2020 年 8 月 9 日

・説教 創世記27章30-45節「エサウの恨み」

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2020.08.09

鴨下 直樹

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 さて、今朝はイサクから祝福を与えられたヤコブの物語の続きのところです。弟ヤコブに祝福を奪われた兄エサウはその後、どうしたのかというのが、今日のところです。

 それで、前回あまり丁寧に考えることができなかったので、そもそもイサクが与えた祝福の内容に、もう一度注目してみたいと思います。

27節から29節です。

ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。
「ああ、わが子の香り。
主が祝福された野の香りのようだ。
神がおまえに
天の露と地の肥沃、
豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。
おまえは兄弟たちの主となり、
おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。
おまえを呪う者がのろわれ、
おまえを祝福する者が祝福されるように。」

 内容は、三つのことが言われています。第一は、豊かな収穫の約束です。第二は、近隣諸国との平和な関係の構築です。そして、三番目に書かれているのは、家族内での尊敬と平安と言っていいと思います。そして、この三つの祝福の内容は、こう言い換えることができると思います。仕事の成功、社会との平和な関係、そして、家庭内の平和です。

 弟ヤコブにこのような祝福が与えられたということは、同時に、兄エサウはこれらのことを失ったことになります。

 考えていただきたいのですが、仕事がうまく行かず、社会との関わりが薄く、あるいは悪くて、家庭内でも争いばかりあるとしたら、人はどこに生きがいを見出すことができるでしょう。実に、神の祝福というのは、私たちが生きていくうえで必要不可欠なものであるということが、ここからもよく分かると思います。

 仕事がうまく行かない、それはヤコブのせい。対社会とよい関係が築けない、それもヤコブのせい。家庭内でいざこざがある、それもこれも、みんな弟ヤコブのせいと、常に恨みを抱かなくてはならない生活というのは、とても悲しいものですし、苦しいものです。いや、ヤコブだけではない、祝福をうっかり渡してしまった父イサクを責めたくなる気持ちにもなるでしょうし、弟をかばいだてする母リベカに憎しみを抱くということもあると思うのです。

 あるいは、その後の人生で何度も何度も、なぜ自分はあの時長子の権利を弟にレンズ豆の煮物で譲り渡してしまったのかとか、母親を疑うべきだったかとか、自分を責めたくなることもあったでしょうか。

 あるいは、いや、それもこれも、そもそも神が悪いのだと神に対する敵対的な感情をもつこともあったかもしれません。

 このような反応は、私たちが何か思いがけない出来事に見舞われるときにしてしまいがちな三種類の反応です。他者を責めるのを他罰的思考と言います。自分を責めるのを自罰的思考といいます。そして、いやそもそも誰かが悪いのではなく、このシステムが悪いとか、神が悪いと考えるのを無罰的思考と言います。

 もちろん、これはどれが正しくて、どれが間違いと安易に言うことはできないと思いますが、自分にはどういう傾向があるか知っておくことで、その対処の仕方も、また見えてくるものでもあります。
 このエサウの場合はどうも、他罰的な傾向があると言っていいと思います。

 さて、少し聖書に戻って考えてみたいと思います。 (続きを読む…)

2020 年 8 月 2 日

・説教 創世記27章1-29節「ヤコブの祝福」

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2020.08.02

鴨下 直樹

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 今日の聖書の物語を私たちはどのように聞いたらよいのでしょうか。母と子どもが結託して、年老いて目の見えなくなった父イサクの祝福をだまし取ろうというのです。そもそも、そんな嘘にまみれた祝福に、どんな意味があるのか。そんな気持ちにさえなります。

 私の手元にある聖書注解を見ても、皆それぞれに違う解釈を記しています。それだけこの出来事を正しく理解するのは難解なのだということがよく分かります。ある注解者はここのリベカの考察から、そもそも、女性というのはと、女性批判を始めている人もいるほどです。読んでいて、この文章を書く前に夫婦喧嘩でもしたのだろうかとさえ思えてくるようなものまであるのです。

