2021 年 8 月 8 日

・説教 ローマ人への手紙3章9-20節「人の努力に代わるもの」

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2021.08.08

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 少し前に、オンラインで配信しています「ざっくり学ぶ聖書入門」で、中間時代と呼ばれる頃のことを話しました。

 教会のホームページから見ることが出来るのですが、これがまた驚くほど人気がなくて、その動画を見ている人もほとんどいないようで、残念に思っています。

 聖書の話ではありませんので、興味がないのかもしれません。あるいは、この「中間時代」という言葉そのもののことが分からないのかもしれません。旧約聖書の終わりから、新約聖書までの400年の間、ユダヤ人たちはどのように歩んで来たのかという話です。主に、聖書の外典に記されている話でもあります。

 バビロン捕囚の後、イスラエルの人々はとても、熱心にその信仰に生きようとしてきました。特に、ギリシャから支配されるようになった時、ギリシャは、支配下の国々にギリシャの文化、ギリシャの価値観を宣伝していきます。このギリシャの文化のことを「ヘレニズム」と言います。

 このヘレニズムの価値観が押し寄せてくる中で、ユダヤ人の中でもこれに抵抗して「ハシディム」と呼ばれる人たちが現れます。この人たちは、ユダヤ人の習慣がギリシャの文化の波に飲み込まれないようにするために、必死に聖書の価値観を大切にすることを貫いてきた人たちです。

 そういう働きもあって、時代がどんどんと変わっていく中でも、ユダヤ人たちの信仰や伝統というものが、ギリシャやローマの世界の中でも認められていきます。そして、かえって、ローマにまでユダヤ人たちの価値観を伝える人たちが出てきました。

 その大きな役割を担ったのが、「パリサイ人」たちです。

 私たちは聖書を読んでいますと、パリサイ派と聞くと、主イエスの伝道を邪魔するろくでもない人たちだという認識を持ってしまいます。けれども、この時代の流れの中で、ユダヤ人の文化を残すために、このパリサイ人たちの果たした役割というのは、決して小さくはありませんでした。

 当然、このユダヤ人たちはローマに沢山住んでいました。4万人というユダヤ人が当時のローマにはいたという記録もあるほどです。

 そして、そのユダヤ人たちに対して、真の救い主として来られたのが、主イエス・キリストなのだと教会は伝道をしていきました。

 このユダヤ人たちは自分たちが貫いて来た信仰や、生き方に自負を持っていましたし、自分たちは神に選ばれた特別な民なのだという考えを持っていました。そんな中で、ローマにもキリスト教の教会が出来てきたときに、このユダヤ人の間で長年培われてきた、この自負、プライドというものが、この人たちの支えでもあったわけです。

 ですから、このまじめなユダヤ人たちというのは、まじめに生きることが、神の祝福であり、そのために律法を守って、特に割礼を子どもたちに施して、神の民であろうとしてきた人々だったわけです。

 しかし、ここでパウロは9節でこう言いました。

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

 パウロは、ユダヤ人がどれほどまじめな民族であったとしても、どれほど苦労してきたとしても、だからといって、ユダヤ人に特別すぐれたところがあるということにはならないのだと言ったのです。

 これは、ユダヤ人たちからすれば受け入れがたい言葉に響いたはずです。 (続きを読む…)

2021 年 8 月 1 日

・説教 ローマ人への手紙3章1-8節「みことばをゆだねられた民」

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2021.08.01

鴨下 直樹

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 今日、私たちに与えられているみことばは、私たちの良さってどこにあるのかということです。ここで語られているのはユダヤ人のことですが、私たちの問題でもあるのです。

 みなさんの良さはどこにあるでしょうか。他の人と違って優れている点です。以前、どんぐりの背比べの話をしました。しょせん私たちはみんなどんぐりですから、大きさや出来映えの良さを比べてみても、どんぐりはどんぐりです。

