2013 年 5 月 12 日

・説教 詩篇27篇7節 「聞いてください、主よ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:44

2013.5.12

鴨下 直樹

今日は復活節の第六番目の主の日です。この日は、「エクサウディ」、「聞いてください」という名前のつけられた主の日で、この詩篇二十七篇七節が読まれます。この御言葉が今朝与えられているというのはやはりとても意味深いことです。
教会の暦ではこの次の日曜にはいよいよペンテコステを迎えます。ペンテコステというのは、教会に主イエスが約束された聖霊が与えられたことを祝う日です。イースターから五十日目がこのペンテコステです。四十日目、ちょうど先週の金曜日ですが、この日は昇天日です。弟子たちと共に過ごされたよみがえりの主が天に帰って行かれた日でした。主イエスはもう一度来てくださるとの約束をして、天に帰っていかれたのです。今朝は、主イエスが弟子たちから去られた後の主の日で、また、ペンテコステを前にした主の日です。ここで、この「聞いてください、主よ」という御言葉が与えられているのです。

聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

と七節にあります。この言葉が今朝の中心的な御言葉です。
この詩篇の詩人は表題にダビデと記されています。ですからダビデの祈りと考えられるのですが、この詩篇全体の内容を見てみますと、ちょうどこの七節から突然内容が大きく変わります。
一節から六節までは光と喜びに満ち溢れた深い神さまへの信頼の祈りです。
「主は、私の光、私の救い。」という大変美しい祈りの呼びかけからはじまります。そして、主の確かな救いの中にいる喜びを心から賛美しています。それで、この詩篇は詩篇の中でも最も美しい詩篇の一つに数えられることもあるほどです。ところが、七節から事態は一気に変わります。敵に追われながら、「私を見放さないでください。見捨てないでください。」「私の仇の意のままの、させないでください。」という祈りの言葉が続きます。まるで、異なる祈りが一つにされたのではないかと思えるほどに、祈りの雰囲気が急激に変わっているのです。

このような御言葉を読んでいると、ちょうど主イエスと共に歩んだ弟子たちのこの時の状況もこんなことではなかったかと想像することができるのではないでしょうか。主イエスが弟子たちから離れて天に帰られるその時まで、弟子たちは恐らく復活の主との豊かな時間を喜んだに違いありません。まさに、「主は私の光」と心から言うことができたに違いないのです。けれども、主が天に上げられて、今度は弟子たちしかいないのです。そうすると弟子たちは自分たちの信仰が直接的に問われるようになって、たちどころに不安を感じたのではなかったでしょうか。まさに、最初の弟子たちの教会が体験したことが、そのままこの詩篇に現れているといってもいいのです。そして、それはそのまま私たちの祈りの姿でもあります。
教会の交わりの中にいる時、キリスト者との交わりの中にいるときは喜びの中にいることができるような気がするのですが、自分の生活の中ではすぐに不安になってしまう。神さまが自分と共には働いていてくださらないような、心細い経験をするということがあるのではないでしょうか。

今日の詩篇の中にこんな言葉があります。三節です。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

ここを見ますと、この祈りを祈ったとされるダビデは非常に力強い信仰に生きているように見えます。「私の心には恐れはない」などと言い放つことができているのです。けれども、そのような強い信頼に結ばれたいたダビデが、この後半では「私を見放さないでください。見捨てないでください。」と祈っているのです。
私たちもダビデのような急激な心の変化を感じることがあると思います。それにしても「わたしの心に恐れはない」と言えるほどの大胆な信仰はなかなか口にすることができないと思うのではないでしょうか。
この「私の心には恐れはない」と言う時に現わされる「心」という言葉はとても面白い言葉です。私たちはこの「心」を心情的な、感情を表す言葉として理解すると思います。この心と訳されている言葉はヘブル語で「レーブ」と言う言葉で、旧約聖書の中に何度も出てくるとても大事な言葉です。

