2025 年 4 月 6 日

・説教 ルカの福音書16章19-31節「ある金持ちの末路」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:10

2025.04.06

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 今日の聖書の箇所は、「金持ちとラザロの譬え話」です。この箇所は前回の14節に出てきた「金銭を好むパリサイ人たち」に向けて話しておられる箇所の続きです。

 ここに二つの生き方が示されています。誰もが羨む金持ちの生活と、誰もが蔑みたくなる貧乏人の生活。この二人の正反対の人物を対比しながら話をしています。しかも、主イエスの話は、この金持ちは悪人で、貧乏人の方は善人であったとも書かれていません。考えてみますと、私たちの人生でも同じようなことが起こります。この二人の違いがどこにあるのか考えてみると、この二人には境遇の違いがあるわけです。どういう家で生まれたか。誰と出会ってきたか。何を学び、何を経験してきたか。そこで、大きな違いや差がでてくるわけです。

 どの世界でもそうですが、そこには成功した者と、失敗した者がいます。そして多くの人は、成功した者を尊敬し憧れを抱き、そのようになりたいと思うのです。書店には成功者の本が並び、自分の体験談の本はよく売れます。これらの本は前向きに生きることを教えてくれるのです。例えていうならば、料理のレシピのようなものです。こうすれば美味しく作れますよ! というわけです。そして、それがこの世界の一つの価値観なのです。

 ここには金持ちと、貧乏人が出てきますが、これは他にも何にだって例えることができます。「健康な人と病の人」「心の強い人と弱い人」「商売の成功と失敗」、結婚、子育て、進路何でも良いのですが、この世界の人は誰もが、失敗するよりは成功する人生を夢見るのです。もちろん、それは決して悪いというわけではありません。ただ、私たちの世界が、この成功者は勝者であるという価値観で支配されてしまっているのが問題です。

 もちろん私たちはこれほどまでに単純化された生活をしていないかもしれません。中庸を生きるという生き方だってあるはずです。ただ、主イエスのこの譬え話は、まさに私たちが生きている世界の、成功者はお金持ちになるという価値観を問題にしています。

 この主イエスの譬え話は三幕まで準備されています。

 第一幕は、生前の二人の生活ぶりです。金持ちの生活と貧しい人であるラザロの生活ぶりです。

 第二幕は、二人が死んでからの姿です。それは生きている時とは正反対で、死後には貧しい人は神のみもと、ここでは「アブラハムの懐」と呼ばれるところにいて、金持ちは「炎の燃え盛るよみの世界」にいるというのです。

 そして、第三幕では、よみの世界にいる金持ちが、何とか家族までがここに来ないようにしてほしいと頼み込みますが、もうすでに聖書があるのでそれで十分という結論で終わっています。

 主イエスはお話のとても上手なお方です。この世の人々の多くは、今の人生のことだけを考えて生きています。その先のことがあるなんてことはあまり考えていません。考えていたとしても、多くの人はきっと自分は天国に行けると考えていることが多いのでないかと思うのです。昔はお寺の和尚さんから、死んだら閻魔様のところで生前の罪の刑罰がくるからという話を聞かされたものですが、最近はそういう話もあまり耳にしません。教会も、それほど死後の裁きの話をしなくなりました。

 というか、旧約聖書を読んでいるとほとんどこの死後の話は描き出されてもいなかったのですが、主イエスはここで急にこんな話をなさったわけです。即ち死んだ後で自分の人生がひっくり返ることがあるのだという話をなさったわけです。

 私たちは、誰にもある日死が訪れます。早いか遅いかの違いはあったとしても、それは誰にも等しく訪れます。

 興味深いのは、主イエスのこの話は、ここで貧しい人として描かれているラザロの生前の信仰が語られていないことにあります。ラザロは実はとても信仰深い人物だったのだと書かれていれば、この話の意図は明白になるのですが、ここでは金持ちとラザロの違いは最初に話したように「生い立ち」や、その後の「人生経験」以外にはないかのように感じられます。表面上は、です。

 そこで、もう少し丁寧にこの聖書の箇所を考えてみたいのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 30 日

・説教 ヨハネの福音書15章16節「私が牧師になったわけ 〜憧れの福音〜」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:41

2025.03.30

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 今日は進級式の礼拝ということで、子どもたちや学生たちも一緒にこの礼拝に集ってくれています。できるだけ難しい話はしないで分かりやすく話したいと思っています。