 けれども、そんなことを言われてしまうと身も蓋もないわけで、それではあまりにも自分がみじめな気持ちになります。

 私たちは普段、それなりに、自分のいいところを見つけて、それを少しでも伸ばしていきたいと思うし、人から、「あなたのこういうところがいいところですね」と言われようものなら、しばらくは嬉しい気持ちになるものです。

 けれども、聖書ときたら、みんなどうせ罪人だって言うでしょ。そんな罪人が、人と比べて、やっと見つけた自分のいい部分さえも、意味がないかのようなことを言うんだとしたら、それはあまりにも辛いし、そんな神様はいやだなぁ、という気持ちを抱いても仕方がない。そんな気持ちになるのかもしれません。

 今日の説教のタイトルを「みことばをゆだねられた民」としました。今、聖書をお聞きになられて、気づかれたと思うのですが、8節までのところには答えがありません。

 ユダヤ人の優れている点は何かと言いながら、この8節までで書かれているのは、そんなに優れていないぞということです。そして、この後の9節以降から出てくるのは、ユダヤ人だけでなくて、人間はみんな優れてなどいないのだという結論に行きつくわけです。
 けれども、ここでパウロは、はじめに一つのことを挙げています。神のことばがユダヤ人にはゆだねられている。それが、ユダヤ人が他の人たちとは異なる点だと言っているのです。

 すこし、パウロがここで何を言っているのかをもう一度整理してみたいと思います。この前の2章のところで、パウロは律法が与えられていることを語っています。この律法というのが、ここで言う、「神のことば」のことです。この神のことばはユダヤ人たちに与えられていて、神の心、神の思いを、神はユダヤ人たちに託されました。ところが、今度はその律法が与えられていることで、人は誇るようになってしまったというのです。

 人間を自由にして、救うためのことばであったはずなのに、自分を誇る、自慢する道具としてしまったと、2章では語られていました。

 そこからも分かるように、私たちは人よりも自分の方がいいところがあると思うと、そこでどうしても醜くなってしまう。せっかくの自分のいいところが台無しになってしまう。そういう問題が、この2章までで語られていました。
 
 それで、今日の3章に入りました。ここでは、改めて、律法が与えられているユダヤ人とは何かということが言われています。神に期待されて、選ばれたユダヤ人ならば少しくらい何か良いところがあるでしょ? ということです。
 
 私たちはこういう聖書を読む時に、ああ、ここはユダヤ人のことが書かれているので、自分とは関係ない話だと思って読んでしまいがちです。それで、ここに出てくるユダヤ人と、自分たちは違うと、他人事のように聞いてしまうところがあるのではないでしょうか。

 自分の良さって何だろうと考えて、人よりも自分の方が秀でているところを見つけて、自分を誇りたいと思う気持ちというのは、ごくごく普通のことです。それが罪だなどと言われてしまうと、もうどこにも心の持っていき場が無くなってしまいます。

 しかも、ここでのパウロの論調は、だからみんな神の前には罪人なのだという結論に到達するわけです。理屈としては理解できるのです。けれども、それで心がついて来るかどうかは別問題です。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 25 日

・説教 ローマ人への手紙2章17-29節「御霊による心」

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2021.07.25

鴨下 直樹

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 先週金曜日、東京オリンピックの開会式が行われました。ご覧になられた方も沢山おられると思います。先日、岐阜県が発行しました、『岐阜県ゆかりの選手応援ガイドブック』というものを頂きまして、見ておりましたら、この岐阜市からも色んな選手が出るようです。私も知らなかったのですが、今回からの新しい種目で、スケートボードに出る岡本みすぐ選手はこの岐阜市在住で、何と15歳なんだそうです。しかも、世界ランク1位というので、私も楽しみにしています。

 そのパンフレットの中に、岐阜県の色んな市町村が、オリンピックに参加する国のホストタウンとして掲載されているのですが、この近くでは八百津町という町があります。この町は可児教会のクリスチャン・ワイゲル宣教師が、住まいを置きまして、そこで伝道をしている町です。この八百津町はイスラエルのホストタウンになっているということでした。そういうオリンピックへの関わり方もあるのだと改めて知らされております。

