2013 年 5 月 19 日

・説教 使徒の働き2章1-13節 「主の教会の誕生」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:20

2013.5.19

鴨下 直樹

今日はペンテコステです。教会に聖霊が与えられたことを祝う日ですが、この日は教会の誕生日などと言われる日でもあります。私たちの教会の歩みはここから始まったということができるのです。
今日特にこの礼拝で考えてみたいと思っていることは、教会はどのように歩んでいくのかということです。このペンテコステの日が教会のスタートでした。これまでは、主の弟子たちの集まりというのはユダヤ教の中の一部という見方でしか見られていませんでした。けれども、このペンテコステ以降、教会ははっきりとユダヤ教の分派ではなくて、まさに、主はこの教会を建て上げるために、これまでの歩みを備えてきてくださったのだということが、この世界に示されたのです。そのために、不可欠なのは何かというとこの日、私たちに与えられた聖霊です。

この日、何が起こったのか。そのことはこの使徒の働き2章の1-4節に記されています。

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

この日、集まっていた人々の上に分かれた舌のような炎がひとりひとりにとどまって、どうなったかといいますと、他国のことばで話し出したのでした。私ごとですけれども、私たちがドイツに行った時に、最初の一年の間、特に心に覚えたのはこの聖書の言葉でした。私たちにも聖霊が与えられているのだから、どうして、ドイツ語をたちどころに全てを理解して話せるようにならないのかと。言葉の壁にぶちあたるたびに、この聖書の言葉に羨ましさを覚えました。もちろん、これは、単に外国語が話せるようになったということなのではなくて、すべての国の人々に福音を語ることができるようにされたという、ひとつの大きなしるしの出来事です。これは、何を意味したのかと言うと、この日生まれた教会は、ユダヤ人たちのものだけなのではなくて、すべての国の人々が神の民に招かれているのだという大きなしるしでした。こうして、この日以来、教会はすべての民族に、ありとあらゆる人々に福音が届けられるようにされたのでした。

海外で生活しますと、まず最初にぶつかるのが言葉の壁です。言葉が理解できなければそこで生活することが出来ませんし、その人たちを理解することも出来ません。ですから、神は、すべての人に福音がとどけられるための障害を、主はまず最初に取り除いてくださったのです。
そうしますと、言葉が通い合えばすぐに問題は解決に向かうのかというと、そうではありません。残念ながら、言葉の通い合う日本人同士であっても、同じ岐阜弁をしゃべる者どうしであって、いや、同じ家族、兄弟であっても、言葉が通じないという経験をするのです。けれども、それぞれの違いを壁を乗り越える努力は、その後の教会にはそのまま課題として残されたのです。

先日のゴールデンウィークに東海聖書神学塾が主催する教会学校教師研修会が行なわれました。二時間の新約聖書の主題講演をした後で午後にいくつかの分科会に分かれ、そこで私とマレーネ先生とは同じ分科会を受け持ちました。この分科会で初めに主題講演の質疑応答の時間をもうけまして、その後は、新約聖書から子どもに向かって説教をするCS教師のための説教演習という時間でした。
そこで、ふたりの神学生が代表して説教をしたのですけれども、男性の神学生は、このペンテコステのテーマを説教に選んだのです。その説教は大変ユニークな語り出しでした。
「みんなは、学校で宿題がだされるよね。このゴールデンウィークにも宿題がでたかもしれないけれども、もし、その出された宿題の答えが分からなかった時、どうする?」という質問から始まったのです。私はこの神学生の説教を非常に興味深く聞いたんですが、その後、参加者がこの説教について、コメントを入れるのです。みんなそれぞれの教会学校の教師たちです。私たちの分科会には五十名ほどの参加者がいたと思いますけれども、中には牧師も混ざっています。その人たちのこの神学生のした説教の評価はあまりよくありませんでした。色々な人がこの神学生の説教に対してコメントをしたのですが、ほとんどが技術的なことでした。もっとこうしたらいい、ああしたらいいと言うのです。
でも、その神学生がその説教で語ろうとしたのは、イエス様がいなくなった弟子たちは、沢山の課題を託されたままイエス様がいなくなって不安に思っていた時に、聖霊が与えられて、この課題を相談することができるようにされたのだということを語ろうとしたのです。子どもに聖霊を語る時に、子どもたちの視点で聖霊について話せば伝わるのではないかというところまで考えて準備をしたのは、なかなかよい視点だと私は思いました。

私たちはお互いに言葉は通じても、お互いの意図が正しく伝われないということで、慌てふためくことがあるのです。自分はそういう意図で話したのではないのに、ある一部分だけが伝わって誤解を招いてしまう。昨日も、大阪の政治家の発言の一部分だけが伝えられて、本人がずいぶん腹を立てたなどというニュースを聞いたばかりです。日常によくおこることです。誰もが毎日経験していることです。そういう私たちの非常に現実的な課題を、自分一人で何とかしなければならないのではなくて、主が約束の聖霊を与えてくださったので、私たちは勇気を持って伝道できるのだということなのです。

