説教:マタイの福音書 15章1-20節 「神の言葉によって」
2011.9.11
鴨下直樹
「食事をする前には手を洗いましょう」と私たちは小さな時から聞かされています。大事なことです。今から何年か前のことですけれども、夏に学生の長期キャンプというのを行なっていました。マレーネ先生と共に、二十名ほどの学生たちを連れて色々なところに出かけました。そこで、二週間ほどのキャンプをするのです。その年は割合に近いところ、岐阜県の白川郷でキャンプを行ないました。いつもは北海道とか、沖ノ島というような遠い所に出かけますから帰りの準備をするのは大変なのですけれども、白川郷はそれほど遠くありません。それで、キャンプが終わる最後の昼食はバーべキューをして帰ることになったのです。もちろん、みな楽しく食事をしまして、車に乗り合わせて高速道路を走って帰ります。すると、私のお腹の調子が良くない。すぐにお腹が痛くなってしまってトイレに立ち寄ります。パーキングを出て少し走るとまたお腹が痛くなる。私が何度もトイレに走る姿を学生たちはずいぶんと楽しそうに見ていました。誰かが「食中毒ではないか?」と言いだします。食事の準備をしたマレーネ先生としてはそんなことは聞き逃せません。そんなに変なものを出したつもりはないというわけです。すると、別の学生が言うのです。「いや、鴨下先生だけは手を洗わないで食べていた」と。
家に帰ってすぐに病院に行きましたら、残念ながら本当に食中毒ということでした。他の誰もなっていないのに、私だけです。食事をする前に手を洗うというのがどれだけ大事なことなのかを身を持って体験することになったわけです。
しかし、この聖書の物語を読んで慰められるのは、食事の際に手を洗わなかったのは、主イエスの弟子たちだけでのことではなかったようです。どうも主イエスも手を洗っておられなかったのです。主イエスが手を洗っておられたとすれば、その弟子たちも当然手を洗ったはずです。そうしますと、手を洗わなかった私としては少し慰められるところです。
それはそうとしまして、今日の聖書個所を注意深く聞いておられた方々はすでにお気づきのことと思いますけれども、「そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。」と一節に記されています。わざわざエルサレムからパリサイ人や律法学者たちが主イエスのところに来たのです。どうやら本格的に主イエスのことについてエルサレムのユダヤ人たちの宗教指導者たちが調べる必要を感じ始めたということなのでしょう。しかも、その人たちがわざわざエルサレムから何を調べるために来たのかというと、「手を洗って食事をしない」という習慣についてだったのです。
これは一つの想像ですけれども、おそらく、この前に起こった五つの魚と二匹の魚で男の人たちだけで五千人の人々がお腹がいっぱいになったという奇跡の話がエルサレムに届いた。するとそこで、その奇跡をまるでモーセのようではないかと言って喜んだのかというと、そうではなくて、食べる物を手に入れることもできないような荒野で食事をしていて、手を人々は洗わなかったのではなかったのではないかということが気にかかったので、どうもそのことで一言くぎを刺したほうが良いのではないかと考えた。どうもそのために主イエスのもとにエルサレムからやって来たということのようなのです。
私たちにしてみれば、そんな手を洗うくらいのことで、と思うかもしれません。誰かがお腹を壊すのをわざわざエルサレムの宗教指導者たちが気にかけてくれたのかとさえ考えてしまいそうですが、どうやらそういう事情でもないのです。主イエスの一行は大きな間違いを犯しているので改めさせなければならないと思ったのです。このことは彼らにしてみれば衛生上の習慣の問題なのではないからです。彼らの訴えが二節に記されています。
「なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか」。
ここに「長老たちの言い伝え」とあります。新共同訳聖書をお使いの方は「昔の人の言い伝えを破るのですか」となっています。このことばは「昔の人の」と特に訳す必要のない言葉で、たいてい「長老」と訳されている言葉です。つまり、宗教指導者たちに重んじられてきた戒めが「食事の時には手を洗う」ということだったのです。何故かというと、聖い生活、聖なる生活をしたいと考えたからです。この時代の有名なラビの一人の言葉が残されてされています。それによると、その時代厳しい監視をうける囚人であっても、手を洗い、食事に飲む水は送ってもらっていたのだそうです。そして、その食事の際に水のほとんどが不用意にほ流れてしまったとしても、その残りで手を洗い、飲み水は残らないことになったとしても、その囚人は昔の先祖たちの言い伝えを犯すほどなら死んだ方がましだと言ったと伝えられているのです。
日常の生活をしていますと、その中でさまざまな物に触れます。特に、異邦人を通して何かを買い求めるということがあります。すると、そういうものを触れた手は汚れていると考えました。そして、自分たちは聖い生活をするのだ、異邦人たちのようには生活しないのだと考えていましたから、ユダヤ人たち、特に宗教指導者と言われる人たちはことさらに、聖い生活を願っていましたので、異邦人たちとの関わりを断つということを手を洗うことを通して表していたのです。そして、主イエスと、その弟子たちはなぜそのような大事な自分たちの習慣を軽んじるのかとここで問いただそうとしたのです。
それに対して主イエスはこのようにお答えになりました。
「そこでイエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか』」。三節です。
そう言われてここで反対に主イエスはエルサレムから来たパリサイ人たちに問いかけられたのは、そんなことを言うあなたがたは十戒の第六の戒めである「父と母を敬え」を破っているではないかと言われたのです。しかも、丁寧に出エジプト記の第二十一章十七節にあります「自分の父または母をのろう者は、かならず殺されなければならない」という戒めまで引用なさいました。マタイに記されている言葉ですと四節にある『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言う言葉です。
これには少し説明がいるかもしれません。主イエスはここで長老たちの言い伝え、あるいは昔の人の言い伝えといわれるような、彼らがつくりだした習慣を問題にしているようですけれども、あなたがたは聖書の戒めを軽んじているではないかと言われたのです。
と、言いますのは、マルコの福音書の第七章に説明がありますが、「もし人が父や母に向かって、私たちからあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。」と十一節と十二節に記されています。
自分の両親に対して面白くない思いを持っている人はこういうことをしたらしいのです。つまり、自分の父、母が経済的に困っている。けれども、その両親に息子があなたがたに差し上げる分は、コルバンにしました。神様に捧げることにしました。と言えばそれで両親にあげなくてもよくなったと言うのです。父母を大事にすることは当然だけれども、それよりも神を大事にすべきなので、神にささげ物にすると公にすれば、それは神のものなので親にあげる必要はなくなったのです。そして、ユダヤ人の宗教指導者たちはそのように指導していたのです。聖書にそう記されているからというわけです。民数記とか申命記に確かにそのように記されているのです。
ところが、問題はそのようにして「これはコルバンです」。「神様へのささげ物です」。と誓っても本当に神様にささげたのかどうかです。もちろん神に誓ったのですから、その約束は守られなければなりません。けれども、申命記の第二十三章の二十二節に「もし、誓願をやめるなら罪にはならない」とあるのです。問題は神に誓ったことを止めるための正当な理由があるかどうかでが、どうもそこでもまた律法学者たちは便宜を図ったようです。
そうすると、聖なる生活をしたいといいながら、自分たちの憎しみのために神の戒めを、神の言葉を軽んじているではないかと、主イエスはここで彼らのしている振る舞いをたしなめられたのです。
六節の終わりにこう記されています。「こうしてあなたがたは自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」と。
聖なる生活をしたいと志しているといいながら、神の言葉を軽んじるということがあり得るのかと、主イエスはここで厳しく戒めているのです。そしてここで主イエスは「偽善者たち」という言葉さえ使っているのです。偽善者たちと言われながら、預言者イザヤの言葉を用います。あなたがたのしていることは、昔から、預言者イザヤの頃からすでに始まっていること、私たちの伝統、言い伝え、などと言っているけれども、昔からあなたがたは神の言葉を軽んじているのではないかと言われたのです。
これは、痛烈な批判です。私たちはこう言う言葉を聞きながら、これはパリサイ人たち、律法学者たちのこと、自分たちとはあまり関係のないことと思いながら聞くかもしれません。ここで、問われていることは人を汚している物は何かということです。
手が汚れたから手を洗えばいいと思っているようなことで、私たちの汚れがなくなるわけではないことは明らかです。あるいは、表面的には神に忠実であるかのように振舞っていればいいのかということがここで問われているのです。
主イエスがここで例に上げたのはたとえば両親を愛するということひとつとってみてもそうでしょうと問いかけているのです。人は神に忠実なふりをしながらでも、両親を愛さないということもできるではないかと、問いかけておられるのです。
立派なキリスト者を演じて見せても、その心が神に向かっているかどうかそれは別問題だということです。わたしたちはこの主の言葉を真剣に聞かなければならないと思います。
十節以下にこのように記されています。「イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。』」。
ここで、主イエスはご自分の方から「群衆を呼び寄せた」とあります。いつもは群衆たちの方から集まってくるのですが、ここで主イエスはご自分の方から呼び集められたのです。何故か。それは、この事は、あなたがたはちゃんと聞いておかなければならないことだと、思っておられるからです。パリサイ人、律法学者らが教えているような生活が聖なる生活なのではない、手を洗えばいいというようなことではなくて、人の汚れというのは、その人の心の中にあるものなのだ、と言われたのです。
あなたの心は汚れていると言われて喜んでそれを聞くことが難しいことでしょう。パリサイ人たちはこの主イエスの言葉をきいて「腹を立てた」と十二節に記されています。新共同訳聖書では「つまづいた」となっています。新改訳聖書の下にある(注)にもそのように記されています。この翻訳の違いは面白いと思うのですが、この言葉はどちらにも訳すことができるのです。「つまづく」というのは、相手のせいにしたということです。