今、祈祷会でダビデの生涯をずっと学び続けています。あと二回で終わるところまできました。このダビデの物語の中に、ナバルという人物が出てきました。サムエル記第一の、第二十五章にこの時の出来事が記されています。ダビデがまだサウル王から追われて逃げている時のことです。夏を迎えて羊の毛を刈る季節になりました。この時代はこの時に大抵祝宴をもうけるようです。ダビデは普段、ナバルの羊の群れを守るのを協力していたので、この時にナバルのもとを訪ねます。宴会に加わりたいと考えたのです。それで、ナバルのところに使いを遣わします。ところが、ナバルは「近頃は主人のところを脱走する奴隷が多くなっている」とダビデの使いを辱めます。このために、ダビデは怒りに燃えて、ナバルの一族を撃ち殺そうとしたことがあったのです。ところがそれを聞いた聡明なナバルの妻アビガイルは、機転を利かせてダビデに贈り物をしナバルのとりなしをしたので、ダビデは襲撃をするのを取りやめたという出来事がありました。
その後の出来事に、こんなことが記されています。三十六節以下です。

アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは自分の家で、王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上きげんで、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。十日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ。

ここで、ナバルが「気を失って」と訳されている言葉ですが、この言葉がヘブル語でレーブという言葉が使われているのです。よくここでも紹介しますけれども、カトリックの聖書学者の雨宮慧先生が「旧約聖書のこころ」という本を出しておられまして、旧約聖書の大事な言葉の意味をこの中で解説してくれています。その中で雨宮先生は、この文章を「ナバルの心臓はそのうち死んで、石のようになった」と訳しています。この「心臓」と訳した言葉が「レーブ」という言葉なのです。新改訳での「気を失って」という言葉とはずいぶん異なります。
ここで雨宮先生は面白い説明をしています。私たちはこの言葉を「心」と理解するけれども、旧約聖書の人々は「心臓」という言葉を使った。脳とか神経の機能が心臓にある、と考えていたのだと言うのです。聖書を読む時にはこのように、この時代の人々の常識から聖書を読むことが大事だというのです。
つまり、旧約聖書の「レーブ」という言葉は、私たちの考える「心」という情緒的な動きを考えていたのではなくて、脳のような動きと機能がそこにあると考えていたというのです。このレーブと言う言葉は、情緒を表す言葉よりも決断とか、判断力を表す言葉と考える必要があるというのです。
そうすると、この詩篇の三節の「たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。」というのは、気持ちの面では大丈夫というのではなくて、頭で考えて、理性的に考えても大丈夫だ、という結論をだすことができるという意味になります。
光である神、よみがえりの神を信じるということは、ただ、心の問題として大丈夫に思えるということなのではなくて、現実的な問題が起こっても、冷静にそれは恐れることはないのだと判断することができるということです。

それで、この後「聞いてください主よ」と祈った後で、もう一度この「心」という言葉が出てきます。八節にこう記されています。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。

新共同訳聖書はこの箇所をこう訳しました。「心よ、主はお前に言われる。『わたしの御顔を尋ね求めよ』と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。」
心が、ここで判断をするところであることがここから良く分かると思います。気持ちの問題としてではなくて、腹に決めるというような意味がここにあるのです。これは、私たちでもそのような言い方をするので、ニュアンスは良く分かるのではないでしょうか。

「主よ、聞いてください」と私たちが主に祈る時、主は私たちの心に語りかけてくださるのです。主がここで心に語りかけられるのです。「わたしの御顔を尋ね求めよ」と。
自らの意思で、神を求めること、そこにあなたの心があることが大切なのだということです。

主が天に帰られてからもう二千年の時がたちました。私たちは、この時から今日に至るまで、主を失ったままです。しかし、私たちは知っています。主が約束の聖霊を与えてくださったことをです。私たちの心が確かな確信をもって、主を心に留めておくことができるように、主は約束の聖霊を送ってくださいました。
主よ、聞いてください。との祈りは、私たちの個人的な悩みを打ち明ける祈りをしない際ということよりも、むしろ、私たちの心の叫びを知ってくださいという意味です。