ですから、このペンテコステに弟子たちが色々な国の言葉で話すことが出来るようになったというのは、もちろん、表面的な解決だけを与えて、本質的な解決は私たち任せたということなのではなくて、まさに、その大事な部分、本質的な部分でも、主はこの聖霊によって、助けを与えてくださるのだということが、この出来事の中にあらわされているといえます。

続く五節から八節にはこうあります。

さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話をしているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。」

聖霊が与えられて言葉が伝わるようになった教会ですが、この後にも出て来ますが最初の人々は

「彼らは甘いブドウ酒に酔っているのだ。」と言って嘲る者もいた。

という状況でした。最初の人々の評価は驚きと、怪しんだ、そして嘲ったということばが続いているのです。人は自分の理解を超えた出来事を、それほど簡単に受け入れることはできません。主イエスがよみがえったこと。それから弟子たちと共に40日の間おられたこと、そして、聖霊が与えられたこと。この五十日で起こったことは、これまでの常識で考えられることをはるかに超えていました。けれども、それに臆することなくペテロは説教を始めます。それがこの後続きます。本当であれば、このペテロの説教を丁寧に文責してみると面白いのかもしれませんれども、今日はその時間はありません。
けれども、ここで語ったペテロの言葉は、人々の心に届いていきます。最後の四十一節には

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

とあります。ペテロの言葉はまさに聖霊に助けられながら、人々に届いて、そうして教会が生まれたのです。ペテロが語った内容は簡単にまとめれば、死からの解放と、罪の赦し、そして、主からの贈り物として聖霊が与えられたということです。

先日、我が家の郵便受けに広報のチラシが入っておりました。その中の一つに日本赤十字社、日赤岐阜のチラシがありました。ご覧になった方も多いと思いますが、そのチラシには「人間を救うのは人間だ」と大きく書かれていました。それはそうだと思います。救急で飛んで行って助けを必要としている人のところにまで駆けつけて、病院まで搬送するのはこの人たちの働きなのだと思います。「人間を救うのは人間だ」。けれども、同時にそのチラシを見ながら「人間を本当に救うのは人間だ」とは言えないと思うのです。その時の困難な状況、緊急な搬送は人間の力ですることはできます。それで、一命を取り留めるということはあるでしょう。そのために、懸命に働いている人たちがいることは、本当に尊いことです。本当に尊敬に値することです。けれども、一命をとりとめても、本当の救いになるわけでは必ずしもないのです。
人間の心の闇の部分、誰にも触れることのできない部分に、本当に触れて、救いを与えるのは、人間ができることではありません。それは、神の領域です。そして、まさに、その神しか触れることのできない領域に、聖霊が働きかけてくださって、私たちの本当の救いを、つまり、死の問題と罪の問題の解決を与えてくださるのです。このようにして、教会は、聖霊が働いてくださるときに罪の赦しと罪の解決を与えることができるのだと、御言葉を語り続けるのです。
教会は、聖霊により、人を本当の救いに招くことのできるところです。そのために、教会は、このペンテコステに誕生して、今日までその歩みを続けているのです。それは、生ける神と出会うところとも言い換えることができます。神は、生きて働いていてくださることが、聖霊をとおして、私たちは体験することができるのです。

もう間もなく祈祷会のダビデの学びが終わります。先週は第二サムエル記の二十二章にあるダビデの詩篇を学びました。ここに、ダビデの信仰の告白の言葉があるのですが。ダビデは告白します。「主は生きておられる」と。私自身、このために新しく気づかされたのですが、このダビデの時代、民を導く神は戦いに敗れてしまうと、死んでしまうか、あるいは、戦いに敗れた国の神々に仕える神となるという考え方がありました。けれども、ダビデはその生涯、サウルに追われ、ペリシテ人と戦い、同胞たちと戦い、自分の息子のアブシャロムに追われる生涯をすごしながら、自分の実体験として、「主は生きておられる」と告白しました。そう告白できるということは、イスラエルの神は、生きて働き続けてくださっておられるお方だと言う、自分の経験から生まれて来た信仰の言葉でした。

私たちは、主イエスの復活を信じることを、聖霊によって信じさせていただきました。そして、私たちも同じように、主は生きておられると告白することができます。それは、神は、途中で私たちを投げ捨ててしまう神ではないという告白でもあります。それは、聖霊が私たちに働き続けてくださることによって分かるのです。この聖霊が、今も生きて働かれる神が、私たちと共にいて下さり、私たちの毎日の歩みを、確かなものとしてくださるのです。ですから、私たちも、ダビデのように、心からの実体験からうまれた告白として、主は生きておられる。私は、主を、私の救い主として信じる。このお方は、私の人生の闇も、誰にもどうすることもできない闇でさえも、導き、光へと招きいれてくださるお方なのだと、そう心から信じて告白したいのです。

お祈りをいたします。

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