 昨年の末から、水曜日の聖書の学びと祈り会の時に、「ざっくり学ぶ聖書入門」の学びを始めました。先日27回目で、旧約聖書の学びを終えました。それで、次回は旧約聖書と新約聖書の間の期間、この期間のことを中間時代というのですが、ここの学びをしようと思っています。

 実は、私が神学生の時は、ちょうど、この講義の担当の先生がいなかったので、私はこの学びをしたことがありません。それで、今、この講義を担当している古知野教会の岩田先生に、何かいい本はないかと聞きましたら、一冊の本を教えてくれました。『マンガ・聖書時代の古代帝国』という、いのちのことば社から出ている本です。

 中間時代というのは400年あるのですが、この本はイスラエル滅亡の頃からの約700年間を、マンガを交えて解説しているものです。この新約に移る前の700年の間に、イスラエルは、国が滅んでしまいます。そして、その後2000年以上にわたって、国土を持たない離散の民になってしまうという経緯があります。

 この中間時代と呼ばれる時代は、聖書には書かれていないのですが、イスラエルがさまざまな近隣の強国に支配されながら、何とか生き抜いていくという大変な時代です。

 その当時、このユダヤ人たちの信仰は、非常に倫理的であり、内容的にもあまりにも良く整えられていたので、ユダヤを支配したギリシャは、このユダヤ人たちの信仰に、とても興味を覚えます。そして、ユダヤ人たちを保護する王が現れる時もあれば、迫害される時代も迎えます。そんな中で、ユダヤ人たちは、パリサイ派とサドカイ派とに分かれていきます。サドカイ派は、ギリシャの思想を取り入れていきますが、パリサイ派は、できる限り聖書に厳密な立場を取ろうとした人々でした。そして、サドカイ派はエリート意識が強い人々でしたが、パリサイ派は庶民も、また異邦人をも巻き込んでいくという形態になっていくわけです。この辺りのことが、とても詳しくこの本の中には書かれています。

 そんな中で、パリサイ派の人々は、律法を大事にすることと、割礼を受けることで、異邦人であっても、ユダヤ人として歓迎していくというやり方で、各地に宣教師と言いましょうか、伝道者を遣わしていったのです。

 今日のパウロの手紙を理解するためには、こういう背景を知っていると、とても理解しやすくなります。つまり、このようなユダヤ人たちの宣教師、もっと言うとユダヤ教宣教師たちは当然、ローマにも沢山入っていたわけです。そして、ローマにいるユダヤ人キリスト者たちは、このユダヤ人宣教師たちの教えを色濃く受けていたので、パウロがこの手紙をローマに書く時には、まず、その人たちに向けて、主イエスの福音とは何かということを、丁寧に説いていく必要があったのでした。

 しかも、パウロもこの人たちを切り捨ててしまう、いわゆる “キリステ教” の立場を取ることもできたのですが、そうしないで、その人たちにも、どうしても、このユダヤ教の考え方と、キリスト教の違いというものを理解してもらわなければならないと考えました。これが、難しいわけです。

 こういうのはダメ、と切り捨てるだけなら簡単ですが、自分の間違いに気づいてもらって、なおかつ、正しい考え方に変わってもらう必要があるので、気を付けた言い方をしなければなりません。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 18 日

・説教 ローマ人への手紙2章12-16節「律法と福音」

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2021.07.18

鴨下 直樹

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 我が家には犬がいます。もうすぐ2歳になります。なかなかやんちゃな犬で、躾が思うように入らなくて悩んでおります。一番困っているのは、留守番をさせる時です。

 少し前までは小さかったこともあって、留守の間はケージの中に入れて、外に出かけるのですが、そろそろもう大丈夫かなと思って、ケージに入れないで、そのまま出しておくことがあります。

 午前中くらいの時間であれば、さほど問題はないのですが、少し長い時間家を空けますと、まず間違いなく事件が起こっています。

 夕方に家に帰りますと、犬は私が戻ってきたことが嬉しくて近寄って来るのですが、その日は出てきません。この時点で何かあったのだということが分かるのですが、部屋に入るととんでもないことになっています。