 ここで、私はあまり難しい議論の紹介をすることに意味はないと思いますので、要点だけお話ししたいと思います。

 この物語を聞いて、私たちはイサクが兄エサウを祝福しようとしていることをまず知ります。そして、兄であるエサウは、父の願いをかなえるために野に出かけます。それを陰でイサクの妻リベカが聞いていて、弟のヤコブにそのことを伝えます。そして、リベカは夫イサクを欺いて、ヤコブが祝福を受け取れるようにする計画を伝えます。ヤコブはこれを聞いてはじめ、尻込みしますが、結果的にはイサクを見事にだまして、祝福の祈りをしてもらったという出来事がここに記されています。

 けれども、よくよく注意深く読んでみますと、いろいろな腑に落ちない出来事がここで行われていることに気づくのです。

 さて、この箇所を正しく理解するカギは、リベカがこの双子の子ども、エサウとヤコブを身ごもった時にまでさかのぼります。
25章の22節と23節にこう書かれています。

子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。

すると主は彼女に言われた。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから別れ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」

 ここで、リベカは生まれてくる双子のことを主に聞いた時、「兄が弟に仕える」という言葉を聞いていました。問題は、このことをイサクは知っていたのか、知らなかったのかということです。あるいは、どの程度このことを心に留めていたかということが問題になります。
 
 リベカは当然、イサクにこのことを話していただろうと考えることはできると思います。ただ、もしそうだとすると、イサクは主の心が弟を祝福する計画であることを知っていたのに、自分の気持ちを押し通して、兄を祝福しようとしたということになります。もし、そうだとすると、リベカに向けられた非難の目は、イサクに向けられることになります。

 では、もう一人の被害者であるはずのエサウはどうでしょう。エサウは長子の権利をあのレンズ豆の煮物で弟ヤコブに明け渡していたのに、そのことをイサクに告げないで、父から祝福の知らせを聞いた時に、そのことを弟のヤコブに知らせず、こっそり野に出かけて獲物を捕まえて来て、祝福を自分のものにしようとしたことになります。

 つまり、ここに出てくる4人の人物には、それぞれのやましさが満ち溢れていることになるのです。ですから、これは決して美しい物語であるということはできません。

 しかし、もしイサクが、神が弟を祝福しようとしておられる計画をリベカから聞かされていないのだとすると、この出来事はどういうことになるのでしょう。

 リベカは夫の計画を耳にします。父イサクは兄のエサウを祝福しようとしているのです。けれども、リベカは子どもが生まれる前から、主の計画を聞かされているのです。イサクの思いを尊重するのか、神の思いを尊重するのかという決断を、一瞬でしなければなりません。そしてリベカは、後者を選び取りました。

 ただ、これも、今日の箇所だけを読むならそれすらわからないのです。今日のこの27章に書かれている情報だけ読めば、リベカは自分の好きな息子に祝福が与えられるために、この計画を実行したことになります。けれども、このリベカはヤコブを愛していたということも、実は、このリベカが主の言葉を聞いた後の、25章の28節に記されているわけですから、その部分だけを切り抜いて、リベカは自分の好みの息子に祝福を受けさせるために、この計画を実行したと理解するのは、聖書からリベカに対する悪意しか読み取っていないことになります。聖書が伝えたいのは、そういうことではないはずなのです。

 リベカは、子どもが生まれる前に、主に祈って伺いを立てたのです。そして、その結論として、神の計画である弟を祝福しようとしているとの神の言葉を、大事に受け止めたと考えるのが、一番自然なことです。 (続きを読む…)

2020 年 7 月 26 日

・説教 創世記26章17-25節「いのちを支える神」

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2020.07.26

鴨下 直樹

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※今週からライブ配信の時間およびアカウント(ライブチャンネル)が変更になっております。ご注意ください。


 
 創世記26章は、イサクの生涯の物語が短く記されています。そして、今日の箇所は前回の箇所の続きの部分です。

 前回、あまり注意深く話しませんでしたが、12節にこのように書かれています。

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。

 「イサクはその地に種を蒔いた」のです。飢饉の時です。しかも、父アブラハムは遊牧民でしたから、農夫のようなことはしていませんでした。飢饉のときに、ペリシテの地に主に命じられるまま滞在して、そこで、それまでの羊や牛を飼う、酪農の仕事に加えて、種を蒔いて、農業までやりはじめたと書かれているのです。