 先ほど楽しいスキットを見ました。最近は「推し活」と言うんでしょうか。皆さんにも、いろんな「推し」というのがあると思います。「推し」というのは、念の為に説明しておくと、その人がハマっているものや、人のことをさします。アイドルだったり、ゲームのキャラクターだったり、YouTuberだったり、いろんなものに夢中になって「推し活」なるものを始めるわけです。

 私が子どもの頃とてもハマったものがあります。それは、今で言えば「推しのゲーム」であったわけですが、それが「ドラクエ」と呼ばれるゲームでした。シナリオも絵も音楽も、そのゲームの世界観に当時小学6年生の私は夢中になったわけです。あまりにも夢中になって、いつか自分はゲームクリエイターになりたいとさえ思うほどでした。

 そんな具合でしたから、小学生の時も、中学校に入ってもゲームでよく遊びました。中学生になってから夢中になったものも沢山あります。中学では卓球部で、卓球にのめり込みました。音楽も中学生の時は洋楽にハマりました。マイケル・ジャクソンから始まって、いろんなアーティストにハマり込みました。でも、これらは今の推し活とは少し違うような気もします。

 それで、「推し活」の意味を調べてみると「自分にとって一押しのキャラクター(推し)を様々な形で応援する活動のこと」と書かれていました。調べてみて気づくのは「推し」は「キャラクター」なんですね。もちろん、それがアーティストであることも多いわけです。私の場合は、特定のキャラクターというよりも、たとえばゲームであればその世界が全部好きという感じだったのかもしれません。

 推し活にもいろいろあるんだと思います。好きなキャクターの缶バッチを集めたり、アクスタと呼ばれるそのキャラクターの描かれたアクリル製のスタンドを集めたり、ぬいぐるみやフィギュアを集めたり、あるいはそのキャラクターの出るコンサートや催しに参加したり、実にさまざまな応援の仕方があるようです。

 私の子どもの頃は推し活ではなかったわけですが、好きなものに夢中になってそれにのめり込んでいきましたので、勉強もあまりしませんでした。それでも毎日楽しかったのをよく憶えています。

 ところが、中学も2年生が終わり3年生になりますと、だんだんと現実的な問題が差し迫って来ます。自分がどういう道に進んでいくのかということを考えて決断していかなくてはならないわけです。その時点で、自分の進路を考えると気分が落ち込み始めます。それまでは、毎日とても楽しいことばかりだったのに、自分の現実が突きつけられるわけです。勉強をしてこなかったつけが回って来ます。というのは、高校を選ぶにあたって、私には選べる選択肢が無いことに気がつくようになるわけです。

 そうなると今まで自分の毎日を楽しくしてくれていたゲームや音楽が、実は自分の足を引っ張っているんじゃないかと感じ始めるわけです。でも、大好きですからそんなに簡単には捨てられません。

 思うに「推し活」というのは、普段頑張っている自分が、いろんな壁や問題に直面する中で、小さな慰めや希望を見つけ出して私たちにちょっとした希望や勇気をくれるものだと思うのです。その中にはさまざまな形で「憧れ」と呼べるものが存在しているはずです。そこには、自分の「こういうものが好き」という自分の中にある例えば「応援したい気持ち」だったりが隠れているわけです。

 中学3年生の時の私は、自分のことがよく分からなくなっていました。一所懸命に励んできた卓球部の部活は3年の春までは100人の生徒の中でわずか数名しか選ばれないレギュラーでした。けれども、夏の大会の直前で調子を落としてレギュラーから外されてしまいます。そこからやる気が失われていきました。勉強も全然していませんでしたから、進路を決める時に私が希望を出した高校は、担任の先生から100%落ちるからやめておけと言われる始末でした。

 それでも私には一つの希望がありました。それは、聖書の中に出てくるソロモンという王様の話です。ソロモンは、自分は王様にはなれないと自信が無かったのですが、神様にお祈りすると、神様から知恵を与えられて立派に国を治めた王様です。あの頃の私には、この聖書の話だけが希望でした。私はこのソロモン王にどこかで憧れていたのだと思います。それで、勉強もしないで毎日真剣に神様に「どうか、ソロモンのように頭を良くしてください」と祈り続けたわけです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 23 日

・説教 マルコの福音書5章21-34節「長血の女性」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:58