 テーブルの上に置かれていた、薬の入れ物が散乱していて、娘の机の上にある鉛筆やらボールペンは跡形もないくらいバキバキに壊されています。テーブルのものが全て床に落ちているので、テーブルの上に上がったんだということも分かります。

 私が「何やった!」と少し大きな声をあげます。そうすると、犬はおこられることを察知して、ハウスの中に隠れるわけです。

 聖書はこう言っています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。

12節です。

 律法のない我が家の「さくら」は、「さくら」というのは犬の名前ですが、律法なしで滅びることになります。まず、私の怒りの叫びから始まります。そして、そのまま撫でられることもなく、ハウスの中に入れられてしばらく口もきいてもらえなくなります。部屋をかたづけないといけないので仕方がないのですが、私としてはあれほどむなしい時間はありません。

 こんな犬のしつけの話と同じになるかどうか、疑問があるかもしれません。
 
 パウロがここで言おうとしているのは、異邦人であろうとユダヤ人であろうと弁解の余地なしに、裁かれるのだと言っています。
13節

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。

 「律法」というのは、神の心です。神の願いです。言いつけを知っているということよりも、その心を理解してそれをするかどうかが大事だというのです。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 11 日

・説教 ローマ人への手紙2章1-11節「神の慈しみ深さ」

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2021.07.11

鴨下 直樹

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 今、私たちはパウロの記したローマ人への手紙のみ言葉を聞き続けています。今日から第2章に入ります。パウロは、この手紙の第1章で、罪の闇の濃さと言いましょうか、その闇の深さを語っています。神の義、神の正しさから離れたところにある、私たちの生活の在り方を正しいとする世界が、どれほど闇に覆われているか。それがどれほど醜いか。そして、どれほど神を悲しませているかを語りました。

 そして、今日の第2章の冒頭で、パウロは畳みかけるようにこう述べています。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

 ここまでのパウロは、ギリシア人たちの日常生活の悲惨さ、罪の醜さというものを語ってきました。それを聞いた教会の人たちは、「そうだそうだ、こういう罪はよくない」とパウロに同調して聴いていたと思います。ところが、この教会の人たちに対して、パウロは急に向きなおり、「あなたがたも全く同じなんですよ!」と言い出したのです。

 パウロがここで語っているのは、人をさばくということについてです。

 この人はどうしようもない罪人なのだと人のことを断罪することの恐ろしさを語っています。

 先週も私たちは、ある大臣がコロナ対策の休業要請に協力しない飲食店に金融機関から圧力をかけさせるという発言をしたというニュースを耳にしました。そして、その大臣の発言をめぐって、色んなところで叩かれています。

 もちろん、かなり問題の発言ですが、そうしますと、今度は寄って集って、みんなで猛バッシングを行うわけです。

 こんなニュースは毎週、色んな所で起こりますから、すでに慣れっこになっているところもあります。
 一度、この人は悪いと決めつけられると、鬼の首でも取ったかのようにして追いつめていくのです。それが、人を裁く者の姿です。

 これは、もちろん、私たちの日常生活の中でもごく当たり前に繰り返されます。教会の中でも同様ということになると、これはかなり問題で、もはやキリスト教会ではなくて、「キリステ教会」になってしまいます。

 パウロがここで語っているのは、神の慈しみ深さです。
4節

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。

 悪の出来事、というか悪いことが私たちの目の前で起こりますと、私たちの目が、どこに向けられるかというと、その人の犯した過ちです。その人の罪の大きさです。これは、とんでもないことをしているぞ!と大騒ぎしてしまいます。

 けれども、パウロが言っているのは、ここで見なければならないのは、その時、神の心はどうだと思うのかということに目を向けるようにということです。 (続きを読む…)

2021 年 7 月 4 日

・説教 ローマ人への手紙1章26-32節「神を知る価値」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:44

2021.07.04

鴨下 直樹

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 前回、私は説教の中で一つのたとえ話をしました。素敵なディナーに招かれた話です。

