2010 年 12 月 5 日

・説教 「人生の土台を築くもの」 マタイの福音書7章24-29節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 16:24

 鴨下直樹

2010.12.5

 

 

山上の説教から御言葉を聴き続けてすでに半年以上たちます。今日の箇所は、この山上の説教の最後、結びの部分と言われるところです。「主イエスがこれらの言葉を語り終えられると」とありますから、ああ、これで説教が終わったのだということが分かります。実は、私自身、この山上の説教の最後のところを迎えながら、もう一度説教をやり直すことができたという思いがしています。ここで主イエスが語られたことを十分に語ることができたかという思いがあるのです。

 

 

主イエスはここで本当の生き方、神が喜ばれる生き方とは何かを語られました。どう生きることを、神が求めておられるのかを教えてくださったのです。けれどもそれは、聞く者にとって、決して簡単なことではありません。私たちの周りに生きている人々と、全く性質の異なる生き方をするようにと、主イエスはここで語っておられるのですから、それは当たり前のことが語られているのではないのです。

 

この山上の説教というのは、一般に非常に難しいことが書かれていると言われます。ここで言われていることを実行することは不可能だという思いを、この箇所を読む人々、聞く人々は抱きます。たとえば、、「あなたの敵を愛しない」という言葉一つとっても、そのことがよく表されています。けれども、この主の言葉は、本当に幸いに生きる生活、人生の営みというのは、神と共にあって歩むこと、真実に生きること、自由に、愛を持って生きるようにと招いてくださいます。それは、そこに、私たちにとって本当の幸いな生活がそこにあるからです。

 

それでは、この最後のところで、主イエスは私たちに何を語っておられるのでしょうか。主イエスはどうやら主イエスの話をちゃんと聞いたのかどうかを確認しようとしておられるようです。そのために、最後に主イエスはたとえ話を話されました。主イエスの譬話というのは、じつはこの福音書の中で非常に大きな位置を占めています。大切なことを話されるときは、いつも、譬で話をされたと言ってもいいほどです。

 

 それで、ここでどんな譬を話されたかというと、「自分の家を建てた賢い人と、愚かな人」の譬です。話自体はそれほど複雑なものではありません。先週の金曜日だったでしょうか季節外れの嵐がありました。激しい雨がふり、強い風が吹きつけます。さまざまなところで大きな被害があったようです。そのような突然の嵐にあったときにもきちんと耐えうる家というのは、砂の上に家を建てるような簡単な建て方はしないで、しっかりとした岩の上に建てるべきだということです。

 

 私の話をして恐縮なのですが、私は昔、地盤調査のアルバイトをしたことがあります。半年ほどの間でしたけれども、体験貴重な経験をいくつもすることができました。大抵の場合、地盤調査をするときは、地面にボーリングといいまして、穴を掘って行って、地盤の固さを調べますが、一般の住宅を建てるような場合は、機械を使って地盤を調べると言うことはあまりしません。スエーデン式という方法で、先端がスクリュー状になっている棒に、100キロの重りを載せて、二人で回していきます。それで、何回回す間に、どのくらい入るかで地盤の固さが分かります。ところが、私の働いていた会社は、特別な機会を地面におきまして、小さな振動を起こします。すると、地面から跳ね返ってくる振動の速さをコンピューターが計算して、地盤の固さが分かると言う当時は最先端の機械でした。

 ある時、地盤調査の仕事をするために現場に向かいますと、そこは大変広い土地で、こえから30階建のマンションを建てるというところでした。この土地はもともと池だったのですが、埋め立てをしてできた土地です。ところが、その建物を建築する場所の半分は岩盤で固い土地なのですが、半分は、埋め立てをした土地です。この埋立にはどうも、色々なものを土の中に埋めた土地のために非常に弱い土地だったのです。それで、その調査の結果、相当深く杭を打ち込まないと、建てられないということが分かりました。困ったのはそのマンションを建設する会社です。もう公募も終わって、価格も決めて販売が終了した土地ですから、予定外の費用は出せないというのです。それで、何とか、杭打ち工事をしなくてもいいようにできないかというのです。もちろんそんな許可は出せないと断りますと、この建設会社は、最終的にもっと甘い結果をだしてくれる別の業者にもう一度調査を依頼するということでした。

 家を建てるということは、本当に大切なことです。あるところの地盤が固くても、別の部分が弱ければ家は傾いてしまうのです。見た目は確かに立派な建物が経ったとしても、それは安全とは言えないのです。

 

 主イエスのこの譬話というのは、まさに現代にもそのまま通用するような非常に現実的なはなしをなさいました。それを聞いたものは、どうしても考えざるを得ないのです。自分の人生の土台は、しっかりとしたところに建てられているかと。

