2009 年 6 月 7 日

・説教 「誘惑の果実のいのちの木」 創世記3章1-24節

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 13:48

 

鴨下直樹

 

今日は、教会の暦では三位一体の主の日です。ときどき私は不思議におもうのですけれども、礼拝の説教と、この教会の暦、この両方を芥見教会の礼拝では意識しながら礼拝の次第を作っているのですけれども、不思議なことに礼拝の説教と、この教会の暦がピタッと合うのです。先週は「神の霊が与えられた人間」というのが、創世記第二章の主題でした。そして、それと、ペンテコステとが計算したわけではありませんが、ぴったり当てはまっておりましたけれども、今週も同じことがいえると思います。

今週は創世記の第三章です。ここには人間の罪のことがでてきます。そして、教会の暦では三位一体を覚えています。神は三位一体です。これはキリスト教会がずっと大事に信じているもっとも大切な教理の一つです。そして、このことを信じることができなければ、洗礼を受けることができません。先週も、何人かの方々と個別で、洗礼の準備会をいたしました。そこで、二人の方がちょうどこの「三位一体の神を信じる」というところを学んだのです。それは、先週の礼拝でもお話ししましたけれども、神は向かい合う存在として、父、子、聖霊なる神がそれぞれの人格を持ちながら一つとなっているという。そして、そのような関係をよく表しているのが、夫婦の関係であるということをお話しいたしました。

男と女が互いに助け合い、補い合う存在として神に創られ、そのお互いがまた神と向き合っている。それは、まさに三位一体の交わりです。神は人間をそのように、神と向き合い、男と女が、あるいは、それぞれの者が向き合って一つとなるように作ってくださいました。それが、本来の人間の姿なのです。

ところが、今私たちがともに聞いた御言葉は、そのようなお互いが、互いに攻め合い、責任をなすり合うようになってしまったのです。男と女のみならず、神との関係までもが破壊されてしまいます。こうして、人間は三位一体ということが、よく分からないものとなってしまったのです。

 

 神が美しく、完全な世界に、闇が差し込んできているのです。ここに「蛇」が登場します。このところには「悪魔」ですとか、「サタン」というような私たちが耳慣れた言葉は出てきません。しかし、蛇というのはどうも昔から神秘的な力を持つよ考えられたようです。日本でも多くの神社などに蛇を祭ったものがありますが、そのような考えは日本だけはありませんで、世界中、そしていつの時代でも見られます。もちろん、この「蛇」というのは、物語の上での表現なのですけれども、それでも、この存在が神から人を引き離すものとして描かれています。「蛇が一番狡猾であった」と新改訳では訳されています。そうしますと、いかにも蛇がずる賢い感じですけれども、他の聖書では「蛇が最も賢かった」となっているだけです。というのは、この言葉は「賢さ」ヘブル語で言うと「アルム」という言葉です。そして、この後でこの「アルム」、「賢さ」が問題になるのです。今はこれだけ説明しておいて、後でそのことにもう少し触れたいと思うのですけれども、蛇はその賢さを用いて、女に話しかけます。

 「あなたがたは、園のどんな木からでも食べてはならない、と神は本当に言われたのですか」(1節)。

 この蛇の問いかけは、まさに賢い問いかけでした。こう聞くと、誰もが「神は何か意地悪をしておられる」という気持ちがしてくるからです。けれども、神は、2章16節においては「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と語られたのですから、まるで違います。この、蛇のように問いかけられれば、誰だってどうしても神が禁止されたことが気になります。そのようにして、蛇は賢く、人の思いを操っていくのです。そして、その蛇の言葉にまんまと乗せられてしまうのです。ですから、それに応えて女は言います。

 「私たちは、園にある木の実を食べて良いのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなたがは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」(2-3節)

 そうです。もう女は騙されてはじめているのです。神は「それに触れてもいけない」などとは言われませんでしたが、だめと禁止されると、人の心はそれを大げさにとらえてしまいます。そして、2章の17節において神は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられたのにもかかわらず、ここでは「死ぬといけないからだ」と勝手に言葉を変えてしまったのです。新改訳が「狡猾」と訳したことが良く分かる気がします。そのようにして起こったこの人の過剰反応は自然と「神は本当に人に『やってはいけない』というような限界をもうけられたのだろうか?」という疑問を浮かび上がらせてしまうことになったのでした。