 これは、イサクの生きることへの逞しさが描かれていると言えます。そして、これが、イサクなのです。父と同じではないということです。

 立派な父を持つ子どもというのは、父の背中を追い続けているだけではなくて、そこに自分なりの挑戦もする。聖書というのは、そのことを、特別なドラマのようなナレーションは入れていませんが、しっかりと書き記しています。そして、こういう発見をすることが、聖書を読む、面白さでもあります。

 そして、12節の続きの部分では「百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。」と書かれています。イサクは、イサクなりの生き方をして、神の祝福を経験するのです。ここに、主がイサクの生き方を喜んで受け入れておられる姿を見ることができます。

 しかし、聖書はそのような、イサクの成功だけを描いているのではなくて、そんな中でイサクが経験したことにも目を向けています。

 14節と15節にはこう書かれています。

彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

 ここに、「ペリシテ人は彼をねたんだ」と書かれています。主の祝福は、すべてのことがうまく行くようになったということではなかったようです。確かに、収入の面では目を見張る成果があったのです。しかし、生活のしやすさという視点でみると、イサクは決して、その地で生活しやすかったということではなかったようです。

 というのは、その周りに生活している人々は、神の思いとは関係なく生きているからです。人は、それぞれに意志があります。イサクの周りの人々は、イサクのことを喜んで受け入れてくれるという可能性もあったのでしょうが、実際にはそうはなりませんでした。目の前で成功している人を見ると、どうしても自分と比較するという心が、人の心の中には存在します。そして、そんな中で、人の醜さが出てきてしまうのです。

 問題は、そうなった時にどうするかということです。いろいろな考え方があると思います。徹底的に戦って、自分の意志を貫くということもできたでしょう。あるいは、別の形で仕返しをするという選択もあります。お金を渡して、解決するという方法もあります。

 イサクはそこでどうしたのか、それが、今日の17節からのところです。

「イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。」と17節にあります。このイサクの選択をみなさんがどう思われるか、そこにも、みなさんの考え方が反映すると思いますが、イサクは嫌がらせされている土地を去るという選択をしました。そこにイサクの意外性が描かれていると私は思うのです。

 しかもです。移動した場所で井戸を掘りあてると、またそこにゲラルの人があらわれて、「この水はわれわれのものだ」と言って、争いが起こったと書かれています。そして、どうも、読んでみると、そんなことが二度もあったようで、三度目にようやく、争いもなく、井戸を使うことができるようになったようです。

 この腰の低さと言いましょうか。争わない姿勢が、イサクの選んだ決断だったのです。弱腰と言う事もできるのかもしれません。もっと勇ましい選択もあり得たと思います。しかし、イサクのこの選択は、自分たちのことだけを考えるという考え方ではなくて、自分たちが掘り当てた井戸を、すぐにゆずることができるゆとりを持っていたということです。そして、このイサクの在り方こそ、神の望まれる考え方だったのではないかと思うのです。 (続きを読む…)

2020 年 7 月 19 日

・説教 創世記26章1-16節「二つの試練」

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2020.07.19

鴨下 直樹

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 突然ですが、もしみなさんがあまり会いたくない人にこれから会わないといけない時、どうするでしょうか。苦手な仕事の取引相手、義理の両親とか、あるいは、仕事の同僚や、近所づきあいの中とか、私たちが生活していくうえで、そういう出会いを避けて通ることはできません。

 出たとこ勝負で、不安を抱えたままその日、家を出るという人は少ない気がします。あるいは、家を出かける前にお祈りをして出かけるという方もあるかもしれません。あるいは、これは色んな人と話していると時々耳にするのですが、相手の人の出方を想定しておいて、様々な対処法を考えておいてから出かけるという方もあるようです。備えあれば憂いなしということです。場合によっては、もう前の日から気持ちが沈んでしまって、あれこれ考えて、仕事も手につかなくなるという人もあるかもしれません。

 このような、「心配の先取り」というのは、まだ起こってもいないことを先にイメージして、気分まで落ち込んでしまうというのですから、あまり賢い選択ではない気がするのですが、不安になってしまう気持ちというのは、どうしようもないのかもしれません。

