2010 年 12 月 19 日

・説教 「病をいやされる主イエス」 マタイの福音書8章14-17節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 16:39

鴨下直樹 

2010.12.19

 

 

さきほど、洗礼入会式を行いました。洗礼を受けた、Mさんは子どものころから教会に通っています。親がキリスト者であるということは、子どもにとって、子どもが考えている以上に大きな祝福があります。今日は洗礼入会式のある礼拝ということもあって、子どもたちも一緒に礼拝しておりますけれども、子どもたちにもぜひ覚えてほしいのは、自分もMさんと同じように、親と同じ信仰に生きるということがどれほど幸いなことかということを積極的に考えてほしいと思うのです。

さきほどもMさんの証しを聞きました。Mさんは高校を卒業するころになって病になりました。そのために決まっていた大学も諦めなければならなかったというのは、とてもつらいことです。けれども、そのことがきっかけとなって、聖書の学びをするようになりました。聖書にはたくさんの癒しの出来事が書かれているからです。自分も癒されたいと願ったのです。そして、聖書の学び、信仰の学びをしていくなかで、救いということの意味を知りました。自分が救われて、主が共にいてくださるということが分かったのです。そこに、慰めを見出したのです。そして、今日、こうして洗礼入会を果たすことができました。

 

今日の聖書の箇所もまた、病の癒しの出来事が書かれています。しかも、ここで癒されたのは人だけはありません。夕方になると大勢の人々が病を癒してもらおうと、主イエスのところに押しかけてきたのです。そして、主イエスはそのような大勢の病める人びとを癒されたのです。そのように、この時代から、今日に至るまで、多くの人が主イエスに病を癒してほしいと願いながら、主イエスの前に集いました。しかも、今日の十六節を読むと、みんなまとめて癒されたと記されているのです。

前回のところでは、主イエスは百人隊長の信仰をほめられました。そのような素直な信仰の姿に、主イエス自身驚かれたのです。しかし、ここを読みますと、私たちは少し不思議な気持ちになります。ここで最初に記されているのは、ペテロのしゅうとめが癒されたことが記されています。子どもたちも今日はいっしょですから、この「しゅうとめ」という言葉には説明がいるかもしれませんけれども、主イエスの弟子であったペテロはどうも結婚していたようです。そして、そのペテロの妻のお母さんも一緒に住んでいました。子どもから見れば、お母さんの方のおばあさんということになります。このお母さんの方のおかあさん、おばあちゃんが病気で、熱を出して寝込んでいたのです。そして、この人を主イエスは一日の終りに、癒してくださったのです。

 

 この出来事の前に主イエスが山の上で説教されたことが記されていました。それがマタイの五章から続いているのですが、マタイはどうも、そこから一日が始まって、このペテロの家を訪れたところで、一日が終わったと記しています。実にあわただしい一日です。その一日が終り、弟子のペテロの家で休もうと訪れてみると、ペテロの妻の母親が病で寝込んでいたのです。熱病ですから、主イエスたちをもてなすなどということはできません。かえって、病気をうつしてしまうのではないかと心配したかもしれません。

 すると、主イエスはそのペテロのしゅうとめの熱病に手を触れて、癒してくださいました。これで、やっと一日が終わってホッと、くつろげるかと思っているところ、もう夕方になっているのですが、今度は悪霊につかれた人々が大勢、この家に訪れてきたのです。この「悪霊につかれた人」という言葉を私たちが読むと驚くかもしれませんけれども、当時、病気になるとの悪霊の働きだと考えられていましたら、病の人たちを読んでも間違いではないと思います。

ここでマタイは、主イエスが休む暇もなく、一日働いておられるという、主の一日の姿として描いているのです。そして、その一日の出来事の最後がペテロのしゅうとめと、大勢の人々の癒しの出来事です。

 

 

 今朝私たちに与えられている聖書をよく読んでみますと、誰もが気がつくことですが、ペテロのしゅうとめが立派な信仰で主イエスに癒しを求めたということは書かれていませんし、そのあと、大勢訪れてきた人々がどのような信仰を持っていたのかということも書かれていません。

ただ、この一日の最後にマタイはこう記して一日を結びました。

「彼がわたしたちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」と。これは、イザヤ書五十三章の言葉です。よく「苦難のしもべ」などと言われる箇所からの引用です。

 