 こういうことは例をあげなくても、みなさん誰もが経験のあることだろうと思います。子供の頃、冷蔵庫にお菓子が入っているけど、あれは食べちゃ駄目だからね。と言って母親が出かけて行きます。その後、どうしても冷蔵庫の中身が気になる。すると、考えます。そうして食べてはだめなんだろう?後でどうせ食べるんだから、先に自分だけ食べてもいいのではないか?と考えてしまうのと同じ心の動きでしょう。

 

 いずれにしても、こうして蛇は言葉巧みに、誘い込んだのです。誘惑というのはいつの場合でもそうですけれども、そこには何かしら人の心を惹きつける「提供物」というのがあります。蛇はここで人の心に疑問は生じさせた上で、その「提供物」を持ち出してきます。それが、次の言葉です。

「あなたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のように、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(4-5)

蛇が人に提供するのは「神のようになり、善悪を知るようになれる」ということでした。これは言い換えると、「何が人間にとって有益であり、何が害であるかについての知識」(ヴェスターマン)のことだと、ある聖書学者がいいました。神に信頼してくとも、自分で何が得で、何が損であるかが判断できる。それはまさに神のようになることです。けれども、蛇はその時に、その代りに、何を失うかは明かしません。しかも、賢いことに、この蛇は嘘を一度もついていないのです。このときの言葉に、「あなたは決して死にません」という言葉があります。これはある意味では嘘ではないのです。事実、この後で、女と男が善悪の木の実を食べてしまった後、この二人は肉体的には死んではいないのです。

 

 そうすると、あれ、ではここで神が嘘を言っておられるのか、などと考えてしまうかもしれませんけれども、そうではありません。では、ここで神が「死ぬ」と言っておられるのはどういう意味においてなのでしょうか。先週はそのことについて話すことができませんでしたので、少しそのことをお話ししたいと思います。

 「死ぬ」という言葉を聞きますと、私たちは自分たちの心臓の鼓動が止まることだと考えます。それはもちろん死です。けれども、神はそれと異なる意味で「死ぬ」ということを語っているのです。つかり、神との関係において死んでしまうということです。そして、このことは「なんだそんなことか」と済ませることはできないほど大切なことなのです。この神との関係における死は、心臓が止まってしまうことよりも恐ろしいことなのです。

 最初にお話ししましたように、人間は三位一体の神のように、神と隣人とが交わり合うように、支え合うように、造られました。けれども、その人間が神と向かい合うことを拒む、そして、その結果として隣人とも向かい合うことも拒んでしまう。そうやって、一人勝手に生きられるようは、神は人をお造りにならなかったのです。ですから、このようになってしまった人間は、もう誰の手も借りなくても一人で生きていけるという人間は、もう神との関係において完全に切れてしまっている。つまり、死んでしまっているのです。死んでしまっているということは、もうその時点で神から裁かれてしまっている、ということです。そして、そのような人が生きているということは、もはやただ心臓が動いているだけにすぎないのです。だから聖書は言うのです。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」(ローマ3章23節)と。心臓は動いて生きているようだけれども、その人は神の目から見れば死んでしまっている。まことのいのちを生きてはいないのです。

 

 では、その出来事がどのようにして起こったのか、私たちはよく知っておくためにも、この出来事に目を止めたいと思います。それは、この蛇の語りかけの後、すぐに、ここで女と男によって引き起こされてしまうのです。

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるに良く、目にしたわしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。(6節)

 こうして、二人はこの言葉に惑わされ、善悪の知識の木の実を食べてしまったのです。実に簡単にです。けれども、神はそもそも男と女を互いの助け手としてお造りになりました。ここで男は一体何をしていたというのでしょう。ここには、「いっしょにいた夫」と書かれているのです。どこかに行っていたわけではなかったのです。けれども、妻の行動に関して夫は一切黙ったままなのです。あまりにも無関心です。ある日本の聖書学者はそれでこういったほどです。「エデンの園の悲劇は妻が蛇に欺かれたことではなく、その場に立ち会った夫のこの無感動、無行動から生まれた」と。これは決して女を弁護しての意見ではありません。それは、残念ながら、男のこの後の言い訳の言葉からも明らかとなっていくのです。

 

 確かに二人は蛇が語ったように、知識を得ました。神のように自分で考え自分で決断し、神から支配されないで生きることができるようになりました。そして、その結果、二人は裸であることに気がついたのです。最初に「賢い」という言葉が、「アルム」という言葉であると語りました。けれどもここで、賢さを求めた人間は「裸」であると知るようになります。この「裸」という言葉はヘブル語で「エロム」という言葉です。アルムを求めた者が、エロムになってしまったと、ここで似ている言葉を用いて、その滑稽さを言い表しているのです。