どうか、御顔を隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

とこの祈りは続きます。
主に祈り求めながら、ダビデは、「主が私の助けです」と告白します。そのように、主は私たちに助け主としての聖霊をお送りくださったのです。

このゴールデンウィークに、私が教えております、東海聖書神学塾の主催するCS教師研修会が栄聖書教会で行なわれました。大変多くの教会学校の教師の方々が熱心に学びに来てくださいました。もうこの集まりを続けて二十年になりますけれども、数年前からこの集まりの責任を任されるようになりました。毎年大きな集会の準備をすることは大変なことですけれども、毎年百人を超す教師たちが集まってくるのです。今は特に、一日神学校というシリーズで、毎年神学校の授業を味わうことができ、なおかつ教会学校の教師たちに必要な学びを提供しようという試みを行なっています。去年は、ざっくりつかむ旧約聖書というテーマで神学校で旧約学を教えてくださっている先生が教えてくださいました。今年は、がっつりつかむ新約聖書というテーマで私が担当することになりました。
約二時間の講演です。新約聖書に何が書かれているのかをつかみ取ってもらおうということで、私もずいぶん苦労しましたけれども、みなさん、よく聞いてくださいました。
新約聖書というのは、そこでもお話しをしたのですけれども、主イエスが天に帰って行かれてからずいぶん長い期間を経て生まれました。最初に書かれたのは福音書ではなくて、パウロの手紙です。福音書が書かれるようになったのは、この時から約三十五年以上たってからです。
なぜ、そんなに時間がかかったのかというと、教会は主がすぐ来てくださると信じていたからです。そして、主の復活の証人が当時はたくさんいたのですけれども、時間がたつにつれて、少なくなるにつれて、記録しておく必要がでてきたためです。このようにして、新約聖書は少しづつ整理されて、今のような形になっていきます。今、私たちはこの聖書を通して、神さまのことを良く知ることができるようになっています。日ごとに、この御言葉に触れながら、神の言葉に応えて生きることができるようにされています。この全ては聖霊の助けがあって成り立つことです。聖書が出来たことも、私たちの歩みが毎日支えられているのも、聖霊の働きがあってこそです。聖霊に支えられながら、教会の人々は臆することなく主を待つ覚悟をしたのです。そして、聖書が生まれていったのです。
ですから、私たちは今、この時代に私たちは聖霊が与えられ、教会の交わりが与えられ、聖書が与えられているので、心細い思いをすることなく、大胆に主を信じることができるのです。主がそのように備えてくださったのです。そして、私たちの主は、天に上げられる前に、私たちに沢山の約束を残して行かれました。私たちは主に幸いを約束されて生きることができるようにされているのです。

この詩篇はこのように結んでいます。十三節、十四節です。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。———  待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

私たちがこの地で、「主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら」それはなんという悲しい事でしょう。しかし、主は私たちに、主が約束してくださったものを信じることができるように、信仰さえも与えてくださいました。この「いつくしみ」と言う言葉は、「恵み」と訳されることの多い言葉ですけれども、「幸い」という言葉から出来た言葉です。神が約束してくださる幸いを、主は私たちに見せてくださる。信じさせてくださるのです。
「雄々しくあれ」とこの詩篇はその最後に招いています。確信を持って信ぜよということです。その言葉は「心を強くせよ」と続きます。ここにもまた心という言葉が出てきましたが、自分の意識をしっかりもって決断して、主を待ち望む信仰に生きるのだと、この詩篇は結んでいるのです。なぜなら私たちは聖霊が与えられ、教会が与えられ、聖書が与えられているからです。ですから、私たちは喜びをもって主の約束された幸いを心待ちにすることができるのです。
教会がずっと抱き続けて来た大事な祈りは「主よ来てください。」という祈りです。これは、教会の歴史の中から生まれた教会の祈りです。それは、主を待ち望みますという祈りと言い換えることもできます。
私たちの現実を見ながら、そこで落胆するところに、私たちは置かれているのではないのです。どのような現実にあっても、勇気をもって勇ましく、将来に期待を持って生きる。それが、私たちに備えられた約束です。私たちは、主の幸いに生きるものとされているのです。そして、いつでも、「聞いてください、主よ」と祈ることができるのです。主はいつでも、私たちが祈るのを待っていてくださいます。そして、主は待っていてくださると当時に、大きな幸いを備えていてくださるのです。

お祈りをいたします。

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