マタイは主イエスの一日の姿を描きながら、このおっ方は、私たちの病だけでなくあらゆるわずらいを引き受けてくださったと記したのです。 この出来事の中で、私たちがもっと知らなければならないのは、この十七節では「あらゆるわずらいを身に引き受け」という言葉が使われているということです。この言葉は旧約聖書のイザヤ書五十三章では「病い」となっている言葉ですけれども、ここでは「あらゆるわずらい」とされているのです。もちろん、これは七十人訳という当時用いられていたギリシャ語の聖書からの引用です。この聖書について、今あまり、詳しい説明をすることはできませんけれども、この時代の人びとがそのように読んでいたということは明らかです。これは「あらゆる弱さ」という意味です。人の病というのは、悪霊によるというような考えもありましたけれども、そればかりではなく、人間には誰もがさまざまな弱さを持っていると言うことです。そして、その弱さを、主イエスは背負ってくださったのです。

 

ここで、「引き受けた」とか、「背負った」と書かかれています。これは、このような人の弱さを、主イエスが自分のものとされたということです。主イエスが、人の病、わずらい、あらゆる弱さを、自分のものとして背負ってくださったのだというのです。そして、そこで信仰を与えてくださるのだということが、ここで語られていることです。

 

 私たちは病の苦しみにあうとき、さまざまなわずらい、さまざまな問題で思い悩むときに、それは、誰にも理解できないだろうと考えます。自分の病を、自分の苦しみを、自分の中で絶対化してしまうのです。そうして、誰もこの苦しみは分かりはしないのだと考えることによって、弱いことを、病であることにむきになってしまう。意地になってしまうところがあるのです。

 

 私自身そうでした。かつて、イギリスからの強制送還されたことがあります。そのことは、それほど今丁寧に説明する時間はありませんけれども、その時に、帰国して本当にみじめな気持でいました。そして、色々な人が慰めの言葉をかけてくれるのですけれども、誰のもこの悲しみは理解できないと思うことによって、自分の悲しみを守ろうとしました。そして、かえって、自分を慰めてくれようとしてくれた人に腹を立てたのです。

 けれども、主イエスはそのような人の持つ、痛みを背負ったのです。いや、背負っただけではなくて、負い続けてくださって、そのまま十字架にまで追い続けてくださったのです。なぜそこまでされたのでしょうか。それは、私たちを癒すためです。私たちを救うためです。私たちが、立って、歩くことができるようになるためです。

 

 ペテロのしゅうとめは、ここで主イエスにいやされ、「もてなした」と記されています。これは、文字通りには、給仕しはじめたということですけれども、もう一つの意味があります。それは、奉仕したという意味です。主イエスに仕え続けたという意味です。

 この後、ペテロは、妻と共に主イエスに仕え、伝道をします。そのことをパウロなども次のように書いております。「私たちには、他の使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れてあるく権利がないのでしょうか。」第一コリント人への手紙九章四節です。ここで「ケパ」と言われているのは、ペテロのことですけれども、このように、ここで自分の母親が主イエスによって癒されるという経験したペテロの妻は、生涯にわたってペテロと共に伝道してあるいたのです。

 

 癒されたいと願いながら、そこで主イエスと出会い、主の救いを味わうというのは、マタイがここで記しているように、多くの人々が味わう経験です。

 

 星野富弘という詩人であり、また画家でもある人がおります。もう、知らない人がいないほどに有名になりましたけれども、この方も病を抱えています。体を動かすことができないのです。ですから、あの詩も、絵も、すべて口に筆を加えて書いています。この星野富弘さんの言葉にこういう言葉があります。

 「ケガをして全く動けないままに将来のこと、過ぎた日々のことを思い悩んでいた時、ふと激流に流されながら、元いた岸に泳ぎ着こうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。『何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか・・・流されている私に、今できる一番良いことをすればいいんだ。』 その頃から、私を支配していた闘病という意識が少しづつ薄れていったように思っている。歩けない足と、動かない手と向き合って、歯を食いしばりながら、一日一日を決めるのではなく、むしろ動かない体から、教えられながら、生活しようという気になったのである。」

 なぜ、そう考えることができるようになったのか。それは、主イエスを信じたからです。信仰が与えられたからです。主イエスが、星野富弘さんに新しい生き方を示し、そして今度はこの主イエスを証しする生き方を与えてくださったのです。

ここにも、主に仕えて生きるようになった者の姿があります。主は、私たち様々な弱さを持つ私たちに、このように生きる道を与えてくださるのです。

 

お祈りをいたします。

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