 今日から、また創世記に戻ります。今日のところは、アブラハムの息子であるイサクの物語です。そして、そのイサクもまた、父アブラハムと同じようなことを経験したことが記されている箇所です。

 残念なことですけれども、アブラハムの信仰は、そのまま息子イサクの信仰になるわけではありません。そういう意味で、信仰の継承ということが、いかに難しいことなのかということをここからも考えさせられます。

 親の信仰がいくら優れていたとしても、あるいは親が経験したことだといっても、それはその子どもには直接的には何の関係もないことです。ですから、父アブラハムが経験したことを、息子イサクもまた、同じように経験しなければならなかったわけです。

 「他人のふんどしで相撲をとることはできない」のです。親の信仰は親のもの、自分の信仰は自分のもの、その意味で言えば、クリスチャンの場合、親の七光りというものは存在しないのです。少なくとも神の御前では、です。

 ここで、イサクは父親同様に、飢饉を経験します。父アブラハムはその時、エジプトに逃げて、難を逃れようとしました。そして、彼はその地で美しい妻のために自分が殺されるかもしれないとの危険を覚えて、妻のことを妹であると吹聴して、難を逃れようとした出来事がしるされていました。それと、同じことを、イサクはここで問われているのです。
 さて、ところが、その時に、主はイサクに語り掛けられました。

2節から5節です。

主はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。私があなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」

 主なる神は、イサクにこの土地、つまりその時いたペリシテの地に留まるようにイサクに語り掛けられました。エジプトに行ってはいけないというのです。そして、アブラハムと約束された子孫繁栄の約束をここでイサクにも約束してくださったのです。

 このように、イサクはその人生の試練の時に、すぐに神からの約束の言葉をいただいたのでした。あとは、その約束に従うか、自分で判断するかの選択を委ねられているわけです。 (続きを読む…)

2020 年 7 月 12 日

・説教 ダニエル書3章24-26節「信仰によって生きる生き方」舛田忠興長老

Filed under: ライブ配信,礼拝説教 — susumu @ 07:28

2020.07.12

舛田 忠興

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2020 年 7 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙10章9-11節「主の救い」

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2020.07.05

鴨下 直樹

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 あまり気づいていなかったのですが、どうも私はこれまで何度かこの箇所から説教をしているようです。それはいつも洗礼式の時の聖書箇所として、ここを選んでいるからです。それには、理由があります。きっと何度もお話をしているのだと思いますが、この箇所は私自身が、洗礼を受ける決断をした時に与えられた聖書箇所なのです。

 私のことを話して恐縮ですが、私は牧師家庭に生まれました。父は大衆伝道者としていろいろな教会で説教をすることがあったために、子どもの頃から遊園地には行ったことがほとんどありませんが、伝道集会にはよく連れられて行きました。

 実は、このコロナの自粛期間中、子どもの頃や若い時に聞いた説教者たちの本を集めまして、あの頃どうしてその説教を喜んで聞くことができたのか、思い起こすことができました。私が子どもや学生だった当時、伝道集会やキャンプに参加しますと、いつも「救いの証し」という、その人がどのように信仰に導かれたのかを証しするという習慣がありました。そこで私は、いろんな人の証しを聞くうちに、証しにはひとつのパターンがあることが分かって来ました。どうも、聞いているとみんな、洗礼を受ける前まではひどく罪深い生活をしていて、教会に行って、説教を聞き、福音を受け入れると、人生が180度変わったという証しを誰もがすることが分かってきたわけです。

 そういう話を、子どもの頃から何度も何度も聞いているうちに、私は「ああ、クリスチャンになるためには、一度悪いことをする人にならないといけないのか」と考えるようになっていました。ですから、子どもの頃や、学生の頃というのは、クリスチャンホームで育った私は、自分の中にある罪ということがよく分かりませんでしたので、自分はまだ当分の間クリスチャンにはなれないのだ、まだ自分は洗礼を受けるのにふさわしくないのだと考えるようになっていたのです。そして私は、いつの間にか、クリスチャンになる日がある時、ビックウェーブのように突然訪れるのだと考えるようになっていったのです。