 主イエスはこの譬で、「家」の話をしておられます。「家」というのは、私たちの生活の中心です。私たちのいのちの営みすべてが表されるところです。結婚、子育て、教育、仕事、社会の営み、老後の生活のすべてをあらわす象徴的な言葉です。けれども、そのような生活全般のことを私たちはよくよく考えているはずなのに、自分の生活の土台はどうであるかということはあまり考えられていないのが現実です。見えるものに目を奪われてしまう。華やかな生活ぶりに目がいって、大切なことに目が向かないのです。

そうすると、「賢い人」と言う場合に、私たちがここで思い描くのは、結果までしっかりと見据えて行動する人という意味ではないかと考えることができます。何でも表面的に見ていてはだめで、物事をしっかりと最後まで見据えることが大切であると。問題が起こる前に考えておくこと、つまり、試練が来る前に、しっかりとした備えをしておくことが重要だと考えるのです。

 主イエスがこの譬で、「賢い人」と、「愚かな人」と言っているのは、何において賢いのでしょうか。確かに、中途半端な土台の上でいつ倒れるかどうか分からない建物であったとしても、買う時に安ければそれでいいというのは、一つの賢さと言えますが、主イエスはそのようなことを言おうとはしていません。砂の上に建てるなら、突然の嵐で、砂がどこかに流れていくと、たちどころに、家は流されて行ってしまうのです。そのように、自分の人生を確固たるものとするのは、何かということを、主イエスはここで問いかけておられます。つまり、ここで言われている「賢さ」というのは、この世で上手に生きるための知恵というようなものでは無いことが分かります。

 

ここで、「賢い人」と「愚かな人」の違いは何かというと、どちらも家を築いて、幸せな生活を作り上げようとしたことは同じです。さきほどのマンションを建てようとしていた業者は、見かけは同じだから何か起こらなければ問題ないとタカをくくっていたといえるかもしれません。それと同じように、どれほど、この世界の知恵を生かして生活しているから、自分の生活は大丈夫なのだと思い込んでいたとしても、自分の人生の土台がしっかりとしていなければ、その上に築き上げられた生活は、いつも危険と隣り合わせにあるということになりかねません。

 

 この主イエスの言葉の最初の部分にこう記されています。「わたしのこれらのことばを聞いて行う者はみな」と。ここでも、やはり、主イエスの言葉を、ただ、聞いているだけではいけない。聞きながら家を建てる、自分の生活を築き上げようとしていても、行わないなら聞いていないのと同じだと読めます。そうすると、先週の箇所でもそうだったのですが、やはり信仰は実行が必要だと言うことなのでしょうか。

 

 このたとえ話は、主イエスが最後にしておられる話ですから、よくよく大切なことが語られているに違いないのです。

ここで主イエスが譬で話しておられるのは、「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけた」時です。つまり、すべてのものを押し流してしまうような、まさに最後の時と呼べるような時に、あなたの人生は、あなたの生活は、大丈夫だったと果たして言えるかということをここで問いかけておられるのです。ここでは、もうすべてが破壊されてしまっているような状況ですから、その時になって何かをしようとしても手遅れです。つまり、ここで、主イエスは人生の一時的な患難や、苦しみのことではなくて、終りの時、神の裁きの時にあなたの人生はそれでも大丈夫と言えるかということを問題にしておられることが分かるのです。根本的にあなたの人生は大丈夫なのかとう問いかけです。あなたの人生は何に根差しているかということです。

 

「根無し草」というのがあります。もともとは池などの中に浮かんでいる草のことです。しっかりと安定した大地に根を下ろしていてないので、いつもふよふよと流されるままに流されていく。そういう生き方ではないとあなたは言えるか、主イエスは問いかけておられるのです。自分の人生は何に根差しているかということです。

 

主イエスはここで、「わたしの言葉を聞いてそれを行うなら」と言われたのは、そのように、あなたの人生が揺れ動かないで、確信と信頼を持って生きることができるのは、わたしの言葉に聞き従うことがと主イエスは招いておられるのです。それ以外にあるのかという問いでもあります。

 

今、アドヴェントを迎えています。主イエスが再び来られることを思い起こしながら、その備えをしようという季節を過ごしています。私たちは何によって、それを確認することができるかと言えば、それは、私たちは主の御言葉に立って生きようと、改めて確信すること以外に道はありません。主イエスがここで語っておられるように、私たちは、神の言葉を土台として、生活を築き上げるともう一度心新たにし直す必要があるのです。

 

この芥見教会の礼拝堂もまた、実に確かな土台を備えて礼拝堂を建てたようです。私は写真しか見たことがありませんけれども、おそらくここの地盤であれば、それほど補強しなくてもいいと思いますけれども、それでも、しっかりとした土台を据えました。備えすぎて、不十分ということはないということを、表そうとしたのでしょう。それと、同じように、私たちの生活も同じです。