自分の問題ではない、あの人の態度が気に入らないのだということです。教会でも時々耳にする言葉です。「誰々の言葉につまづいた」とか、「牧師の説教につまづいた」などと使います。特に今日みたいな聖書の言葉を耳にするとそう言いたくなるかもしれません。「自分の心が汚れているなどと何とひどいことを言うのだ、こんな牧師の話はもう聞きたくない」などと言う時に、「つまづいた」と使うわけです。けれども、その心の中で起こっていることは「腹を立てている」わけです。
しかも、主イエスはそのような言葉を聞きながら、「ああ、ちょっと言い過ぎたかな」などと言って反省するのではなくて、さらに追い打ちをかけるような言葉を言われました。
「しかし、イエスは答えて言われた。『わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。』」。そのように十三節に記されています。
自分たちは神の民の中でも、聖なる生活をしていると思っているパリサイ人たちのことを、天の父は、そんな木を植えていないのだ、そもそも神の民ではないのだから、と言われたのです。
今度は「つまづいた」くらいではすまないような言葉です。腹を立てるどころか、はらわたが煮えくりかえるような思いになるような言葉です。そもそも、彼は神の植えられたものではないのだからと言われたのです。そして、「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です」とさえ続く十四節で言われるのです。そのような生き方をしている者は、自ら滅んで行くしかないのだと言われたのです。
私たちはこのような厳しい言葉を聞きながら、自分のことをどう考えたらいいのでしょうか。私と、パリサイ人と何が違うのか。何も違わないのです。そうするとここで立ち止まって考えざるを得ません。主イエスはこのような強い言葉を用いながら、人々によく考えるようにと促しておられるのです。自分の中に潜んでいる醜さを正当化するのではないということを、多くの人々の耳に入れておいてもらいたいと思っておられるのです。
ここで弟子のペテロが登場します。十五節です。
そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください」
思わず笑ってしまいそうになる言葉です。たとえ話でもでもなんでもないのです。分からないような難しいことを主イエスはここで語っているのではないのです。けれども、そう言わざるを得ないほどに、ペテロは主イエスの話を聞いたのです。パリサイ人が滅びに行くしかない、神の民ではないと言う言葉を聞きながら、自分たちは大丈夫だなどと思えないのです。何かもっと安心できるような説明を聞きたいのです。
主イエスはこのペテロの問いに対して、もう一度汚れとは何かということをお答えになりました。この言葉についてはもう説明する必要もないと思います。
主イエスはここで何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。はっきりしていることは、汚れは私たちの中にあるということです。これは自分で否定しようのない事実です。いくら腹を立ててみようが、つまづこうが、私たちのなかには、大事な人でさえ心から愛することができなくなることがあるのです。両親でさえ、憎んでしまうことがある。家族にさえ憎しみを抱くことがあるのです。それは、認めるほかない事実です。
私たちは、この自分たちの汚れてしまっている心をどうしたらよいのでしょうか。人前で立派な信仰者であるかのように取り繕ってしまいながらも、心の中ではなおも汚れたことを考えてしまう私たちは、どうしたらいいのでしょうか。
今日の説教題を「神の言葉によって」としました。ここにしか、答えはないと考えているからです。私たちの心は、神の言葉さえも無にすることのできるズルさを持っています。神の言葉でさえも、自分のために利用してしまうようなものであることは事実です。主イエスがここで言われているとおりです。けれども、私たちの心を本当に聖めることができるのも、この神の言葉以外にはないのです。
そして、この神の言葉は、神の子どもでない者をも、神の子にすることができると招いてくださる言葉であることも私たちは知らなければなりません。天の父がお植えにならなかった木でさえ、天の父は、それを、これは私の木だと語ってくださる、神の木として植えなおしてくださるのです。この“接ぎ木する”という言葉が、“バプテスマ”の意味であることは偶然ではありません。
私たちはこの神の言葉にしっかりと耳を傾ける以外に、私たちが私たちの心の中の汚れから、私たちの罪から解き放たれる道はありません。神の言葉は私たちの心を造りかえることがおできになるのです。
「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるのです」と十九節にあるとおり、私たちの心にはさまざまなものが潜んでいます。これを神の前で正当化することは、誰もできません。けれども、そのような悪の根を、罪を取り除いて、その人を新しくすることが、神の言葉にはできるのです。
今から私たちは聖餐に預かります。それは神の子どもとされた、神の木に結びつけられた私たちが、私はこのお方にあって生きるということを思い起こす時です。主イエスはそのために、私たちを生かすためにご自身の体と血とを私たちのために差し出されたのです。ですから、今、この主の言葉が私たちを生かすということをもう一度心に覚えつつ、主に対する期待を新しくしたいと思います。
お祈りをいたします。