 ところがです。当時中学二年生だった私は、夜寝る前になると父がやって来まして聖書を読んで祈るという、家庭礼拝の習慣がありました。今時、中学生までそんなことをする親はいないのではないかと思います。その家庭礼拝の中で、父はその日に限って、かなりしつこくいろいろな箇所の聖書を開いて話し始めたのです。子どもながらに、今日はしつこいなと思ったのですが、その時、突然ビックウェーブが訪れたわけです。

 その時、父が読んだたくさんの聖書箇所の一つが、このローマ人への手紙10章と9節と10節です。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 この御言葉を聞いた時に、「あれ?」と思ったのです。
「イエスを主と告白する」
「うん、大丈夫。」
「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」
「うん、信じている。そんだけ?それなら信じてる」
そう思ったのです。それで、「お父さん、僕イエス様のこと信じてるよ」と話したのです。不思議に泣いていました。

 いつの間にか、クリスチャンになるというのは、ちゃんと聖書を全部読んでからとか、もっとふさわしくなってからとか、罪を犯してそれを赦してもらいたいと思うようになってからとか、そういうものが、条件であるかのように考えこんでしまっていたのです。
 けれども、ここにはそんなことは何にも書かれていません。

「イエスは主である」。私にとって、私のとても大切なかけがえのない方として、そして、主イエスは十字架で私たちのために死なれ、私たちを新しくするためによみがえられたお方なのだということを信じることができる。そのことを告白することができる。それが信仰なのだということが、私はこの時に分かったのです。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 28 日

・説教 コリント人への手紙第一 3章5-9節「使命か実績か」マレーネ・シュトラスブルガー

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2020.06.28

マレーネ・シュトラスブルガー

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2020 年 6 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙1章16節「私は福音を恥としない!」

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2020.06.21

鴨下 直樹

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「私は福音を恥としません。」

 パウロはここで「私は福音を恥ずかしいとは思わない」と語っています。どうも、ローマの教会の人々の中に福音を恥とするということが、あったのでしょう。だから、パウロはこう語る必要がありました。それはどういうことかと言うと、主イエスはローマの手で十字架にかけられた男だ。そんな十字架刑にかけられるような犯罪者のことを信じているのかという声があったということです。

 今日の箇所の少し前の14節からこの16節までを読んでみます。

 私はギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

 パウロは、ローマに住んでいるギリシア人に手紙を書き、このローマの人たちに福音を伝えたいと願っていました。ところが、ローマの人は、ローマ人ではない他の人たちのことを全部ひとくくりに「未開人」と呼んでいたようです。未だ開拓されていない地の人というわけですから、完全に上から目線です。もっとも、そう言えるほどの栄華がローマにはあったのです。

 そんな華やかな都に憧れて、世界中から人が集まってきます。珍しいものが運び込まれてきます。ローマにいれば、それだけで世界を知ることができたわけです。そのローマの人たちに、主イエス・キリストを語ろうとするときに、ポンテオ・ピラトによって十字架につけられたユダヤ人の話にが、ローマ人の心を惹きつける魅力がどのくらいあったのかということは、想像するよりありません。

 この頃、パウロはまだローマを訪れてはいませんでしたが、ローマにすでに教会が出来ていたようですから、各地でキリスト者になった人々がローマに福音を届け、ローマの中にも主イエスを信じる人の集まりが出来ていたようです。それは、とてもすごいことですが、パウロはさらに多くの人に福音を届けたいと願ったのは当然のことでしょう。けれども、最初から主イエスの十字架の話をすると、それ以上聞く必要はない、そんな恥ずかしい人物の話になど聞く耳を持たないといった人がいたのは、想像に難くありません。

 そして、教会の人々もまた、そのような主イエスの福音をローマの人々に語ることに恥ずかしさがあったのかもしれません。それは、ローマの人たちであれば経験的にもよく分かるのです。それは、私たちでも、同じことが言えるかもしれません。

 先日、教会でこの説教に先立ちまして、聖書の学び会で、この箇所を一緒に読みました。その時に、福音そのものを恥とは思わないけれども、福音にふさわしい生き方ができていない自分を恥じるという思いがあると、多くの方が口をそろえて言われました。それは、私たちが誰もが抱く思いであるかもしれません。