 神は、私たちを素敵なディナーの席に招待してくださいました。それは、とても素敵な雰囲気の中で、おいしい食事を頂く、まさに完璧なディナーの席です。ところが、その席に招かれながら、心ここにあらず、テレビのスイッチをつけ、食べているものにもあまり目を留めないで、また目の前に座っている相手のことも無視していたら、招待してくれた人はとても悲しみますよねという話をしました。

 それは、このローマ人への手紙の1章の18節から32節までに記されているテーマです。招いてくれた人のことを無視して、自分の見たいものを見る、テレビをつける。それを、聖書の別の言葉で言い換えるなら、「偶像礼拝」ということになります。

 そして、今日の26節から最後の節までで記されているのは、そうやって、招いてくださったお方を無視し続ける姿というのは、どういうものなのかということが、一つのリストのようにまとめられて記されています。

 この29節から31節に記されているリストのことを、「悪徳表」と言います。

 私たちをこの世界においてくださり、私たちが喜んで生きていくことができるように招いてくださった神ご自身を無視して、自分勝手に生きる、それはどういう形になって表れるのかが、ここでひたすらあげられています。

 私たちが今日与えられている聖書を読む時に、こういう箇所を私たちはどう読むのでしょうか。こういう悪徳のリストを見ると、ああこういうことは良くないことなんだな、今度から気を付けようと思って読む。そんな読み方をするのかもしれません。

 今日のところには、何が神を悲しませるのか、罪とは何かということが、ひたすら書かれています。ただ、私たちはこういう箇所を読む時に、この手紙を書いたパウロはこの文章で何を伝えようとしているのかということを、知らなければなりません。

 パウロがここで私たちに語っているのは、こういうことをしてはいけませんよということなのでしょうか。そうではないのです。むしろ、このリストに含まれていることをしていない人なんて、どこにも存在しないのかもしれません。

あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。

 さすがに、ここまで列挙されると、こんなにひどくはありませんと言いたくなるかもしれません。あるいは、みんなだってやっているじゃないですかと言いたくなるのかもしれません。

 パウロはここで告げようとしているのは、神を知ることを認めないとこうなると言っているのです。

この中で、3回同じ言葉が繰り返されている言葉があります。それが「引き渡されました」という言葉です。24節と、26節、そして、28節に出てきます。

 この「引き渡す」という言葉は、ギリシャ語で「パラディドミー」という言葉です。イスカリオテのユダが、主イエスを裏切った時にも使われた言葉です。任せてしまうということです。

 任せてしまうというのは、自由にすればいいということです。 (続きを読む…)

2021 年 6 月 27 日

・説教 エペソ人への手紙1章1-12節「神の選びの計画と十字架」庄司好男師

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2021.06.27

庄司 好男

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2021 年 6 月 20 日

・説教 ローマ人への手紙1章18-25節「真理を阻むことなく」

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2021.06.20

鴨下 直樹

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 パウロの記したこの手紙は、この前の部分までが導入部分だとすると、ここからがいよいよ手紙の内容に入っていきます。

 全体の枠組みのはなしをすると、ここから3章の20節までで、不義とは何か、罪とは何かということが語られています。

 特に、今日読んだところには、こういう言葉が記されています。

神の怒りが天から啓示されている

 よく、教会の学び会などでも質問としてでてくるのですが、旧約聖書の神様はとても厳しい神様で、新約聖書になると愛の神様になる。どうして、こんなに神様のイメージが変わるのでしょうか?という質問が出ることがあります。

 確かに、聖書を読んでいますと、特に旧約聖書を読むと、そのように思えるほど厳しい神様のお姿が何度となく出てきますので、神様は厳しいという印象を持つということはよく分かります。

 今週の、水曜日と、木曜日に私たち同盟福音キリスト教会は牧師たちの研修会をいたしました。例年は、長野県の「のぞみの村」という教団の宿泊施設がありますので、そこまで出かけて行って、牧師、宣教師たちがみな顔を合わせて、研修の時を持つのですが、今年はコロナのためにそれが出来ません。それで、オンラインで研修会を行いました。

