。しかも、その奴隷は主人に願うのではなく神に祈っている。面白くないという思いになる主人は多くいただろうと思います。
今日でも時々冗談のように語られることですけれども、キリスト者の妻が、御信者のご主人の前で食前の感謝の祈りをささげる。「父なる神よ、この日の糧を感謝します。」と。すると、ご主人はその祈りを聞きながら、感謝するのは俺の方だろうと心の中で思うと。これは、冗談のように語られることが多いのですが、世の主人にしてみれば、当然いだく思いだろうと思うのです。神に感謝しながら、主人に感謝しない。そうであると、その主人は自分が阻害されているように感じるのは当然のことです。主人も、共にこのように祈ることができるとしたら、それは何という幸いなことだろうかと思うのです。お互いに心が神に向かい合うならば、私たちは互いに神に支えられている、神のものとして生かされているとして、同じ方向に向かって生きることができるのです。そのように、神がこの伴侶を与えてくださっているという感謝もまた当然覚えられるべきことです。
私たちがこの祈りを「私たち」の祈りとして祈ることは、私たちと一緒に生きている人たちのことを当然念頭に置いて祈られるべきです。その人が、キリスト者でなかったとしてもです。私たちに、今日、これから先に必要なものは、あなたからの糧、あなたのすべてです。私も、私と一緒に生活している家族にも、私たちの周りの人々も、この神からの糧によって生きることができるようにさせてください。神からの糧をいただくことができますようにという祈りです。

それで、この祈りは昔から単なる「パン」の祈りではなくて、この「パン」は「神の御言葉のパン」、「心の糧」などと言われてきました。それは、間違いではないと思います。神から私たちはすべてのものを頂くからです。そして、その神から頂くものの最も大きなものは、神の救いです。この神によって救われて生きる。神に自由を与えられて、新しい人として生きる。ここに、全ての人の幸いがあるのです。

私たちは祈ります。「私たちの父よ、私に与えてくださった神の救いを、神の言葉を、そして、日毎の生活の必要にいたるまで、すべてのものを、今日も、この朝も、夜も、与え、私たちとともに生きている人にもお与えください」と。 この祈りを土台として、私たちの主と共にある生活は築き上げられていくのです。

お祈りをいたします。

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