 聖書が語ることは素晴らしい、神の恵みも本当に素晴らしい内容だと思う。けれども、それを人に語ろうとするときに、「じゃあ、あなたはその福音にふさわしい生き方ができているのですか?」と問われると、自分はその福音にふさわしい生き方はできていないと、自分を恥じる思いというのが出てくるのです。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 14 日

・説教 エゼキエル書16章6節「生きよ!」

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2020.06.14

鴨下 直樹

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 6月に入って、この長い間続いた新型コロナによる外出制限が少しずつ解除されはじめています。この期間、私たちはステイホームといって、外に出ないようにということが言われてきました。

 家に留まっていることが全く苦痛ではない人にとっては、とても良い時間になったのではないかと思います。けれども、一方で、その期間孤独と向き合い続けなければならなかった人もあると思います。先日も買い物で近くのイオンに行きましたが、思っていたより人が少なくて、まだまだ、沢山の人が外出を控えているのだということを目の当たりにしました。

 外出できない、人と会えない期間が長く続きますと、人によってはどこかで自分は世界から取り残されて独りぼっちであるかのような、そんな思いを持つ方もあるのではないかと思うのです。

 私は長い間、教団の学生の担当牧師をしていました。といっても今から15年以上の前のことですから、今の学生たちとは少し違うのかもしれません。学生たちと膝を突き合わせて話してみると、時折出てくるのは、自分の自信のなさ、それは信仰のことだけではなくて、勉強のこと、運動のこと、容姿のこと、家族のこと、あれもこれも、みんな自分はだめだという劣等感を抱いてしまっている学生が少なくありませんでした。そういう複雑な思いの中で、進路をどうするかについて決めなければならないわけですから、そこで嫌でも、自分のポジションというものが突き付けられます。そして、さらに自信をなくしていくということが起こってしまいます。

 大人になりますと、不思議なもので、経験的になんとかなるということを覚えていきます。自分と向き合わなくても、何とかなるという経験をしていくことで、自分と向き合わずに生きていくすべを身に着けてしまいます。

 その時期のことを「アイデンティティ・クライシス」なんていう言い方をすることがあります。何も、英語なんか使わなくてもいいのかもしれませんけれども、「人生の危機」と言ったらいいのでしょうか。自分自身の存在が問われているという危機感と向かい合う必要が出てくるわけです。

 私たちは、シンデレラの物語をよく知っています。父を亡くしてしまったシンデレラは父親の再婚相手の母親と、その子どもたちによって、まるで家政婦のように下働きを命じられてしまいます。ところが、お城からの舞踏会の知らせがあった時に、魔法使いの助けによって、綺麗なドレスを与えられて、カボチャの馬車に乗って、お城の舞踏会に参加するのです。そして、そこで王子に見染められる話です。

 自分の現実である悲惨さから、自分の本当の価値を王子によって回復される、まさに、シンデレラ・ストーリーです。

 今日の聖書の話は、まさに、聖書の中に記されたシンデレラ・ストーリーが、このエゼキエル書の16章の1節から14節です。

 物語はいたってシンプルです。ある家庭に、一人の赤ちゃんが生まれます。女の赤ちゃんです。普通であれば、生まれたばかりの赤ちゃんは、へその緒を切られ、産湯につかり、綺麗な布でふき取られて、布にくるまれて母親の腕に抱かれるのです。けれども、この時の状況はそんなご時世ではありませんでした。男であればまだ跡継ぎとして、あるいは家族の支えになったのでしょうが、女の子では食い扶持が増えるだけです。それで、その赤ちゃんは、生まれたままの、それこそ血まみれの状態で捨てられてしまうのです。そして、誰ひとりとして、そんな赤ちゃんを代わりに育てようとする人もなかったのです。

 ところが、そこに王様が通りかかります。その王様が、その赤ちゃんを見つけるなり、言った言葉が、今日読んだ聖書箇所です。 (続きを読む…)