2025.03.15

内山光生

イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

序論

 今日の箇所から次回の箇所にかけて、イエス様による二つの奇跡が記されています。そして、この二つの共通のテーマは、「信仰による癒し」となっています。人間の力ではどうすることもできない、そういう病にかかって苦しんでいる人が、「イエス様なら癒すことができる」という信仰によって、癒しがなされていく、そういう場面です。また、これらの奇跡は、病気の癒しだけでなく、魂の救いをもたらすことも強調しています。

 この事は、別の聖書箇所に記されている「神様が一方的に救い出して下さる」との教えと矛盾しているかのように思えるかもしれません。けれども、それは強調する部分が異なっているだけであって、私たちがイエス様を信じるようになるかどうかは、やはり、神様による導き、あるいは聖霊の働きがあるかどうかにかかっている、そういう点では、全く同じだと言えるでしょう。
 

I ヤイロの娘のところへ向かう主イエス(21~24節)

 21~24節から順番に見てきます。

 これらの箇所は、次回に詳しく取り扱いますので、簡単に説明していきたいと思います。

 ヤイロという人物が出てきています。この人は会堂司という立場にあります。ユダヤ人の会堂では安息日ごとに礼拝がささげられていましたが、その礼拝に関する責任を任されていた人です。そのヤイロという人が、イエス様の下にやってきて「死にかけている自分の小さな娘を助けてほしい」とお願いをしたのです。

 その願いに応じるために、イエス様はすぐさま、ヤイロの娘のところに向かわれたのです。ところが、その途中で、大勢の群衆がついてきたのでした。

II 長血の病で苦しんでいた女性(25~26節)

 25~26節に進みます。

 イエス様が、ヤイロの娘のところに行かれる途中で、別の出来事が起こりました。長血をわずらっている女性が出てきています。長血というのは女性特有の病であって、血が止まらなくなるという症状があるようです。これが現代医学において、どういう病なのかは専門家の目から見れば幾つかの候補を挙げることができるかもしれません。でも聖書には、具体的な病名までは記されていませんので、あくまでも「血が止まらなくなる病気」と理解しておけば良いでしょう。

 この女性は、12年という長い期間、病で苦しんでいました。その間、いろいろなお医者さんに診てもらったのですが、しかし、医者代がかかるだけであって、治ることはありませんでした。それどころか、かえって悪い状態となっていたのです。

 今の時代では、少なくとも医療が発達している国々においては、このような事はめったに起こらないのではないかと思うのです。一つの病院で原因が分からなかったとしても、別の病院に行く、あるいは、評判の良いお医者さんの下に行けば、何とか治療をしてもらえる、そういう可能性が高いからです。例外的には、いわゆる難病と呼ばれているものだとか、腫瘍が末期的な状態になっている場合は打つ手が無い場合もありますが、そうでない限りは、何とかなるのが今の医学の現状だと思うのです。

 しかしながら、イエス様の時代においては、この長血という病を治すことができるお医者さんが、ほとんどいなかった、そういう時代だったのだと思われます。この女性は、自分にできる限りの事をやりつくしたのです。多くのお医者さんに治してもらうことを期待したが、もう治療してもらうお金も無なってしまった。こうして、病気による苦しみと経済的な苦しみを味わっていたのです。更には、彼女は堂々と多くの人々の前に行くことができない、そういう立場に立たされていました。

 というのも、旧約聖書の教えによれば、「血を流している者は汚れている」とみなされていて、多くの人々の前に出ていくことが禁止されていたからです。今の時代でも、伝染病にかかった人が強制的に隔離されるように、イエス様の時代においても、血が止まらなくなっている人は、人々との距離を置かなければならなかったのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 16 日

・説教 マルコの福音書5章1-20節「良い知らせを伝えなさい」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:22

2025.03.15

内山光生

しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」

序論

 今日の箇所は、いつもより長めとなっています。よく知られている出来事ですので、「あっ、この箇所か」と思う方が多いのではないかと思います。全体が長いということもあって、あまり細かい所までは見ていくことができないですが、なるべく丁寧に解説していきたいと思います。

I 汚れた霊につかれた男性(1~5節)

 まず1節から5節を見ていきます。

 イエス様と弟子たちは、ガリラヤ湖を渡って反対側の岸、すなわち、東岸にやってきました。到着した場所はゲラサ人の地と呼ばれていました。その地は、いわゆるユダヤ人ではなく異邦人が住んでいる地域でした。それゆえ、今までに経験した事のないような困難やトラブルが起こる事が予想できたのです。

