2015 年 11 月 1 日

・説教 創世記28章10-15節「石の枕」

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2015.11.1

鴨下 直樹

 
 ヤコブは逃げていました。お兄さんのエサウからです。本当はお兄さんのエサウが貰うはずの祝福をヤコブはだまして貰ってしまったのです。お父さんのイサクはもう年寄りで、目が悪くなっていたので、見ても誰が弟で兄なのか分かりません。けれども、兄のエサウは毛むくじゃらで、いつも外で狩りをするような勇士です。一方ヤコブは、肌もツルツルして、今で言えば草食系。目が悪くなければ見間違えるはずなどありません。ところが、ヤコブはお母さんのリベカと相談して、体に動物の毛を張り付けて、ちょっと声も変えながら、お父さんに自分はエサウだと言ってだましたのです。そして、お父さんのイサクから祝福のお祈りをだまし取ったのです。ヤコブは知っていました。祝福のお祈りをしてもらうことが、その後の自分の人生に大きな祝福を実際にもたらすということを。

 ヤコブはイサクから祝福のお祈りをしてもらいました。もう祈って貰ったらこっちのものとばかりに、エサウに見つかる前にヤコブは逃げ出したのです。エサウは狩りをする猟師です。とても強い勇士です。祝福を奪い取ったことを兄のエサウが知ったら追いかけて来てやっつけられてしまうに違いありません。ヤコブは、頭は良かったかもしれません、ずる賢かったかもしれません。けれども、決して強くはありません。だから逃げたのです。その日のうちに、できるかぎり遠くに逃げたいと思ったのです。そして、100キロ離れたところまで逃げました。ここまでくれば、もう追いついて来ないだろうと、少しほっとしました。ほっとしたと同時に、走り疲れて眠たくなってきました。旅をするつもりで用意をしてきたはずですから、少しは荷物も持っていたと思うのですが、そこらへんにあった石を枕にして眠ってしまったのです。

 ヤコブは昨日まではふかふかのベッドで眠っていました。けれども、祝福のお祈りをしてもらったために、逃げ出さなければならなくなりました。神様の祝福を祈って貰ったばかりだというのに、今、ヤコブは祝福とは程遠いところに置かれています。しかも、疲労困憊で、石を枕にしなければならないというありさまです。この、ヤコブのどこに神に祝福された者の姿を見ることができるでしょう。神の祝福というのは、いったい、どうなることなのでしょうか。

 今、ヤコブは100キロも走りとおして、ようやくほっとして今日の野宿です。そして、石を枕にしながら、明日はどうするのかとの思い悩みを後回しにして、眠りにつくのです。しかし、まさに、この石を枕にして寝ているこの瞬間こそが、ヤコブにとっての人生のターニングポイントになるのでした。

 その夜のことです。神はヤコブに一つの夢をみさせられました。「彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが、地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」と12節にあります。一つのはしごが天に向かって伸びているのです。そのはしごは天にまで届き、天使がそのはしごを上り下りしているのをヤコブは見ました。

 ヤコブが考えていたのはこの地上での生活のことです。これから自分がどうなるのかということ。家を逃げ出して、見知らぬ土地を訪ね、そこで生きたとしても、それが神に祝福された生き方といえるのか。まるで負け犬の生き方ではないか。そんな考えがヤコブの頭をよぎったのかもしれません。しかし、ヤコブの見た夢は、天と地がひとつのはしごで結ばれていて、天使が天から降りてきている光景を見たのです。ヤコブは大きな発見をします。

 「そうだ。神は天におられ、天の祝福をもたらすために忙しく働いておられる。天のまばゆいばかりのこの輝きは神のみもとにある豊かな祝福の宝庫なのだ。」

 ヤコブはこの天の素晴らしい祝福が自分のところに運ばれてくる姿を夢で見ているのです。そして、それは、夢に終わることなく、今度はそこで神の声が聞こえてきます。

「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

そのように13節から15節までに書かれています。
 
 しかし、誰がここでヤコブに語りかけられた神の壮大な祝福の計画を予想することができたでしょう。兄に殺されると必死に走りとおして100キロも遠くに逃げて来たのです。これからの見通しも立たず、ただ、祝福の祈りをしてもらったというだけでは、自分の生活の現実は何も変わらない。その姿は、今日の私たちにもそのまま当てはまります。これは、私たちの物語だと言ってもいいのです。私たちはヤコブとともに知らなければならないことがあります。それは、神が私たちの生活とともに働かれるならば、それは、これまでの生活とはまるで違うものとなるということです。

 ヤコブはやがて名前をイスラエルと変えることになります。今日、世界の誰もが認める神に祝福された民族となっています。それは、神がこの時の約束を今も覚えて、イスラエルの民を祝福し続けておられるからです。
ここで神がヤコブに語りかけられたこの言葉の中に、三つの約束の言葉があります。それは、「いつもともにいる」と、「約束を必ず成し遂げる」、そして、「決してあなたを捨てない」と言う言葉です。もちろん、約束の内容としては子孫が数え切れないほどになるという約束がありますし、この地上の人々はこのヤコブの子孫がいることによって祝福されるという約束も語られていますが、私たちが心にとめたいのはこの三つの言葉です。

 私たちの主イエス・キリストはインマヌエルと呼ばれるお方です。これは「わたしはいつもともにいる」という意味です。主イエスは私たちと共にいてくださって、私たちに神の祝福をもたらせてくださいます。そして、聖書に語られている一つ一つの約束はすべて私たちに与えられるのです。聖書にどんな約束があるのか。それは、沢山見出せば、見出しただけ、その人は神の約束を頂くことになるのです。その一つは最初にあげた「主はいつも共にいる」という約束ですが、その一つだけでも、どれだけ私たちをささえることになるでしょう。私たちはこの「主がいつもともにいる」という約束をいただいたその瞬間から孤独ではなくなります。誰も自分のことを理解してくれない、誰も、私なんて見ていてくれていない。誰も、私の事を愛してくれない。そのような一つ一つの悲しみから私たちは救い出されるのです。私たちを祝福してくださる神、主は、私たちにした約束を現実のものとしてくださるのです。そして、最後の約束は、「わたしは決してあなたを捨てない」です。イスラエルは一度滅んでしまいました。ユダヤ人がひどい迫害を耐えてきたことは世界の誰もが知っています。しかし、今、そのような苦しい時代を味わっても、なおも、イスラエルは神に見捨てられることなく、いまもこの世界の中心でありつづけています。そのように、神は、私たちを捨てることなく、私たちを支え、はげまし、私たちを保ってくださるのです。

 この後で、子どもたちに祝福の祈りをいたします。子どもたち一人ひとりに、この神の祝福があるように覚えて祈りたいと思っています。そこで、覚えていただきたいのは、一緒に祈る私たちも、この子どもたちが祝福の存在となるように祈りに覚え続けていただきたいということです。
古代の教会の教父、アウグスティヌスは一度信仰を離れてマニ教という宗教に傾倒してしまいました。しかし、母モニカは祈り続けていました。そして、アウグスティヌスはやがて、信仰に立ち返り、教会の代表的な指導者になりました。それは、母モニカが「祈りの子は滅びない」と教会の先生に聞いた言葉を心に留めて祈り続けたためです。

 私たちの神、主は人を祝福したいとおもっていてくださるお方です。子どもも、そして私たちも、神の祝福のもとに生きることをなによりも神ご自身が願っていてくださるのです。

お祈りをいたします。

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