2020 年 6 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙2章11節「えこひいき?」

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2020.06.07

鴨下 直樹

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「神にはえこひいきがないからです。」

 今日の聖書にはそのように書かれています。「えこひいき」という言葉は、私たちにいろんな連想をさせます。

 以前、ドイツにおりました時に、平日の「ユングシャー」と呼ばれる子ども集会のお手伝いをしておりました。ドイツの学校はほぼ午前中で終わります。学校が終わってから、塾にいくという習慣もありませんから、子どもたちは午後のびのび生活しています。それで、教会では平日に子どもたちを集めまして、子どもの集会を持つのですが、その多くの時間ゲームをして過ごします。ゲームといってもビデオゲームではなくて、体を使ってする様々なゲームです。

 そのゲームをしていた時に、ひとりのスタッフが、小さな子どもや、あまりそのゲームが得意ではない子どもに対して、少しルールを緩めて、沢山点数がとれるようにしてやったのです。すると、それを見ていた子どもたちが一斉に「アンフェアー!」と叫び出しました。

 私はその姿をみながら、ああこういう時は「アンフェアー」と言うんだと言葉を覚えて喜んでいたのですが、子どもたちの顔は真剣そのものです。そして、日本の子どもならなんて言うんだろうと想像してみたのです。岐阜の方言なら「ずるやげー」とか「ずりーげー」とか言うのかもしれません。あるいは「ひいきやん」、「えこひいき」と言うのかもしれません。

 「フェアーではない」という言葉と「えこひいき」という言葉のニュアンスは少し違うようにも感じます。
私の持っている国語辞典で意味を調べてみると、「えこひいき」は、「自分の気にいった者だけの肩をもつこと」と書かれていました。「アンフェアー」というのは「不公平」ということです。意味は似ていますが、えこひいきという場合には判断する側の主観に強調点が置かれている感じがします。

 このパウロの手紙の「神にはえこひいきがないからです」という言葉は、神が裁きをするときの態度のことを指して言っている言葉です。つまり、この箇所のテーマは「神の裁き」です。そして、神が裁きをなさるときには、神の主観で、人をえり好みしたりはしないのだということが、ここで言われているということになります。

 考えようによっては当たり前のことなのかもしれません。神が人を裁くときに、同じ基準で判断しないとしたら、それこそ、「アンフェアー」と叫びたくなります、けれども、パウロはここで、神はそんなことをしない。公平に裁くのだと言っているのです。

 問題は、パウロはここで人を裁く場合のことを語っているのですが、私たちが人を裁くときには、どういう視点で裁きをしているのかということです。

 先日、この聖書箇所を調べるためにいくつかの本を読んでおりましたら、ある本にこんな文章が載っておりました。

以前、ある評論家が、子供の親に勧めていることがありました。
一日でいいから、自分と子供の会話を全部録音してごらんなさい。そして、一人でゆっくり録音を再生して自分の言葉を数えてごらんなさい。あなたが裁判官のように、子供に何回の判決を申し渡したか、朝起きてから寝るまでに、あなたの子供は何回被告席に座らされ、何回有罪判決を下されているか、子供の立場に身をおいて聞いてごらんなさい。その教育評論家は、更にこう問うのです。裁判官は判決を言うだけ、でもあなたは、それ以上の刑罰を子供に課していないか。

 私はこの文書を目にして、もう自分の心が痛んで痛んでしょうがないのです。本当に、一日録音した方がいいかもしれないなどと思わされます。親が子どもを叱る場合、他の方はどうか分かりませんけれども、問答無用で一方的に裁いてしまうということをしてしまいがちなのです。子どもにそうであるということは、他の人に対してもそうすることがあるわけです。 

 私たちが人を裁いてしまう場合のことを考えてみますと、子どもにするときもそうですけれども、自分が正しいという立場に身を置いて、人を裁きます。自分のもっている常識や、価値基準というものが、判断するときの材料になります。けれども、一方的に悪者にされてしまう側にも、それなりの道筋があるはずなのです。ということは、本当に人を裁くためには、その人に寄り添って、その人がどういう信念を持っていて、どういう判断をして物事を考えているのかということに、思いを馳せることがどうしても必要になるはずなのです。 (続きを読む…)

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