 ゲラサ人の地においてイエス様と弟子たちを待ち受けていたのは、汚れた霊につかれた人でした。イエス様は、以前にガリラヤ地方において、多くの悪霊で苦しんでいる人々を解放してきました。けれども、今回の場合は、今までとは様子が異なっていました。すなわち、すでにイエス様が助けてきた人々よりも、遥かに状態の悪い人と出会ったのです。その汚れた霊につかれた人は、なんと墓場に住みついていたのです。

 どこの国においてもそうなのですが、墓場というのはさみしい場所であって、その周辺にはあまり人が住まないものです。もちろん、住宅街の一角に墓場がある、そういう場所もあります。また、お寺さんの敷地内に墓があったりしますが、一般的には、墓場の中に住みつく人というのは、めったにいないのです。

 どうやら、この汚れた霊につかれた人は、あまりにも狂暴で誰かに危害を加える危険があったと思われます。それで、人々が自分たちの安全を守るために、無理やりその人を墓場に連れてきたようです。そして、彼に足かせと鎖をつなぐ事によって、隔離しようとしていたのです。ところが、この人は、足かせと鎖をひきちぎって、辺りをうろついていたのです。彼は墓場や山で叫び続け、更には、石で自分のからだを傷つけていたのです。

 周辺の町や村に住んでいる人は、この人の事で頭を悩ませていたと思うのです。いや、当の本人も、苦しんでいたのだと思うのです。叫び続けたり、自分のからだを傷つけるというのは、それを見た人は、なんとも複雑な思いにさせられた事でしょう。一部の心優しい人は、かわいそうにと思って、なんとかして助けてやりたいと思ったかもしれない。しかし、どうやって助ければいいか分からない、そういう問題にぶちあたった事でしょう。一方、多くの人々は、気分が悪くなると感じて、目をそらしたり、近寄ろうとしなかったと思うのです。

 多くの人々は、不気味な雰囲気を漂わせている人を見ると、距離を置いてしまうのです。ですから、誰もこの汚れた霊につかれた人を助けようとしないし、それどころか、彼を見ると、皆、逃げていく、そういった情景がイメージできるのではないでしょうか。一方、この汚れた霊につかれた人は、孤独な状態にたたされていて、精神的に非常に辛い思いとなっていた事でしょう。

 私たちというのは、どうしても自分や自分の家族の身の安全を大切にしようとします。それゆえ、乱暴で大きな声を出している人とは関わろうとしない、そういう態度を取ってしまうのです。それは、しかたがないと言えばしかたがない。しかしながら、神様は、どのような酷い状況に立たされている人であっても、その人の存在を決して忘れていない、そこに気づくことができればと思うのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 9 日

・説教 マルコの福音書4章35-41節「どうして怖がるのですか」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 10:21

2025.03.09

内山光生

イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」

序論

 先月の2月は個人的な事情によって休暇を頂いたので、久しぶりの説教の奉仕となります。まだまだ寒い日が続いていますが、梅の花も咲き始めており春の兆しを感じる事ができるのではないでしょうか。家庭菜園をしている方は、3月上旬前後といえば、じゃがいもを植える時期かと思います。すでに植え付けが終わった方がいるかと思います。私の実家でも2週間程前に、種イモを3キログラム程、植えつけました。家庭で食べる分には十分な収穫が期待できますが、天候が守られ順調に育つように神様にお祈りをしていきたいと思います。

 さて今日から始まる箇所は、前回までとはテーマが異なっています。前回までは、大きなテーマとしてイエス様が「神の国の奥義」について語られていました。そして、今回からはイエス様の行った奇跡を通して「ご自身がどういうお方なのか」を示そうとしています。けれども、どの奇跡も、奇跡そのものに強調点があるのではなく、その奇跡を目撃した人々がどのような反応をしたかがポイントとなっています。

 すなわち、今日の箇所も、単にイエス様がすごい奇跡を行ったという事ではなく、もちろん、すごい奇跡には違いないのですが、ポイントは弟子たちがどういう反応を示したかにあるのです。そのことを通して、今の自分たちの信仰生活にどのように生かしていけばよいかを考えていきましょう。