 今年のテーマは「ジャンルを大切にして聖書を読む」という学びをいたしました。というのは、昨年もお招きしようとしていて、できなかったのですが、教団の稲沢教会の渡辺先生が、そのタイトルの本を最近だされましたので、この本を牧師たちみんなで一緒に学んだのです。

 そこで、渡辺先生が語られたのは、聖書の中にはさまざまなジャンルの文章があり、そのジャンルごとに、聖書の読み方が違うんですよという話です。

 たとえば、私たちの日常でも、色んなジャンルの文章があります。新聞とか、日記とか、小説とか、会社の報告書とか、回覧板で回って来るお知らせとか、実に色々あります。その文章の目的にしたがって、それをどういう書き方にするかというのは、異なってきます。

 それと同じように、聖書の中身というのは、詩とか、法律とか、歴史の記録とか、預言とか、たとえ話とか、実にいろんなジャンルの文章が混在しています。その、それぞれの文章の特徴と、その文章にふさわしい読み方を、意識して聖書を読みましょうということを、二日間かけて学んだわけです。

 それで、先ほどの話に戻ると、旧約聖書には、神さまが厳しいというイメージを持つということですが、このジャンルという考え方からすると、まず、旧約聖書の冒頭は律法の書です。これは、法律なので、全部命令形の文章になっています。神様の命令なので、問答無用です。返事は、「ハイ分かりました」しか期待していません。だから、当然、書き方は厳しいわけです。

 その次は歴史書です。この歴史書というのは、誰かの主観ではなくて、事実だけをたんたんと記していきます。どういう問題が起こって、それに対して、人間はどうしたか、神は何と言われたかという客観的な報告です。そうすると、そこには、読み手への気持ちの配慮なんてありませんから、やはり厳しく感じるという部分があるということになります。

 一方で、今日の場合は手紙です。パウロがローマの教会にあてて書いた手紙ですから、そこには読み手が想像されていますので、律法の書とか、歴史書とは異なる書き方がなされています。そういう意味では、同じ聖書の文章ですけれども、読んだ時のイメージがかなり違うということになります。

 これが、旧約聖書と新約聖書を読んだ時に起こるズレの一つの原因です。

 もう一つは、いつもお話ししていますが、「漸進的啓示」というものです。これについては簡単にだけお話しすると、神さまは、幼子に向けては、分からせるために厳しく語りますが、ある程度分かるようになってきた大人には、大人の語り方をします。啓示の仕方が漸進しているわけです。どんどん進展していくので、その違いから、旧約は厳しいけれども新約は優しいという錯覚を感じるわけです。

 ただ、今日の箇所は新約聖書ですが、とても厳しい箇所です。ここには錯覚とか、印象ではなくて、はっきりと、「神の怒り」と書かれています。

 神は怒っておられるということが、はっきり書かれています。新約聖書だから愛だけなのだということではないのです。 (続きを読む…)

2021 年 6 月 13 日

・説教 ローマ人への手紙1章16-17節「福音を恥とすることなく」

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2021.06.13

鴨下 直樹

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 パウロはここで福音について語り始めます。

福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。

 「福音」というのは、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だというのです。

 先週、あるニュースを読んでおりましたら、岐阜県の池田町に工場のある塩野義製薬が、新型コロナウィルスの治療薬を開発しているというニュースが出ておりました。それによると、新しい変異株にも対応できる薬を作ろうとしているということでした。

 今の世界の中にあって、こんな治療薬が完成したら、それはある意味では福音です。信じるすべての人に救いをもたらすものとなるでしょう。そういうものが完成したら、同じ岐阜県民として、誇りをもって、この薬をいろんな方にお勧めすることができるようになると思います。いかがでしょうか?