この「裸である」ということは、どういうことかと言いますと、すべてがさらされているということです。神に全てを見られておられ、人にも見られていることを知ったのです。そして、そのことは神を見上げる存在であったはずの人間が、自分を見つめる存在になってしまったことを表しています。裸であることを知った二人は、恥ずかしいという思いを知ることになったのです。アルムを求めて、エロムになってしまったのです。

神のようになりたい。人はそう願ったはずでした。知識が欲しい、神のように判断できるようになりたいと。ところが、その結果は、自分は誤った存在となってしまったことを知り、自分を隠さなければならなくなってしまったのです。それが、人間の悲惨の始まりとなったのでした。

 

 

 そのような存在となってしまった人間に、神は二つの言葉をもって問いかけます。一つ目の問いはこうです。「あなたはどこにいるのか。」(9節です。神と私たちは向き合う存在でした。ところが、人間が神から離れた時から、神が私たちを探さなければならなくなったというのです。なぜなら、人間が隠れるからです。自分の存在を恥と思うようになってしまったからです。けれども、この問いかけの中には、神から自らの意思で離れてしまった人間に対する神の優しさがあります。それは断罪する言葉ではないのです。「あなたはどこにいるのか」と問いかけて、自分を気づかせようとする問いです。神の招きの言葉です。

 この礼拝の初めに、詩篇27篇の1-6節までが招きの言葉として語られました。この5節と6節にこうありました。

「主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私をあげてくださるからだ。今、私のかしらは、わたしを取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

 神はわたしたちをかくまってくださる方という、信仰がダビデによって告白されています。私たちは隠れずとも、神が私たちを敵からかくして下さるお方です。私たちがそのことを知っているなら、どれほど幸いなことでしょう。主は私たちを裸にされるお方ではなく、かえって私たちをかくまってくださる。これが、主の招きなのです。

 

けれどもそのことを知らなければ、自分で自分の恥を隠そう、取り繕おうと考えてしまうのです。「あなたはどこにいるのか?」この神からの問いに、男は答えます「わたしは裸なので、恐れて、隠れました」と。そこで、神からの第二の問いが語られます。

「あなたが裸であると誰があなたに教えたのか?」

この問いかけは、その責任は誰にあるのかというものです。つまり、神はここで、そうなったのは、自らが選んだのではなかったのか?と問うておられるのです。けれども、ここで夫は妻をかばうどころか、それを裏切ってしまいます。この妻に原因があるとし、いや、つきつめれば神に原因があるのではないかと神にその問いを突き返してしまうのです。それが12節です。

 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 これでは自分には何の責任もないと言わんばかりです。しかもここで、妻のことを「私の骨からの骨、私の肉からの肉」とまるで自分そのものであるとまで褒め称えた妻のことを、「この女」とさえ呼んでいるのです。もちろん、これは新改訳の訳で、他の訳はここまで感情的な翻訳ではありません。けれども、間違いなくここでは、女と、神に責任を転嫁してしまっています。こうして、人間はせっかく得た知識を、自分を守るためにさっそく使い始めるのです。

 シュヴァイツァーという聖書学者がここでこんなことを言っています。「この出来事の恐ろしさは、人間がどのように神から離れ罪に陥ったかということについて気づいていない」と。この言葉はすべての誘惑の原則を端的に言い当てています。神のようになれる。人間はそう信じて、善悪の知識の木の実に手をのばしました。はじめは、神に積極的に離れようなどとは思っていなかったのです。最初にあったことは、それこど、新しいことへの期待だったのです。私たちはそのことをよく心にとめておく必要があります。誘惑というのは、いつも、初めはほんの小さな好奇心からです。そして、最初の僅かなズレは、突き進んでいくと、大変大きくそれていくことになるのです。そして、初めはなかなか気がつかないのです。

 けれども、大切なことは、気がついたときにどうするかです。その時、神の御前に罪を認める勇気が必要なのです。そして、大胆に悔い改めることです。神は決して裁き主として、私たちの前に立ちたいと思っておられるのではなく、私たちを正しく実に導きたいと願っていてくださるお方なのですから。

 

 けれども、男も、女もここでは自らの罪を認めませんでした。それゆえに、神はここから裁きをお語りになります。ここで神が裁かれるのが、まず蛇に対してです。もうあまり時間がありませんので、丁寧には話すことはできませんけれども、ここで蛇に神は「呪い」を宣言なさいます。この「呪い」という言葉は、これがまた「アルル」という言葉です。エビの持っていた「賢さ」を表す「アルム」が、今度は「アルル」、「呪い」の存在となってしまったのだというのです。この創世記というのは、実にこのような表現が巧みです。

