2020 年 5 月 24 日

・説教 創世記25章27-34節「何に価値を見出すか」

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2020.05.24

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 ドイツにいた時のことです。最後の半年間私はある町の教会でインターンとしての実習を受けることになりました。その教会の牧師は日本でも宣教師として働いたことのあるクノッペル先生の教会です。当時、まだ青年だった私はこのクノッペル先生ととても仲がよくて、良い時間を過ごしていましたので、このインターンの期間はとてもよい実習の時となりました。

 この牧師の書斎の机の上にいつもひとつの石ころが置いてありました。遠くから見ているだけでは特に変わった石には見えません。ごつごつした黒っぽい石です。私自身は、石ころにとてもロマンを感じます。これは、どこにあった石なのか、どんな歴史を経て来たのか、何万年前からあるのか、そんな想像力を掻き立てられます。あるとき、私がクノッペル先生に、この石はなんですかと質問してみました。すると、クノッペル先生は顔を輝かせて、まるでその質問を私がするのを待っていたとばかりに、その石について語り始めました。最初に見せてくれたのは、その石の後ろにライトを当てて、よく見るように言われました。すると、なんとその石の後ろに置かれた光を通して見てみると、その石の中に水が溜まっているのが見えるのです。そして、この石の中の水はいつからここに閉じ込められていて、何万年前の水かと想像するとわくわくするという話を聞かせてくれたのです。

 何となく、この人は私と同じタイプの人間なんだと共感できた一瞬でした。もちろん、何の興味もない人からすれば、それはただの石ころでしかないのですが、ちょっと関心を向けると、そこにはとてつもないドラマがあることが分かります。一見、何の変哲もない石に見えても、そこに秘められたドラマに価値を見出すこともできるわけです。

 今日の聖書は、エサウとヤコブの兄弟のある一日の出来事が記されています。読みようによっては、何の意味も感じられないような出来事なのかもしれません。弟が作っていたレンズ豆の煮物を、兄が食べたいと言った時の小さな会話。それだけのことです。けれども、小さな出来事の中に、聖書は実に大きなテーマを取り扱おうとしています。
 それは神の選びと委棄の物語です。「委棄」(いき)という言葉はあまり普段使わない言葉です。委ねられたものを放棄するということです。つまり、この場合、長男としての権利を、エサウは放棄したということです。

 私は五人兄弟の二番目で、長男です。上に姉がおり、下に、弟が二人と、妹が一人います。子どもの頃、まだ小学生の頃のことです。弟は、この話が気に入ったのか、時々神様は弟を祝福するというテーマの話を私にしていました。私は弟になったことがありませんでしたので、兄の持つ価値ということに、あまり興味がありませんでした。もっとも、姉はそうではなかったようで、兄弟げんかがはじまると、その責任を問われるのはいつも姉でしたからずいぶん悩んだのだと思います。そう意味では、私は気楽な二番目の長男だったわけです。けれども、たとえば、おやつを兄弟と分けるというような場合になれば、長男の権利を発動して、大きなものを取ることができましたので、長男のありがたみをそれなりに満喫していたのだと思います。けれども、弟からしてみれば、いつもいい方を兄である私がかっさらって行くわけですから、面白くなかったのでしょう。そんなこともあって、この聖書の物語にことさらに興味を覚えたのかもしれません。

 あるとき、ヤコブがレンズ豆を煮ていると、兄のエサウが疲れて帰ってきます。何日も狩りに出かけてへとへとになって帰って来た。そんなことだったのかもしれません。そして、兄はちょうど料理をしていた弟に、その豆の煮物を欲しいと頼むのです。それは何でもない日常の一コマの出来事です。「いいよ」と言って差し出せばそれで済む話です。ですが、ヤコブはその時にこう言います。

「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」

31節です。 (続きを読む…)

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