・説教 創世記25章19-26節「イサクとリベカの祈り」
2020.05.17
鴨下 直樹
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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
先週の15日、新型コロナウィルス感染拡大防止のための緊急事態宣言の解除が出されました。この岐阜県でも段階的に解除していくという指針がだされています。本当に長い期間に感じられましたが、少しずつ本来の生活を取り戻していくことができるようになればと願っています。
特に、教会に集って礼拝ができなくなるなどということは、これまでの歴史のなかでもそれほどないことです。ですから、多くの方がまた一緒に礼拝ができる日が来るようにと祈ってこられたと思うのです。
さて、今日のテーマは「祈り」です。イサクが祈り、またリベカも祈っています。私たちもまた祈ります。このような事態から一日も早く回復できるようにと祈ります。祈りには色々ありますが、ここに記されている祈りは、願い求めの祈りです。
私たちはお祈りをするという時に、そのほとんどが、この願い求めの祈りだと思います。神様に願い事をする。願い求めの祈りをする。それはごく日常のことです。車に乗るとき、運転が守られるように祈る。仕事に出かける時、玄関先で短く、今日の一日の守りを祈る。家族の健康が支えられるように祈り、あるいは、他の人の病気がいやされるように祈る。私たちの祈りの生活の多くが、そのような願い求めの祈りです。そして、時折、私たちにはどうしても祈りをかなえてほしい願いがでてくることがあります。
時々、お話しすることですけれども、私が中学3年生の時、毎日窓を開けて、天を見上げながらある祈りをしました。それは、私はあまりにも勉強をしていなくて、入学できそうな公立の高校がありませんでした。先生からも私立の受験をすすめられていましたが、我が家にはそんな経済的な余裕がありません。それで、私は一念発起しまして、その日から、毎日祈りました。「神様、どうか私の頭がよくなるようにしてください。あなたはソロモンに知恵を与えられました。私にもできるはずです。」とかなんとか言う祈りです。毎日、毎日、勉強もしないで、祈り続けました。結果、頭は全然よくなりませんでした。幸いに、何とか県下の工業高校に当時は最高の2.6倍という倍率を乗り越えて、公立ぎりぎりの高校に入ることが出来たのは、神様の憐れみだったのだと思います。なんでそんなに倍率が高かったのかよく分かりませんけれども、たぶん、そこが公立の一番下のラインという事で、受験する人が殺到したのだと思います。
みなさんにはこんな経験があるでしょうか。私たちが祈るとき、時としてとてもわがままな祈りになってしまうことがある気がします。
ですが、少し考えてみる必要があると思うのです。たとえば、みなさんが相手は誰でもいいのですが、誰かから、顔を合わせるたびに、「ねぇ、お願い、お願い」と願い事ばかりを頼まれたらどうでしょう。ちょっとうっとうしく感じるのではないでしょうか。そういう人と少し距離を取りたいと思うのではないでしょうか。
よく、デパートに買い物に出かけますと、小さな子どもがおもちゃ売り場の前で泣いていて、母親が腕をひっぱったり、あるいは子どもを無視したりしている光景を目にすることがあります。私はあの光景を見るのは嫌いではありません。がんばっている親の姿を見て、どこか応援したくなる気持ちがあります。みんなそういうことを通して、願うものは何でも手に入れられるわけではないのだという事を、体験的に学んでいくわけです。
ところがです。不思議なこともあるものですけれども、こと神様にお願いをするときに、私たちは時折この子どものような祈りをしてしまうことがあるのも事実です。祈ったものが与えられないと、へそを曲げたり、腹を立てたりします。でも、よく考える必要があるのです。親は、自分の子どもにでさえ、すべてのものが手に入れられるわけではないことを教えるのに、神さまは全部何でもいうことを聞いてくれると考えるのは身勝手なことなのだ、ということがそこで明らかにされている。それ以外の何物でもないのではないか。そんなことに気づくことが必要なのだと思うのです。
さて、今日のところからイサクの物語に移っていきます。そして、聖書はここでイサクを描くのにあたって、まずこう書いています。21節です。
イサクは自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。