 福音というのは、良い知らせです。しかもその知らせをもたらされた人に救いを与える力が、そこにはあるのです。大事なことは、そこでも「信じる」ということが不可欠です。
それがどれほどすばらしいものでも、信じて受け取られることがなければ、何もないのと同じです。そのためには、この知らせを届ける人が必要です。

 だからこそ、パウロは、この福音を届けることこそが、私の負い目、責任なのだとこの前のところで語っているのです。

 そして、この人を救うことのできる神の力である福音を届けることを恥とは思わないとパウロはここで言っています。

 振り返ってみて、私たちは、私たちが受け取った福音をパウロのように大胆に証しできるのだろうか、ということを考えてみたいのです。

 家族に聖書を勧める、教会に集うことを勧める時に、そこに躊躇させるさまざまな要因があるとすると、それは何かということです。

 福音を伝えることを難しいと感じる理由はいくつかあると思います。まず、私が思いつくのは、相手に対する配慮です。相手の家族の宗教だとか、その人が大事にしているものを考えると、なかなか勧めづらいということがあると思います。 (続きを読む…)

2021 年 6 月 6 日

・説教 ローマ人への手紙1章8-15節「信仰に励ましを受けて」

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2021.06.06

鴨下 直樹

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 皆さんは、富士山をご覧になったことがあるでしょう。先日、関東に車で行った際に、富士山を見ながら走るのをささやかな楽しみにしていたのですが、残念ながら天気が悪くて全く見ることができませんでした。

 「表富士」とか「裏富士」という言葉があります。山梨県側から見る富士山は裏富士なんだそうですけれども、山梨県の方々からすれば、こっちが表だと思っておられるようです。考えてみたら当たり前のことですけれども、表とか裏というのは、誰が決めるのかということになります。みんな自分を基準で考えるわけで、いわゆる表側の、高速道路や新幹線が通っている静岡県側から見る人が多いので、なんとなく、表富士という言い方が、多くの人に支持されているようです。

 私は東海聖書神学塾で、聖書解釈学という講義をしているのですが、先日そこで、この富士山の見方という話をしました。それは、別に何か特別なことなのではなくて、まず富士山の見方には三種類あるという話をしました。まず一番目は、富士山の全体像を眺めるということです。この見方が、富士山のもっともポピュラーな見方です。けれども、二番目の見方としては、実際にその山道を上ってみるという見方があります。そうすると、ひたすらごつごつした岩場を何時間もかけて登らなければならないわけです。そこからは、山から周りの景色は見えても、富士山自体はそれほど綺麗ではなくて、富士山の厳しい現実を知ることになるわけです。そして、三番目の見方としては、さらに詳しく観察してみるということもできると思います。富士山の石はどういう石なのかとか、酸素の濃度はどうだとか、標高何メートルかを超えると木が生えなくなるとか、詳しく見るとさらにそこで見えてくる世界があります。

 ちょうど、この三つの富士山の見方があるように、聖書を読む時にも、それぞれ見方が違うのだという話をしたのです。

 パウロは、ローマの教会に手紙を書き送っています。なぜ、手紙を書くのかというその目的をここで記しています。11節ではこう言っています。

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

 パウロもローマの信徒たちも、共に主にある信仰に生きている人たちです。それは、言ってみれば一緒に富士山に登頂する仲間のようなものです。その仲間たちが、力強く山を登り続けることができるように、「あなたがたを強くしたいから」とパウロはここで言っているのです。

 それは、ある程度、その道を歩んできた先輩だからこそ、教えられるさまざまなノウハウがあるということです。その自分のノウハウ、この聖書の言葉でいえば「御霊の賜物」を分け与えたいのだというわけです。

 けれども、それだけではないとパウロはここで語っています。それが、続く12節です。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

 このパウロの言葉に、私は驚きを覚えます。パウロは異邦人伝道の先駆者です。しかも使徒として主に召されているという、自覚もあるのです。そのパウロがここで、私は、これからあなたがたにいろんなことを教えてあげるからねという、言ってみれば「上から目線」で語ることも出来るわけですけれども、パウロはここで、私も同じ山を登っているので、あなたがたと一緒に上りながら、励まし合っていきたいのだと言っているのです。 (続きを読む…)

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