この芥見に来て、良く耳にする言葉の中に、「まだ聖書を全部読んだことがない」と言われる。どこかで、そうであってはいけないと思われるからでしょう。あるいは、全部読みたいのだけども、なかなかそれができないという思いがあるので、色々な方々がそう言われるのだと思います。来年こそは、まず聖書を一通り読むということから始める。それも非常に大切な備えです。キリスト者として生きようと願っているのに、聖書を知らなければ、生きようにないのです。これを、読むことが、自分の人生の土台を築くことだと信じながら、ぜひ読んでいただきたいと思います。

 

来年、この芥見教会の伝道開始30周年を迎えます。実はもう一月後の話です。三十年の歩みをしてきた教会には、30年の主と共にある歩みがあります。それは、もう子供の歩みとは言えないでしょう。大人としての歩みをこれから、この地域に築き上げていく必要があります。この聖書の言葉が、あなたの人生の土台になりますよと、こころからこの地域の人々に招いていきたいのです。この主イエスの言葉に耳を傾けていくことが、あなたの人生を幸いにすると、信じて語りたいのです。

 

 

 主イエスの話を聞いた人々はどのような反応をとったでしょうか。二十八節以下には「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」。と記されています。

 

 人びとは驚いたのです。主イエスのこと説教を聞いて、何よりも主イエスの持っておられる権威に驚いたのです。

 「律法学者たちのようにではなく」とありますけれども、当時の律法学者、聖書の信仰に生きた人々の語る言葉には権威はなかったのです。なぜでしょうか。簡単なことです。その言葉に生きていなかったからです。語る言葉と、生活が一つに結びついていなかったので説得力をもたなかったのです。いや、それだけではなくて、人に語る言葉が、相手の重荷となるような言葉としてしか語れなかったのです。しかし、主イエスの語る言葉はそうではなかったのです。聞く者に、驚きを与えたのです。

 

 そうすると、私たちはすぐに考えてしまいます。私たちの生活の中の言葉も、この律法学者たちと全く同じように説得力がないのではないかと。いやそんなことはない、私の語る言葉は説得力をもっているはずだと、自信を持って語ることができる人はそれほど多くないと思います。しかし、だから私たちは主イエスの教えられるように生きることはできないと諦めなければならないのでしょうか。

そのことを、良く理解するうえでも、私たちがここで良く注意して読み取らなければならないのは「権威ある者のように教えられたからである」という記述です。

 

 主イエスがお語りになった言葉にはある権威があった。つまり、神の権威があるように語られたと人びとは聞き取ったのです。これは、今日の私たちにはちょっと反対に理解しずらいことかもしれません。私たち、とくに教会では主イエスは、父なる神の御子としてこの地に来られたという前提で言葉を聞いていますけれども、この主イエスの話をこの時に聞いていた人々はそのように考えてはいませんでした。

 この「権威ある者のように」というのはどういうことかという、そこで多くの聖書学者たちが語っているのは、旧約の時代にイスラエルの民を導いたモーセがシナイ山で神から十戒を与えられて、神の民に律法を与えました。モーセは神の権威をもって語ったのです。ところが、ここで、主イエスはモーセが神の言葉を聞いた山の上と同じようなところ、新しく、ここに集まっている人々にまるで、神ご自身の言葉であるかのようにお語りになられたということです。つまり、モーセが語り得た神の権威にも勝るほどの権威をもってここでお語りになられたのだということです。

 これは、当時の人びとには大きな驚きでした。主イエスは、「神はこう言っておられるのです」とお語りにならずに、「父なる神のみこころを行いなさい」というように語られたのです。神を父と呼び、自分は神を父と呼び、このお方のみこころを、自分は知っているだからとお語りになったのです。その言葉には、人を救う力があったのです。人に自由を与え、喜びを与える力があったのです。この方の言葉は、律法学者たちの語る言葉とはまったく種類がことなる言葉だということが分かったのです。

 

主イエスはここで、ただ、弟子たちだけに語っておられなかったということがここからもよく分かります。そして、このお方の語る言葉が、神の権威を持つ言葉であるかどうかを判断することを、主イエスは、話の聞き手に託されたのです。

あなたは、これを聞いて、自分の人生の土台としたいかと問いかけてさえおられるのです。わたしが語ったこの言葉の中に、あなたは行きたいと願うかとここで招いたのです。この主イエスの話を聞いた人々に主イエスは、招かれたのです。

 

ですから、自分がここで言われた通りに行うことができるかどうかが、大事なことなのではなくて、このお方の語られた言葉が、神の御心であると信じるかどうかを主イエスはここで問いかけられたのです。そして、信じるから、この神の権威が、その言葉を現実のものとすることもまた信じることができるのです。

主イエスの言葉は、私たちを自由にします。それは、神の権威によるものです。私たちの生活を、まさに神の意志によって生きさせようとしておられるのです。そして、これこそが自分の人生の土台足りうるものだということを、聞き取ってほしいのです。そこに、主イエスの願いがあるのです。この主イエスの言葉に生きる。主と共に生きるところに、自分の人生は築き上げることができると信じていただきたいのです。

ここに、私たちの本当の生き方が、語られているのですから。

 

 

 お祈りをいたします。

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