2014 年 10 月 5 日

・説教 ヨハネの福音書7章1-9節 「わたしの時と、あなたがたの時」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:36

2014.10.5

鴨下 直樹

来週の火曜日にマレーネ先生がひさしぶりに日本に来日されます。来日と言うべきか、再来日と言うべきか、いつもですと帰国するという言葉を使いそうになります。ついドイツ人であったということを忘れそうになるのですけれども、ドイツから来ておられますから、来日と言うべきなのでしょう。先日、マレーネ先生から郵便が届きまして、その中にドイツのクリスマスの季節のお菓子が入っておりました。もうドイツではクリスマスのものが店に並び始めるようで、とても懐かしい思いになります。この季節はドイツでは一番いい季節と言うことができるかもしれません。そう考えますととても楽しくなってきます。

この季節には、どこの国でもそうですけれども、秋祭りが行われます。この芥見の地域も子供たちが神輿を担いで回ります。最近は、色々な信仰の人がいるためか、おみこしも、アニメのキャラクターのものを作ったりしながら配慮をしているようですが、この地域も子供がすっかり少なくなってしまって、先日の回覧板によると、教会の前は通らないということでした。

最近は、10月になりますとオレンジ色のかぼちゃが店に並んで、ハロウィンというお祭りの気分を盛り立てています。あれはアメリカの習慣なのでしょうか。あまり詳しいことは知りませんが、もともとは、10月31日の宗教改革記念日とこの時期に祝われる収穫感謝祭を合わせたものと、土着の宗教観からうまれたもののようです。以前、教会に電話がありまして、ハロウィンというのはキリスト教の祭りだと思いますがどういう意味ですか、と聞かれたことがありますが、どうも、横文字のお祭りはキリスト教のものというイメージがあるようです。

もう数年前のことですけれども、ドイツの宣教団体が主催した牧師の研修旅行に出席しました。その時に、いくつかの旧東ドイツの教会を訪ねる機会がありました。ちょうどこの季節です。この旅の最後に、ベルリンの教会を訪ねました。その中で一日自由時間があったので、私は目当ての美術館を訪ねようとベルリンの市街を歩いていると、イスラエルの大使館だと思いますけれども、たまたまその前を通りました。そこだけは兵士の恰好をした守衛がいたのが印象的でした。この大使館の建物の駐車場のところに、緑の葉で覆った小屋が作られていました。ちょうど、この季節は仮庵の祭りの時期だったのです。この仮庵の祭りと言うのはユダヤ人たちが大切にしている祭りで、かつてイスラエルの民がモーセの時に荒野を旅したことを忘れないために、その一週間は家に泊まらないで、外に造った仮庵で寝泊りするという習慣があるのです。今でもその習慣は続いているようです。その祭りは季節が秋だったこともあって、収穫の祝いという性質もあったようです。

この祝いの時は、旧約聖書の時代の人々はエルサレムまで旅をしたようですが、だんだんと、シナゴグと呼ばれた会堂でおこなってもよいということになったようです。けれども、紀元前600年ごろのことですけれども、ヨシアの宗教改革の時に、もう一度、エルサレムまで行くように改められました。それで、主イエスの時代には、みな仮庵の祭りの時にはエルサレムまで旅をすることが一般的になっていました。

ところが、その祭りの時に、主イエスはエルサレムに上ろうとは思われませんでした。というのは、「ユダヤ人たちが主イエスを殺そうと考えていたからである」と1節にあります。お祭りというのは、楽しい気持ちで臨むものでしょう。しかも、この前の6章でも前半は、主イエスに対しては大歓迎だったのです。そして、結果として人々は主イエスから去って行きました。しかし、ここでは、その人々が主イエスに対して殺意を覚えたというのです。

7節にはこうあります

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます

「世は主イエスを憎んだ」のでした。何故でしょうか。その理由が続いて書かれています。

わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです

人々が主イエスから離れていったのは、主イエスが人々の願いに応えられなかったからです。それだけでも確かに腹の立つことですけれども、主イエスは、それが原因だとは考えておられません。そうではなくて、主イエスは、世が、あなたが考えていることは悪いことだと、行っていることは悪いことだと明らかになさるというのです。だから憎むのです。

みなさんでも経験のあることかもしれません。誰かに何かを頼もうとしてその人のところに行きます。そうすると、その期待をしていた人から反対に、私にそれを頼もうとすることが間違いなのだということを理路整然と語られて、結局やってもらえない。引き受けてもらえない。頼んだ方からすれば、がっかりしてしまいます。途方にくれてしまいます。それだけでなくて、家に帰って冷静になればなるほど、腹が立ってきます。自分が頼んだことがそれほどおかしいことだったのか。それほど無理難題を押し付けただろうか。そうやって憎しみが膨らんでいってしまうということが起こるのです。

私たちの日常でもよく起こることです。先日も、ある教会でそういう訴えを聞きました。主イエスは、人々の願いに答えられなかったからです。期待に応えようとしなかったのです。そればかりでなくて、その人の罪を浮き彫りにさせたのです。それで、人々は主イエスを憎んだのです。そして、その思いが膨らんで殺意にまでなっていったのです。

今日の聖書箇所はとても興味深いことが書かれているのですが、ここに出てきているのは、「イエスの兄弟たち」と3節にあります。どうも、弟子とか、群集とか、ユダヤ人たちとか、いろいろな言葉の違いを注意深く使っているのがヨハネの福音書ですから、この「イエスの兄弟たち」というのは、弟子たちという意味ではどうもなくて、実際の兄弟たちのことのようです。