I 向こう岸へ渡ろうと言われた主イエス(35~36節)

 35~36節に進みます。

 場面は、ガリラヤ湖です。時は夕方と記されています。その日の昼間は、イエス様が群衆を前にして「神の国」についての解き明かしをしていました。そして夕方になった時に、イエス様は弟子たちに対して「向こう岸へ渡ろう」と命じられたのです。

 それに対して弟子たちは、イエス様の言われた事に素直に従ったのです。イエス様の弟子たちの中には、漁師だった人が何人もいました。だから、彼らが自分たちで舟を操作して反対側の岸に移動することは特に難しい事ではなかったのです。

 確かに、夕方になっているので辺りが暗くて前に進むのに苦労するかもしれない事を予期することはできたでしょう。ガリラヤ湖というのは、山に囲まれた地形ということもあって、突然、嵐がやってくる事で知られていました。けれども、プロの漁師たちが舟を漕いでいるので、大丈夫だろうと思っていたのでしょう。というのも、漁師たちは今までの経験から、大きな嵐が来そうだと感じたならば、舟で移動をする前に「イエス様。今は天候が良くないと思います。きっと嵐がやってきますので、舟で移動するのはやめましょう」と言うことができたと思うのです。そういう判断をしていなかった事から考えると、少なくとも、岸から離れる時には「嵐がやってきそうだ」とは思っていなかったのだと推測できるのです。

II 嵐で怯える弟子たち(37~38節)

 37~38節に進みます。

 どれくらい進んだのでしょうか。イエス様と弟子たちが乗っている舟の周辺に、激しい突風が起こったのでした。そして波が襲いかかり舟の中が水でいっぱいになったのでした。繰り返しますが、弟子たちの中には漁師たちがいました。その漁師たちでさえも、恐怖につつまれる程の嵐がやってきたのです。弟子たちは必死になって、舟の中に入ってきた水を外にだそうとしたと思います。また、舟から振り落とされないために必死で何かをつかんでいたかもしれません。一瞬にして、弟子たちとイエス様は命が危険な状態に立たされたのです。

 ところが、イエス様はこの危機的状況の中にあって、舟の端っこで寝ておられたのです。私たち人間の感覚からすれば、このイエス様の姿は、常識ではありえないと言わざるをえないのです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 2 日

・説教 ルカの福音書16章14-18節「神の国の福音に生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:41

2025.03.02

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 主イエスは話のとても上手なお方です。今日のルカの福音書のこの箇所にも主イエスのお話の上手さがよく現れていると言えます。

 前回の話、不正な管理人の譬え話をなさったあとで、神に対して忠実に富を用いることをお話しになられました。この話を主イエスは弟子たちに向けてお語りになられたわけですが、その話を聞いていたパリサイ人たちは、この話を嘲笑いながら聞いていました。主イエスの話をあざ笑ったのです。それに対して話されたのが今日の箇所です。ここには、主イエスの話の巧みさがよく出ているとても面白い箇所だと言えると思います。

 パリサイ人たちがこの時、主イエスの話を聞いて、なぜ笑ったのかというとパリサイ人なりの理由があります。それは、申命記28章にも書かれているのですが、イスラエルの民が主の戒めを守り従うなら祝福されるという約束があります。それで、ユダヤ人たちは仕事が成功して富を得るのは神からの祝福のしるしだと考えていました。それなのに、主イエスは「神にも富にも仕えることはできない」と言われたので、それはおかしいと考えたのです。この考え方に関しては、パリサイ人たちは自信を持っていたと思いますし、実感でもあったのだと思うのです。

 富を得られるのは神からの祝福のしるし。パリサイ人たちはそのように考えていたのです。それなのに、主イエスは富のことを「不正の富」と言ったり、「この世の富」と言ったりして、神と富を別々のものとする考え方を示されました。この話を聞いて、パリサイ人たちは主イエスの考え方には同意できない、これは神の考えに反する教えだと考えて嘲笑ったのでした。

 それで、主イエスはお金の好きなパリサイ人たちに対して話されたのが、この14節以下の話です。この時に主イエスが話された言葉、今日の聖書箇所には少しびっくりする言葉が投げかけられています。15節です。途中からお読みします。