この世界には実に様々な知識があります。賢さがあります。けれども、その知識が、人を神へと近づけるものではないから、それは「呪い」となる。そうこの物語は宣言しているのです。

 そして、続いて妻に対して宣告されます。これは、「産みの苦しみ」と「夫による支配」です。ここで「苦しんで子を産まなければならない」とありますけれども、ここで語られる「苦しみ」は、その後、夫、ここで初めて名前がアダムとでてきますけれども、アダムに労働の苦しみを与えられます。それは、男も女も、それぞれに与えられている務めに「苦しみ」が伴う、あるいは「労苦」がともなうこととなったということです。

そして、もうひとの言葉「夫からの支配」ですけれども、この「支配」という言葉は、私たちがイメージする言葉とは意味がずいぶん異なるようです。この「彼は、あなたを支配するようになる」という言葉によって、これまで、ずいぶんと女性を束縛する言葉としてとらえられてきたようですけれども、この「支配する」という言葉は「治める」とも訳すことのできる言葉で、創世記に何度も出てくる言葉です。たとえば、1章18節では「昼と夜とをつかさどり」とされている言葉です。あるいは「罪を治める」という言葉でこの後の4章7節ででてきますし、ヨセフはエジプトを治めと、創世記の最後の方にでてもきます。このことばは所有や支配の関係というよりも、保全や保護の行為を表す言葉なのです。つまり、夫の責任で妻を保護するということであったのです。ですから、これは男が女を束縛するという意味に完全にとる必要はありません。けれども、それにしても、本来夫婦は、互いの助け手とされていたのに、夫に保護される、守ってもらう存在となってしまったのでした。そして、それが夫への依存的になり、それが、やがて支配されるようになってしまったのは、この神とお互いの関係を失ってしまったからに他なりません。

 

 そうして、いよいよ神の宣告はアダムへと向かいます。けれどもこの神の呪いの言葉は、アダムの首をかすめて、土地へ向かいます。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない」(17節)

 お気づきでしょうか? ここで呪いは蛇と土地に向けられてはいるのです。結局のところ、神のの呪いの言葉は、男と女には向けられてはいないのです。

 これは、人間に課せられた、「労働」や「出産」ということが、呪いではないということです。というのは、これまで特に「労働」というのは、呪いであると理解されることがあったのです。けれども、そういうことではないのです。神は初めから人間にこの世界を治めるという役割をお与えになりました。これは労働です。神はこの世界を正しく治める、官吏することを初めから求められたのです。けれども、これまでは神に託されたことを喜んでするつことができた。しかし、そのような労働に「糧を得るための労苦」が付加されたのです。そして、男と女はエデンのそのを追い出されてしまい、外の世界でこの労働をし、糧を得るために働くようにと仰せられたのでした。

 そして、人は園を追われたその時に、初めて気がつくことになるのです。この神と人が互いに向かいあって喜んで生きることができたエデンの園は、まさにパラダイスであったと。楽園であった。天国のようであったと。

 

 こうして楽園から人間が追放された時、神は言われます。

「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(22節)

 ここでようやくもう一つの木である「いのちの木」の役割が明らかとなります。それは人が永遠に生きるための木であったと。そして、この私たちが再び食べることのできなくなったこのいのちの木を、私たちは再び、聖書の最後の章であるヨハネの黙示録22章で見ることができるのです。そこには、「新しいエルサレム」のことが記されています。神が支配しておられる国、神の御国の世界が描かれているのです。そして、そこに、このいのちの木が置かれ、そこから取って食べることができるようのです。そのために、いのちの主であるイエス・キリストが私たちに、私たちがあの時失ってしまったまことをいのちを与えてくださるのです。聖書のはじめに書かれていることが、聖書の真ん中である新約聖書で、どうしたらこの命を得ることができるかが書かれ、そして、聖書の最後では、このいのちの木を食べることができる、新しいエルサレム、つまり、パラダイスを指示しているのです。

 聖書は本当に不思議な書物です。最初の出来事から最後まで神はずっと一筋の道をそ慣れてくださっているのです。そして、その道によって、私たちはふたたび神の前に生きる者となることができるのです。それは三位一体のお働きです。この世界をはじめられた神は、この世界の完成まで責任をもって見届け、そして、そこに私たちを招いてくださっている。この神と向かい合って生きるなら、私たちは隣人とも向かい合って生きることができるようになり、永遠のその喜びの中で生きることができるのです。

 お祈りをいたします。

 

 

 

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