新約聖書にヤコブの手紙とかユダの手紙というのがあります。これらの著者は主イエスの兄弟だと書かれています。ヤコブは、聖書の中に何人も出てきますし、主イエスの十二弟子の中にも二人ヤコブという弟子がおりましたら、間違えてしまいそうですけれども、ヤコブの手紙を書いたのは、後にエルサレム教会の監督になった主イエスの弟のヤコブであったようです。そのように主イエスには何人も兄弟がおりますから、その兄弟たちがこう語ったと考えて良いと思います。しかも、この7章というのはガリラヤ周辺の出来事ですから、主イエスの郷里と言ってもいいわけです。主イエスの兄弟たちもまた、主イエスの弟子たちと共に、日を過ごしたというのは考えられることでしょう。ひょっとすると、その場合の兄弟というのは、親戚の者、いとこなども含まれたのではないかと考える人もあります。そうであったかもしれません。いずれにしても、その主イエスの身近にいた兄弟たちは、主イエスの業を、言葉を聞いてきました。この彼らが言いました。

「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」

3節と4節にこのように書かれています。内容を読んでいますと、この兄弟たちは応援しているように読み取れます。こんないなかにいないで、今は祭りの季節でみんながエルサレムに行く。今こそチャンスだから、エルサレムに行って、これまでやってきたことを見せたらどうだろうかと言ったのです。

ところが、5節では「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」と書かれています。もう、お分かりのことと思います。主イエスの兄弟たちは、良いと思うことを言ったのです。それが、一番近道だと言ったのです。主イエスの語られること、なされることは、すばらしいことだ。ぜひ、公にするべきだ。だから、エルサレムに行ったらいいと言ったのです。主イエスの兄弟たちは、主イエスを兄弟たちなりに理解し、信じたのです。だから、アドバイスしたのです。もっとも効果的だと思えることを話したのです。

それにたいして主イエスはこう言われました。「わたしの時はまだきていません」と。

主イエスの兄弟たちからすれば、これこそが絶好の時、絶好の機会でした。けれども、それは、主イエスの時ではありませんでした。「時」を表す言葉は新約聖書の中に主に3種類あります。一つは「クロノス」というギリシャ語ですが、時間の「量」と言ったらいいでしょうか、時間の重なりを表現する言葉で、「長い時間をかけて」という意味で使ったり、あるいは、年表とか、年代記などで表す時間もこの「クロノス」という言葉を使います。もう一つが「ホーラ」という言葉です。これは、時刻を意味します。英語でいう「hour」(アワー)です。そして、最後に「カイロス」という言葉があります。この「カイロス」はヨハネの福音書ではこの7章の6節と8節にだけ出て来る特別な使い方をする言葉です。それは、自分できめた「時」ではなくて、父なる神がお決めになる「時」です。言ってみれば主イエスのためにだけ定められた「時」です。

いくら、主イエスの身近にいる兄弟が今が「時だ」、いまこそ「好機だ」と言ったところで、主イエスはそのようにはお考えにならない、「わたしの時」、神がわたしに定められた時」はまだなのだと、主イエスは言われたのです。それは、あなたにとって、「今」が、都合のいい時なのかもしれないけれども、そんなことに私は支配されないという意味なのです。

電子レンジの祈りという言葉を聞いたことがあるでしょうか。まぁ私が作った言葉ですから聞いたことがないかもしれませんが、わたしだけではなくて、きっと色々な人がすでに語っている言葉だろうと思います。近頃はとても便利になって、レンジでチンするだけで、すぐにあたたかい食べ物を食べることができます。先日何かで見た調査では、7割の人が「チンする」という言葉を理解できるのだそうです。私はそれを聞いてまだ3割理解できない人がいるのかと驚いたほどです。祈りも同じように、「チンする」ように、簡単に神様が願い事をかなえてくれるとどこかで思い込んでしまうところがあります。せっかちになっているのです。今すぐ祈りをかなえられない神など信じるに値しないではないかと考えてしまうのです。しかし、その時に、人はお祈りにおいてさえ、神を脅しているということに気付かなければなりません。人は人であり、神は神です。主イエスはここで、わたしの時と、あなたがたの時は違うのだと言っておられます。

そして、私たちはそういう言葉を、自分を否定されるように感じる言葉を耳にすると、その人を憎んでしまうのです。しかし、その時、わたしたちは、主イエスが言われる「わたしの時」というのが、どういう時を指すのかまで知ろうとしません。主イエスが、どのような時をわたしの時と言っておられるのかを知ろうともしないで、自分の都合だけで判断するのはとても残念なことです。

主が語られることの中にこそ、私たちは、本来私たちが得なければならない美しいものがあるのだということを知らないままに、主から去って行ってしまうのは残念なことです。

ヨハネの福音書はこの7章から12章までかけて、実に丁寧に、主イエスはご自分のことをどのようなものだと言われたのか、耳を傾け見るようにと促しています。主は、人を簡単に切り捨てられているのではないのです。そして、私たちはこの福音書の最後に、主イエスが言われた「わたしの時」がどの時のことを指すのかを知らされるのです。

それは、言ってみればカップにしずくがたまって、ついに溢れ出すかのように、神の愛がたまりにたまって溢れ出して流れ出す瞬間です。人は、自分の欲望、自分の願い、自分、自分と心が向かおうとする中で、主イエスはひたすら、人へ、人へと心を向けられて、人を愛する思いの完成された時としてご自分を示されました。

私たちは誰もが、この「わたしの時」と言われた、主の時が、私たちに届けられるようになるのを待ち望み続けたいのです。

お祈りを致します。

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