神はあなたがたの心をご存知です。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

 ドキッとする言葉です。「人々の間で尊ばれるもの」でイメージするのはなんでしょうか? 今だと野球は新しいシーズンのための準備の期間ですが、大谷選手の話でいつもニュースは持ちきりです。人々の間で尊ばれている大谷選手は、神には忌み嫌われているのか? そんなふうに考えてしまうと、よく分からない言葉とも言えます。

 主イエスはこのように少しドキッとする言葉を発されて、人々が考えるように促しておられるわけです。 (続きを読む…)

2025 年 3 月 1 日

今月の礼拝予定(2025年3月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 00:47

3月2日 降誕後第10主日

主日主題: 福音
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ルカの福音書16章14-18節
説教:「神の国の福音に生きる」鴨下直樹牧師

礼拝後:誕生月の祈り、役員会

3月9日 受難節第1主日

主日主題: 平安
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「最初の王サウル」内山のぞみ
聖書:マルコの福音書4章35-41節
説教:「どうして怖がるのですか」内山光生牧師

3月16日 受難節第2主日

主日主題: 福音
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「失敗した王様」河合和世
聖書:マルコの福音書5章1-20節
説教:「良い知らせを伝えなさい」内山光生牧師

礼拝後:聖歌隊練習、礼拝準備会/月間予定確認会

3月23日 受難節第3主日

主日主題: 癒し
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「選ばれたダビデ」鴨下愛
聖書:マルコの福音書5章21-34節
説教:「長血の女性」内山光生牧師

礼拝後:教団三月総会

3月30日 受難節第4主日

主日主題: 信仰
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ヨハネの福音書15章16節
説教:「私が牧師になったわけ」鴨下直樹牧師

礼拝後:聖歌隊練習、ゴスペルカフェ

2025 年 2 月 23 日

・説教 ルカの福音書16章1-13節「不正な富の用い方」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:12

2025.02.23

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 私ごとから始めて恐縮なのですが、この一週間この聖書箇所にずいぶんと悩まされてきました。手元にある本を何十冊読んだか分かりません。この聖書箇所は難解な箇所としてよく知られているのですが、実に、さまざまな解釈が存在します。同じように読んでいる人は一人もいないと言ってもいいくらい、それぞれが、まるっきり読み方が違うのです。

 聖書朗読をお聞きになられて、皆さんもこれが何を語っている話なのか、すぐには理解できないのではないかと思います。というのは、聞いていて引っかかる箇所がいくつもあるのです。

 ある管理人が「主人の財産を無駄遣いしている」という訴えから話が始まります。この管理人は「不正な管理人」と8節で命名されています。この「不正な管理人」は、「主人のお金の無駄遣い」がバレてしまって、首を宣告されます。ところが、まだ取引先のお客さんは、その管理人が首になったことを知りませんから、証文を安く書き換えてやることで、恩を売って自分が失職した際に家に迎え入れてもらおうと画策したという譬え話を主イエスがなさいました。どうみても、不正のうえにさらに不正を働いているわけですが、主人は、これを知ってこの「不正な管理人を褒めた」というのです。

 皆さんはこの話を聞いて、どう思われるでしょうか? ここに出てくる不正な管理人というのは、不正に不正を重ねて自己保身のために知恵を使った人物です。ここで主イエスが「この人はやがて裁かれるのだ」とか「こういう人の末路は惨めなものだ」と仰ったのであれば理解することもできます。しかしもし本当に主イエスが褒めておられるのだとしたら、真面目に、誠実に生きようとしているのが馬鹿みたいです。そもそも主イエスがこんなことを仰るなんて、きっと何か理由があるはずで、ここで語ろうとされている福音は何なのかが気になって仕方がないのではないでしょうか。

 主イエスのなさる話というのは、いつもそうですが予想のはるか上をいっている感じがします。「主人がほめた」のだとしたら一体何を褒めたのか? あるいは、そもそも褒められているわけだから、この管理人のしたことは実は悪いことではなかったのではないか? と、それらをめぐって実にさまざまな聖書解釈が存在します。 (続きを読む…)

2025 年 2 月 16 日

・説教 ピリピ人への手紙3章5-9 節「クリスチャンになると得をする!」 田中啓介牧師

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 07:55

2025.02.16

田中啓介

2025 年 2 月 9 日

説教:創世記3章13-21節「あなたはなんということをしたのか」野田喜裕牧師

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:03

2025.02.09

野田喜裕

次ページへ »

HTML convert time: 0.202 sec. Powered by WordPress ME